第91話 中央高校文化祭(9)

 アパートに向かう帰り道、赤信号で停まったタイミングで大きなため息がこぼれる。


「結局、ちゃんと言えなかったなぁ……」


 ハンドルに額をつけて目を閉じれば、今日一日隣にいた歩の様々な表情が浮かび上がり、自ずと、歩の自宅を訪ねた今朝を思い出していた。


 ◇


 待ち合わせの時間を過ぎても連絡もなく、姿も見せない歩が気がかりで『HANA』ではない玄関のインターフォンを押すと、出迎えてくれた花江が目を丸くした。


「あら、てっきりもう出かけたとばかり思ってたけど、まだ起きてなかったのかしら?」

「な~んだ、ただの寝坊か」

「昨夜は疲れてたみたいだから。

 今、起こしてくるわね」

「良いわ、花江さん。

 私が起こしてくるから。ふふ、きっと驚くわよ~」


 軽い足取りで廊下を進み歩の部屋の前に近づいた時、中から聞こえてくる小さなうめき声に気がついてノックしようとした手が止まった。


「……歩?」


 そっと呼び掛けるも苦しげな声は途切れない。恐る恐るドアを開けて隙間から中を覗けば、膨らんだベッドの中から声が聞こえてくる。


「花江さんっ!」

「どうしたの?」

「あ、歩が! 何だかっ!」


 バタバタとリビングに戻り花江を呼ぶと、最後まで言わないうちに花江が廊下を歩いていく。開いたドアの向こうから聞こえてくる声に、花江が立ち止まって振り返った。


「ごめんなさい、春海。

 今の歩はあなたに見せられないの。

 悪いけど外で待っていてくれる?」

「え、ええ……」

「ありがとう」


 有無を言わさない口調で春海を拒絶した花江が静かに部屋に入る。ドアを閉める一瞬垣間見えた、苦痛に歪んだ歩の表情に息が止まりそうになった。



「歩」


 ドア越しに聞こえる花江の声にようやくうめき声が止む。ぼそぼそと会話を挟んだ後しばらくして聞こえてくるすすり泣く声に思わずノブに手を掛けるものの、何とか思いとどまった。内容は分からないものの、慣れたようにあやす花江の口調に歩の様子が初めてではないことが分かった。


 やがて、部屋から出た花江が春海に人差し指を口に当て、そのままリビングを指差す。恐らく自分がここにいることを教えたくないのだろうとこくりと頷いてリビングに戻ると、焦る心を抑えながらコーヒーを手渡して椅子を勧める花江の正面に座った。


「もう大丈夫。

 ちょっと怖い夢を見て、うなされていただけだから」

「怖い夢?」

「ええ、最近は随分落ち着いていたのだけど……」


 たかだか夢だけであれほど苦しむだろうか?

 そんな疑問が頭に浮かぶ。


「ねぇ、花江さん、」

「春海、今は何も知らなかった事にしてくれる?」


 口調は丁寧だが、決してノーとは言わせない花江の態度に軽く眉を寄せるも、花江の表情は変わらない。


 沈黙を破るかの様に、テーブルに置いた春海のバックからスマホが着信を知らせる。仕方なく画面を見れば、着信の相手は歩からできっと謝罪の連絡だろう。


「今日出掛ける事、本当に楽しみにしていたの。

 ……だから、お願い」


 僅かにすがるような花江のその一言に意を決して通話をタップすると、意識して明るい声を出した。


「もしもし、歩?

 おはよ~」


 スピーカーから聞こえる切羽詰まった声になるべく平静を取り繕って話す春海の側で、ほっと安堵のため息が聞こえたのが分かった。





 ぼんやりと思い起こしていると、もう何度目かの青信号が目に入る。対向車も後続の車もいなかった事に安心と呆れを感じ、ようやくアクセルを踏んだ。



「行ってない、か……」


 不登校というよりは歩の年齢的に考えて既に中退しているのだろう。何となく嫌な事があったのだろうと思っていたが、まさかそんな事情があるとは思わなかった。


 確かにすんなりと打ち明けられる話ではなかっただろうが、それを知ったからといって歩への認識が特別に変わるわけでもない。話を途中で打ち切ってしまったものの、今までの歩の態度や花江の話を合わせればその後の姿は何となく想像がつく。


 ただ一つ、思うことがあるとすれば──



「……めっちゃ腹立つわぁ」


 歩をそこまで追い詰めたクラスメイトの存在。


 おそらく軽い気持ちでからかったのだろう、もしくはそのクラスメイトも歩の相手に好意を抱いており、牽制の意味で発したのか、状況は知る由もない。



 他人に自分の好意を指摘された。


 たったそれだけ。

 端から見れば、高校を中退するにはあまりにも馬鹿らしい理由だ。

 学生時代の友人関係など流動的でしかないし、高校生活においては恋愛の噂など毎日提出する宿題と同じくらいありふれたものでしかない。


 だけど、それでも──


 自分の初恋を思い出す。

 同級生で背が高くて、優しかった彼の顔は今でも忘れる事が出来ない。結局一年間のクラスメイトという関係から進むこともなかったが、あの純粋に『好き』と思えた時間は今でも大切な宝物だ。



 そんな感情を土足で踏みにじられたなら?


 端的にしか聞こえなかったものの、確かに『気持ち悪い』と言う単語が出た事に一瞬殺意に近い怒りを覚えた。思春期特有の言い回しは歩のようにうぶで純粋な心の持ち主にとってあまりに残酷な言葉だったはずだ。



「……くそっ!」


 思い出した途端込み上げてくる怒りをハンドルに押し付けるように強く握る。


 あの子が何をしたっていうのよ!

 人を好きになるのは本人の自由でしょうが!

 あの子がどれだけ苦しい思いをしてるのか知らないくせに!

 どうせあんたなんか歩に比べたら性格も容姿もひねくれてんでしょうよ!


 見たこともない歩の同級生を思い浮かべては心の中で悪態を吐き、ボコボコにするも気分は一向に晴れない。駐車場に停めた車の中でエンジンを切りシートに身体を埋めて、やるせなさをため息と共に外に出す。


「……あたしがその場にいたら良かったのに」


 過去を語る歩の姿はあまりにも痛々しかった。

 四年という月日があるにも関わらず、今傷つけられたかのように話す姿を見て、歩の心の傷がどれほど深かったのか分かってしまう程に。


 歩の性格を知っているからこそ理解出来る。

 たったその一言は彼女の心をズタズタにするには十分だった事を。


 そして、その傷が彼女を今も苦しめている事を。



 力になりたい、そう思った自分をぶん殴ってやりたい。

 過去を変えることは出来なかった。

 大した励ましも出来なかった。



「…………ランチバック返すの、また忘れてるし」


 自分の不甲斐なさにとことん落ち込みながらも、明日改めて遊びに行く約束をした事を思い出す。



『明日、楽しみにしてますね』


 別れ際、好意全開で笑ってくれた表情を思い浮かべて沈んだ心を何とか引き上げる。



 辛い過去を打ち明けてくれた。

 後ろ向きにならないと決めてくれた。

 泣かないと約束してくれた。



 それなら、自分のするべき事ははっきりしている。


 これ以上、辛い思いなんてさせない。

 これからは楽しい事を積み重ねていけば良い。



 そうすれば、きっと……



「そっか」


 どうしてそこまでして歩を構うのか、やっと理由が分かった。



 何の陰りもないあの笑顔を見たいから。



 たったそれだけ。

 だけど、理由なんてそれだけで十分だ。



「楽しみにされてるなら、落ち込んでる場合じゃないわよね」


 気持ちを切り替え、勢い良く車から出ると、ふんっと気合いを入れて階段を登っていった。

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