第87話 中央高校文化祭(5)
どれくらいの時間が経ったのだろう。
長い長い沈黙の後、右手を掴む春海の手だけを見つめながら発した声は震えてかすれていた。
「…………行って…………ないんです……高校」
「……中卒って意味?」
しばらく間があってからの質問にゆっくり首を横に振るとそれだけで意味が通じたらしく、「そう」と呟いたのが聞こえた。
「……いつから?」
「…………高1の途中、です」
「嫌じゃなければ、理由聞いて良い?」
重苦しい雰囲気の中、春海の手が歩の掌を包むように移動した。優しく添えられる手に励まされる様にあれほど重かった口がゆっくりと動く。
「…………放課後、忘れ物に気づいて……教室に取りに行ったんです。……その時、クラスの子が………集まってて……私の、その、………す、好きだった人の……事、は、はな、し、してて…………わ、……わた、し……き、きもち、わるいって……」
「歩」
「そ、んな、……つもり、……な、なくて……で、でも、……そ、れから……そと、に、……で、でれ、な、なくて……」
「歩!」
再び決壊した視界が遮られ、身体が柔らかい何かにぶつかった。不意に春海の纏った香水の香りが強く鼻に届き、身体が温かい何かに包まれている。恐る恐る目を開ければ、目の前には白いブラウスが見え、そこでようやく自分が春海に抱きしめられていることに気がついた。
「もう、分かったから。
もう……思い出さなくて良いから」
ブラウスを隔てた柔らかな身体越しに聞こえてくる声は震えているようで、離さないとばかりに回された腕がぎゅうぎゅうと押しつけてくる。近寄るだけで緊張した春海の身体に触れているのに不思議と取り乱すことないのは、この状況が余りにも現実離れしているからだろうか。
息苦しさと共に感じるのはあの香水の匂いだけで、呼吸をする度に不思議と苦い感情が少しずつ塗り替えられていく様に思える。
「……ごめん。
あたし、偉そうな事言っておきながら、何て言葉をかければ良いのか分からない……」
「…………どうして……春海さんが、泣くんですか?」
頭上から静かに鼻を啜る音が聞こえ、思わず顔を上げようとすると、無理矢理押さえつけられた。
「泣いてない」
「……」
明らかに湿った声と時折スンと鼻を鳴らす動作を身体で感じながらも強い口調で否定され、上げようとした視線が再び下に下りる。
「……泣いてなんか、ないから……」
「……」
「歩」
「……はい」
「……辛かったわよね。
話してくれて、ありがとう」
その言葉に込み上げてくる感情を溢れ出さないよう奥歯を噛みしめ、熱くなる瞼をぎゅっと目を閉じる。助けを求めるように伸ばした先の白いブラウスをすがり付くよう両手で掴むと、歩を抱きしめていた腕が力を増す。
泣くわけにはいかない。
泣きたくない。
小さな嗚咽がどちらのものか分からないまま、静かに聞こえていた。
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