第102話 変化の予兆(1)

 ベッドに置いていたスマホが短く震え、一抹の期待を胸に伸ばした手が直ぐに止まった。


「……」


 欲しかった名前の代わりに画面に表示されているのはここ最近『HANA』で顔を合わせる人物。メッセージには昼の謝罪とおでんの感想が書かれていて、最後に付け加えられた『いつでも良いので楽しみに待ってますね』の一文にスマホを持っていた腕を思わず、ぱたりと倒した。


「はぁ……」


 困惑の混じったため息をこぼす。

 出来ることなら既読スルーしてしまいたい。

 当たり障りのない返信を何とかひねり出すと、うつ伏せの身体をベットに投げ出して現実から逃げるように固く目を瞑った。


 ◇


 佐伯が約束通りに『HANA』に来店した後も春海の近況を聞くことで自ずとメッセージのやり取りは続き、話題の隙間はお互いのプライベートについて埋まっていった。


 天気、仕事の内容、休日の過ごし方、趣味、お気に入り──


 深くまで踏み込まず、仕事をしている身を考慮しての気遣いのあるメッセージは、佐伯の性格を表しているようで久しぶりにメッセージを交わす楽しさを感じ始めていた矢先──


『歩さん、彼氏いるんですか?』


 話題が恋愛の事に移った。


『いませんよ。

 佐伯さんはどうなんですか?』


 社交辞令のつもりで繋げた言葉に返信があったのはしばらく経ってから。


『僕も今のところは (笑)

 だけど、彼女になって欲しい人はいるんです』


『そうなんですね』





『それで、歩さんがもし良かったら、今度二人で食事にでも出掛けませんか?』


「……」


 スマホを握っていた手が思わず止まる。

 いくら恋愛経験のない歩でも、この流れがデートの誘いであることくらいは理解できた。


 つまり、佐伯から恋愛対象として誘われている。



「……え?」


 画面の文字と行き着いた結論に動揺し過ぎて思考が止まる。



 ──何故?


 頭に浮かんだのはそんな一言。

 面白い話をした訳でもない。気の利いたことを告げたわけでもない。普通に受け答えをしていたはずなのにどこに恋愛の要素があったのだろう。



『好きな人がいるんです』


 たった一言、そう断れば済む話だ。


 けれども、長い時間を掛けてようやく自分が認めた感情を付き合いの浅い佐伯に告げることは何となく憚られた。しかも、相手を聞かれてしまえば上手く切り抜ける自信はない。



『しばらく仕事が忙しくて……すいません』


 それ故に歩が出来ることは仕事を理由に佐伯の誘いを断り続けることしかなかった。


 例え、それが気休めにしかならないことは分かっていても。


 ◇


 先程投げ出したスマホには『既読』の文字だけがついており、今日のやり取りはここまでらしい。


 歩が佐伯に対して恋愛感情を持っていないことは薄々分かっているのだろう。だからこそ、適度な距離感で接してくれようとしている。そんな気遣いが分かるからこそ無下に出来ない自分が情けなくなる。



 スマホの画面をぼんやり見つめていると、以前花江から告げられた言葉が頭をよぎった。



『好きな人を見る目って全然違うのよね』


 視線に温度はないはずなのに、何故か感じる熱。

 楽しさとは違う感情から向けられる笑顔。

 短いやり取りの声から伝わる嬉しさ。


 その全てが自分に向けられることで、花江の言葉の意味が分かった気がする。それと同時に冷水を浴びたように背筋が凍った。


「っ!」


 ──自分も同じ顔で春海を見ているのだろうか?


 悟られまいと気をつけているはずだ。

 だけど、勇太には気づかれしまっているし、もしかしたら、他の人も言わないだけで薄々分かっているのではないか?


 そう思うと恐怖と不安が胸に広がり、いても立ってもいられなくなる。


 ──怖い


 一番助けを求めたい人は一番知られてはいけない人。相談など出来るはずもない。


 すがるように画面を切り替え、春海のメッセージを開く。


『今日は本当にありがとう!

 落ち着いたら『HANA』に行くからね』


 あれ以来止まったままのメッセージを読み返しては、今日も眠れぬ夜を過ごした。

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