第89話 中央高校文化祭 (7)
「春海さん」
「!」
小さく呼ぶ声に振り向くとブランケットの隙間から歩が見ていた。
「気分はどう? 少しは休めた?」
「はい」
思いの外しっかりとした受け答えに随分前から起きていたのかもしれない。つい仕事にのめり込んでしまった自分に内心舌打ちしながら身体を起こす歩を支え、さりげなく表情を確認する。ゆっくりまばたきをする横顔がここに来たときよりも幾分落ち着いた様に見えることに安堵した。
ふと、ベランダに向かう窓に目を移した歩が驚いた様に顔を向ける。
「えっ? 外、真っ暗……」
「あぁ、そうかも」
ぎょっとした歩が慌てた様に時計を探し、固まった様に動かなくなった。一度目を覚ました時には既に日が傾きかけていたし、元々起こすつもりなんてなかったので時間など気にもしなかったが、歩にとってはそういう訳にもいかなかったに違いない。
「別に良いじゃない。
明日も休みなんだし」
「っ…………はい」
言いかけた言葉を咄嗟に飲み込んだ歩が困ったように視線を落とす。自分の言葉をきちんと受け止めてくれている歩が嬉しくて思わず微笑むと、雰囲気を変えるように明るい声を出した。
「ね、歩。
折角だし、もう少しゆっくりしていくでしょう?」
「えっと、でも」
顔を上げた歩がちらりと春海の奥に視線を移す。その先に置いてあるパソコンの存在に、歩の言いたいことが分かった。
「ちょっと待ってて。
あれ片付けるから」
「……お仕事、忙しいんですよね?」
「ん~、まあね。
あ、でも、これは時間潰しっていうか、とりあえずそういう感じだから。全然大丈夫」
「?」
泣きつかれて眠ってしまった歩に付き添いたかったものの、スキンシップが苦手な彼女が目覚めた時に気まずくなってしまうことを恐れて散々悩んだ挙げ句、気を紛らわすためにやりかけの仕事に手を伸ばしたのが真相なのだが、本人に説明する必要はない。
それ以上聞かれなかったことで話を打ち切ると、そこいらに広げてあった本やプリントを集めて床の新たなスペースに置き、使っていたペンや付箋を積み上げた本の上に乗せる。
「よし、片付け終了っと」
「えっ!?」
ペンが転がり落ちることなく片付け終えたことに満足すると、信じられないといった表情の歩がこちらを見ていた。
「! あ、後で片付けるのよ!
ここに置いたのはとりあえずだからね!」
「でも…………春海さん、もしかして片付けとか苦手ですか?」
「う、うるさいっ!
これは次に使うときにすぐ見つけやすくするためよっ」
つい素の自分を見せてしまったことを指摘され、狼狽えながら必死で言い訳する。そんな春海の姿がおかしかったのか歩が小さく笑った。その笑顔に先程までの憂いがないことを安心すると、春海も自然と笑顔になった。
◇
二人で夕食の買い出しに行くため支度を整え、ドアを開けた途端の冷たい風に思わず首をすくめる。
「寒っ!
歩、寒くない?」
「暖かいから大丈夫です」
「本当?
遠慮せずに言うのよ」
「遠慮してませんって」
二度も風邪を引かせる訳にはいかないと春海が強制的に着せたコートとマフラーに埋もれながら歩が顔をのぞかせる。急ぎ足で車に乗り込むと、ヒーターをつけて車を暖めた。
「ねぇ、今更だけど本当にコンビニご飯で良かったの?」
おおかみ町にも飲食店は幾つかあるものの、9時に近いこの時間では今から行っても間に合わない。代替案として出した北市に行く案は歩が反対し、『HANA』で作るという案は春海が反対したため、最終的にコンビニのご飯という結論になったのだが、自分はともかく歩に付き合わせるのはあまりにも味気なさ過ぎる。そんな春海の言葉に隣でシートベルトをつけかねている歩が笑顔で答えた。
「コンビニのおでんって美味しいんですよね?
私、一度食べてみたかったんです」
「うーん、確かに美味しいけど、折角歩とご飯食べに行くのにコンビニってねぇ……
あ~あ、こんなことなら調理器具くらい揃えとけば良かったわ」
「ふふ、春海さん本当に料理しないんですね。
フライパンもないキッチンって私初めて見ました」
「………人には向き不向きがあるのよ。
ほら、ベルトのバックル貸して」
大きめのコートのせいで未だシートベルトを着けあぐねている歩からバックルを奪うとカチリとはめる。
「……ありがとうございます」
恥ずかしかったのか小さく聞こえる声に声を出さずに笑うと、車をゆっくり走らせた。
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