第92話 歩と春海 (5)
ふと、下着に違和感を覚えて目が覚めた。
自分の意思とは無関係に身体の内側から漏れる感覚に顔をしかめるも、このまま放置していたところで状況は悪化するばかり。仕方なく起き上がると、身体をなるべく動かさないようゆっくりトイレに向かう。
「……」
下着に付いた赤い染みにため息をついてサニタリーボックスに手を伸ばす。昨日の身体の不調もきっと生理のせいだったに違いない。僅かに痛む下腹部に今月は重い方だと分かり、がっくりと肩を落とした。
「……ついてないなぁ」
折角春海と改めて出掛けようと決めていたのに、まるで神様が意地悪をしているようにしか思えない。暗いリビングの電気を点け、その眩しさに目を細めながらテレビの下の引き出しを開けると常備してある鎮痛剤の箱を取り出した。壁の時計を眺めながら錠剤を口に含み、そのままごくんと飲み下す。
「少しはマシになってるといいけど……」
諦めに近い思いを抱きながら再びベッドに戻り、身体を横向きにして目を閉じた。
◇
──だるい。
目が覚めて最初に感じたのは身体の気だるさと、下腹部の疼くような痛み。のろのろとスマホを取るために身体の向きを変える。それだけでじわりと広がる感覚に下唇を噛んだ。
こんな調子では今日行くはずだったボーリングは無理だろう。昨日で散々心配を掛けた春海に更に迷惑をかけてしまうことにやるせなさを感じつつ、メッセージアプリを立ち上げる。謝罪の定型文を打つも何だかそれでは誠意が感じられないように思えて、途中まで書き上げた文面を消すと通話ボタンをタップした。
『はい、もしもし』
「おはようございます、歩です」
『おはよ、どうした?』
3コールで繋がった先の声が少し低い。なるべく心配をかけないように事情を説明すると、電話先が僅かに沈黙した。
「すいません。
本当に行きたかったんですけど……」
『ん、分かった。
気にしないで』
「あの、せめてコートとマフラーを返したいんです。だから、」
『そうね……じゃあ夕方くらいに取りに行くから』
「え!? でも」
『いーの、いーの。
とりあえずゆっくり休んでて。じゃあ、またね』
あっさりと終わった通話に安堵しつつも、約束が簡単に消えた事実には未練が残る。自分から約束を反故にしたのに、油断するとすぐに沈みそうになる気分を生理のせいと言い聞かせてスマホを手放した。
◇
夕方、春海から体調を気遣うメッセージを受けて返信を打つとすぐに着信が来た。
「もしもし、春海さん?」
『歩、体調どう?』
「はい、大分楽になりました」
『それなら良かった。
あのさ、少しは動けそうかな?』
「え? はい。
全然大丈夫です」
薬と仮眠が効いたのか朝よりはずっと良くなった体調に暇をもて余しつつ、先程から部屋の掃除に取りかかっていた。そんな歩の返事に春海の声が明るくなった。
『じゃあさ、ウチに来ない?
さっきDVD借りてきたの。ボーリングの代わりに映画観賞なんてどう?』
「映画ですか?」
『そう。本当は映画館に行くとか考えたんだけど、シートで長時間座るのはきついだろうし、その点ウチなら気兼ねなくゴロゴロ出来るかなって思ってさ。
あ、身体がきついなら無理しなくて良いけど』
「はい、行きたいです!」
『ふふ、歩ならそう言ってくれると思ったわ。
じゃあ、準備出来たら連絡して。
そうだ、コートとマフラー忘れないでよ』
歩の返事を知っていたかのように笑いを含んだ声が切れる。掌で転がされている感があるものの、それすらも嬉しくていそいそと支度を始めた。
◇
「お邪魔します」
「どーぞどーぞ」
昨日訪れたばかりの部屋に足を踏み入れると、室内は綺麗に整理されており、昨日とのギャップに思わす足を止める。
「ふふーん、ちゃんと片付けたんだからね」
「あ、ありがとうございます」
どうだ、と言わんばかりの態度に困りながらもお礼を言うと、春海が嬉しそうに笑う。勧められるままベッドを背中側にして腰を下ろすと、テレビを隠すように立て掛けてある大きなスクリーンとその前に置かれたプロジェクターに目を丸くした。
「すごい……こんな機械持ってたんですか?」
「ううん。これ勇三さんから借りてきたの。
折角なら楽しく観たいじゃない。他にも準備してきたんだから楽しみにしてて。
映画色々借りてきたんだけど、歩はどれにする?」
「えっと……」
DVDのパッケージを眺めるもタイトルだけでは分からず、唯一聞いた覚えのあるアクション物を手に取ると「これとかどうですか?」と春海に聞いてみた。
「お、じゃあ決まりね」
にしし、と笑いながら春海が他のDVDを片付け、パソコンをセットする。
「映画っていったらやっぱりポップコーンとジュースよね。
歩、飲み物選んで」
春海がキッチンに向かうのについていくと、色違いでお揃いのマグカップが並んでいる。
「ジュースにコーヒー、それとお茶。
あ、ホットもあるわよ」
「それじゃ……ホットコーヒーでお願いします」
「りょーかい。ホットのココアね」
「もう! 春海さん!」
からからと笑う春海から二人分のマグカップを受けとるとポップコーンの袋を持ち出した春海と共にテーブルに戻る。ぺたんと座った歩に春海がベッドの上に置いてあったクッションとブランケットを渡した。
「はい、これ。
横になっても良いから、遠慮しないのよ」
「ありがとうございます。
すいません、こんなに色々……」
「これくらい大したことじゃないわよ」
至れり尽くせりの状況に思わず身を縮める歩の隣に座った春海がポップコーンの袋を開けて、部屋の電気を消した。
「出来ない事があるのなら、出来る事をすれば良いだけなんだって思っただけ。
だから、こんな楽しみ方だって有りじゃない?」
スクリーンに浮かぶ光に照らされたその顔につられるよう歩も笑みを浮かべた。
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