第88話 中央高校文化祭(6)

 ぼんやりと意識が戻り、泣きつかれた後いつの間にか眠っていたことに気がついた。

 淡いブルーのクッションに頭を支えられ、ゆっくりと瞼を上げれば横向きの視界に見慣れない光景が目に入る。


 明るい蛍光灯の下、真剣な表情でパソコンに向かう春海がいた。キーボードを打ちながら時折考えるように眉を寄せては視線を動かし、画面を見つめている。いつも遠くからしか見えない背中の向こう側を眺めているようで、寝起きの鈍った思考の下、ただただその姿を目に入れていた。


 身体に掛けられていたブランケットは自分の使っている物とは違った香りで、仄かに甘い。普段春海から香る匂いは柔軟剤の香りだったのかとぼんやり思いながら、温もりを求めるように引き寄せて身体を丸める。


「ん? 起きた?」


 身動ぎした歩に気がついたらしい春海が手を止めて、座ったままズリズリと寄ってくる。前髪をそっとかき上げられる感触が心地よくて目を細めると、春海が小さく笑ったのが分かった。


「おはよ」

「おはよ、ございます……」


 酷い掠れ声にも関わらず、気分はそれほど悪くない。腫れた瞼をゆっくりと上げた歩を心配そうに見つめていた春海に僅かに微笑み返すと、安心した様に口が緩んだ。


「疲れてるんじゃない? もう少し眠る?」


 労るような声と眼差しに甘えてこくりと頷くと、眠りに誘うように再びそっと髪を撫でてくれる。その優しい手つきを味わうように目を閉じると、身体をゆっくり弛緩させた。


 ◇


 再び目を覚ますと、先程と変わらない目の前の光景に既視感を覚える。空いた時間を仕事に費やすほど春海の仕事は大変なのだろうか。折角の休日さえも自分の為に使ってくれたことに今更ながら申し訳なさを感じてしまう。


 一度座り直したらしく少しだけ向こうを向いているせいで起きた歩に気づく様子はない。顔の半分まで潜っていたブランケットから春海の横顔をそっとのぞきみた。


 難しい仕事なのだろうか、画面に向けた顔はどことなく苛立った様に少し険しい。そんな顔さえも一日中眺めていられそうな気がして、キーボードの上を動く指を何となく視線で追いながら抱きしめられた事を思い出す。


 こんな自分の為に心を痛めてくれるその優しさが。

 あんな優しい言葉で受け止めてくれるその態度を。

 何一つ変わらないでいてくれるその気持ちが。


 狡い、と思う。



 遠くから見ているだけでも幸せだったはずなのに、傍で笑って欲しいと思ってしまうから。

 あんなに優しくされたらもっと甘えたいと願ってしまうから。




 とりとめのない話をしたい。


 下らないことで笑いあいたい。


 一緒に出掛けて欲しい。


 構って欲しい。


 手を繋いで欲しい。


 抱きしめて欲しい。


 自分だけを見て欲しい。


 ずっと一緒にいたい。



 キスして欲しい。




 叫び出したくて、心の奥に閉じ込めておきたくて、温かくて、ずきずきと痛くて、心地よくて、嬉しい複雑な感情が胸の中で渦を巻いている。



 あれほど誰も好きにならないと決めていたのに。

 ずっと一人で生きていくつもりだったのに。


 この人はいとも簡単に心の壁を壊して、踏み込んで、救ってくれる。



 もう認めるしかない。





 この春海さんが、好きだ。





 否定し続けた感情を認めてしまうと、空っぽの心の中心がじんわりと温かくなった。初恋の時よりもずっとずっと強い感情が全身を駆け巡り、オーバーヒートしそうになる熱を逃がすように思わず目を閉じて小さく息を吐く。



 同じ女性で、九才年上で、恋人のいる彼女──普通ではない相手に向けた感情が、


 どれだけいびつなことか分かってる。

 絶対に打ち明けることは出来ないと理解している。

 決して叶わないと知っている。




 それでも、そう思っていても

 もう、どうしようもないくらい貴女のことが────



「……………………」


 ほんの一メートルの距離にいる春海に決して聞かれぬよう小さく小さく呟いた声はブランケットの中に消えていった。

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