第86話 中央高校文化祭(4)

 赤信号でゆっくり停止した車内では、行く時にはついていなかったラジオが小さく音を流している。


「……」

「……」


 あれからお互い一言も言葉を交わすことなく黙ったままの状態に、歩の心は後悔と罪悪感で埋め尽くされていて、隣の春海を見ることさえ出来ずに俯いたままただ時間が過ぎるのを待っていた。


 ──春海さんに嫌われてしまったかもしれない。


 何も聞かれないまま走り出した車から横目に見えるのは慣れ親しんだ光景で、あと二、三分もすれば歩の自宅に着いてしまうのだから。




「歩」

「は……は、い」


 信号待ちのタイミングで普段通りの春海の声に恐る恐る顔を上げれば、前を向いたままの視線がちらりとこちらを向く。


「花江さんはいつ帰ってくるの?」

「……明日の夜だと思います」

「え? 講習会ってそんなに時間かかるの?」

「その、講習会は1日で終わるらしいですけど、折角遠出するから色々寄ってくるって言ってました……」

「そっかぁ……」


 呟いた春海が右手をハンドルから離し、困ったように頭を掻く。

 花江に今日の出来事を伝えるつもりだったらしく、不在であることに困ったのだろう。

 再び前を向いた横顔からは何も読み取れなくて視線を落とすと膝の上の両手を見つめる。花江に話されるのは仕方ないとしても、これから春海と出掛けることはもう無いに違いなくて、再び滲み出しそうになる視界を何度も瞬きで誤魔化しては下唇を噛んで堪えた。





 やがて車が停まり、ゆっくり顔を上げると『HANA』ではない見覚えある場所に目を丸くする。


「……ここは?」

「あたしのアパート。

 あのさ、申し訳ないんだけど五分だけここで待っててくれる?」

「え、あ、はい……」

「なるべく早く済ませるから。

 あ、そうだ。外に出たかったら困るし、これ預けておくわ」


 訳の分からぬまま頷いた歩に車のキーを渡して、春海が大急ぎで階段を駆け上がっていった。


 ◇


 部屋の半分を占めるベッドと備え付けのクローゼット、その隣のかごには大きめの布が中身を隠すように被せてある。一人使いでも小さく思える丸いテーブルの奥にはフローリングの床に本や書類が何段かに分けて積み重ねており、物が繁雑と置かれている部屋の中が珍しく、ついつい視線が動く。


「ここのところ忙しかったの。

 普段はもう少し片付いているんだからね」


 両手に形の違うマグカップを持った春海がどこか気まずそうに説明しながら、片方を歩に差し出した。


「いえ、そういうつもりじゃ……ありがとうございます」

「ウチに誰かを入れるなんて無かったからさぁ、お菓子でもあれば良かったんだけど」

「本当に大丈夫ですから」


 申し訳なさげな春海が歩の隣に腰を下ろしてマグカップをテーブルに置いた。自分の置かれた状況に混乱しながら、とりあえず湯気の立つカップに手を添え一口飲む。ブラックかと思っていたコーヒーはほんのり甘く、そのままこくんと喉を通っていく。甘さを求めるようちびちびとカップに口を付け始めた歩を見た春海が自分のカップを両手で包み込むように持ちながら小さく微笑んだ。


「歩、足崩していいわよ。疲れたでしょう?」

「あ、はい……」

「ゆっくりしてって言いたいけど、初めて来た場所で寛げるはずもないわよね。映画とかあれば良いんだけど……そうだ、テレビでも観る?」


 テレビのリモコンを取り出してきた春海が困惑した歩を見て動きを止める。


「ん? どした?」

「あの、……その、どうして?」

「? 何が?」


 質問の意味が分からないという様に首を傾げる春海に視線をさ迷わせながら口を開く。


「……怒らないんですか?」

「怒る? 何を?」

「その、私が、今日……何もかも、台無しにしちゃったから……」


 はあ、と大きなため息をついた春海にびくりと身体が震える。


「ったく、そんな事気にしてたの」


 心底馬鹿馬鹿しいといった態度の春海が俯いたままの歩の顔に手を伸ばし、視線を合わすように無理矢理顔を上げさせた。


「!?」

「またネガティブモードになってる。

 あたしはあんたを心配してるの。

 分かる? 怒ってるじゃなくて、し・ん・ぱ・い、ね!」

「だ、だって……」

「だってじゃない!」


 春海にピシャリと遮られ、反射的に溢れそうになる涙を必死で堪える。それでも再び小さくひっくひっくとしゃくり上げる歩を「本当に何で分からないかなぁ」と苛立った様に春海が見た。


「こんな状態のあんたをどうして怒らないといけないのよ。そもそも朝から様子がおかしかったじゃない。隠していたんだろうけどバレバレだったからね」

「!」


 春海の言葉に青ざめるも、思えばこまめに体調を気遣ってくれたし、突然泣き出した時も取り乱すことなかった姿を思い出す。


「ねぇ、歩」

「……」

「あんた、高校の時何かあったんでしょう」

「!!」


 確認するような口調に思わず逃げ出そうと慌てふためく歩の右手を春海が掴まえた。顔を背ける歩に構うことなくそのまま言葉を続ける。


「思えば歩から高校の話なんて聞いたことなかったし、いつも口を濁していた気がするもの」

「……」

「言っとくけど、無理に聞き出そうなんて思ってないから言いたくなければ言わなくても良いわよ。

 ただ、ただね、これだけは分かって。

 あたしはあんたが過去に縛られて苦しんでる姿を見過ごしたくないの!」

「…………」



「あたしたち、友達でしょう。

 友達が悩んで苦しんでるなら手を差しのべるのは当たり前じゃない」


 ぼやけた視界の中、春海の静かな声だけが身体の中に入っていく。掴まれた手から春海の想いが伝わるようで、その部分だけが熱い。


「あたしは歩に話を聞いてもらって救われたわ。

 歩の事だからきっと自覚なんてしてないだろうけど」


 驚きに少しだけ顔を向けた歩に「やっぱりね」と春海が苦笑いする。


「あのね、過去を変えることなんて出来ないけど、誰かに心の重荷を打ち明けるだけで未来は変わるのよ。

 ……あたしが実際に体験したんだから」

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