第82話 おおかみ町大根やぐら (9)

「ふぅ」


 疲労感からこぼれた小さなため息に花江がくすりと笑う。


「何とか無事に終わったわね」

「あー疲れた。

 明日休みで良かったよ」

「本当ね」


 二人分のコーヒーを持ってきた花江がカウンターに座り、隣の席にマグカップを置いた。


「歩、少し休憩してから片付けましょう」

「賛成」


 花江の隣に座りマグカップを手に取ると、熱い液体に思わずほうっと息をつく。立ちっぱなしだった花江が片手でふくらはぎを揉みながら爪先を上下に動かしているのが見えた。


「花ちゃん、後でマッサージしようか?」

「ええ、お願い。

 歩にもしてあげるから」

「別にむくんだりしないし、くすぐったいからいいよ」

「その若さが羨ましいわね」


 花江が自分のマグカップに手を伸ばすと、口元で手を止める。


「お弁当、素直に歩が作ったって言えば良かったのに」

「う、……本当は言おうと思ったんだよ! だけど、話の途中で、その…………」


 春海に勘違いされてしまったまま受け取られた弁当の事を指摘すると、歩が分かりやすく狼狽える。そんな姿に花江がくすりと笑みをこぼした。


「春海の力になりたいって思ったから作ったんでしょう?

 私に遠慮しなくて良いって言ったじゃない」

「……」


 心のうちを見透かされ、何も言えない歩が視線をマグカップに落とすと、ようやくコーヒーを一口飲んだ花江が隣を見る。


「歩は春海が好きなのよね?」

「違う!!

 私っ、そんな事思ってない!!」


 大声で遮った自分に驚いて、息が止まりそうになる。勇太に指摘され、花江にまでも自分の気持ちを気づかれてしまい、今にも泣きそうな歩の表情に花江が困ったように微笑む。


「そんなに否定しなくても良いじゃない。

『好き』の感情にも色々あるでしょう? 恋愛だけじゃなくて友情の意味でも」

「あ………………うん」


 淡々と諭した花江に恐る恐る肯定するも、むきになって否定したことで自分の感情がどちらにあるのかさらけ出してしまった気がする。自分の気持ちを押し込めるように握りしめたカップを傾けて、熱々のコーヒーをぐっと流し込んだ。


「……さっき勇太さんにも同じ事を言われた」


 空になったマグカップを見つめたまま口にすると「そうだったの」と隣で花江が小さく微笑んだ。


「じゃあ、例えの話をするわね」

「例え?」

「そう。

 今の歩じゃない、これからの歩の話」


 顔を上げると花江がいつもと変わらない優しい表情を浮かべている。


「歩が女性を好きになることは普通の事で、何もおかしいことではないの。だから、この先、歩に好きな人が現れてその人に思いを打ち明けることが出来なくても、その気持ちは大切に持っていて良いのよ」


「……」


 例えといわれたものの、花江が言っているのはどう考えても現在の歩のことで、あまりにも簡単にその相手の顔を思い浮かべてしまった自分に苦く顔をしかめる。そんな歩を励ますように花江が明るい声を出した。


「いつかきっと好きになって良かったと思える日が来るわよ」


『大丈夫』──安易にそう言わない優しさがありがたくて、だからこそ自分の歪さが嫌になる。それでも花江が肯定してくれたことで少しだけ心が軽くなった。



「そんな日が来るかなぁ」


 思わずこぼれた呟きが震えて掠れた声になってしまい、慌ててカップを口につけて誤魔化した。


 ◇


 皿やグラスを積み重ねてはカウンターに運ぶ作業を繰り返し、洗い物に取りかかる。水の流れる音とカチャカチャと陶器の重なる音の間にずっと考えていたことを口に出す。


「花ちゃん」

「なに?」


「さっきの話の続きなんだけどね。………その、例えばの話だからね?」

「ええ」


 テーブル席の片付けをしていた花江の視線を背中に感じつつ、泡だらけの皿を見つめる。


「花ちゃんはどうして……その、私が、……そういう感情を持ってるって思ったの?」


 ばくばくと跳ねる鼓動を聞かれないように蛇口を少し緩めて水量を上げると、いつの間にか額に滲んだ汗に気づいて腕で拭う。


「……そうね」


 曖昧な質問の意図がようやく分かったようで、しばらく花江が考えをまとめるように言葉を途切れさせる。


「雰囲気というか……一番分かりやすかったのは目、かしらね」

「目?」


 思わず聞き返した歩に布巾を手に持ったままの花江が笑った。


「相手を見る眼差しね。

 どうしてかしらね、好きな人を見る目って全然違うのよ」

「……」


 自分では気づかなかった原因に言葉を失う。そもそも勇太が気づいたくらいだ。遅かれ早かれ春海にも気づかれてしまうかもしれない、そう思うと頭が真っ白になった。


「歩?」

「どうしよう……私、そんなつもりなんてないのに……」


 呆然と立ち尽くす歩の背中を優しく花江が擦る。


「そんなに心配しなくても誰も怒ったりしないわよ。それに、私はむしろ嬉しかったのよ」

「……どうして?」

「歩の表情が少しずつ明るくなって、きちんと笑えるようになって、やっと歩が歩らしくなりそうな気がしたから」

「……」


 ぽんぽんと背中に触れる手が優しくて、また涙があふれそうになる。子供の頃からいつだって味方をしてくれる花江が自分にとってどれ程大きい存在なのか、こんな時つくづく思い知らされる。


「だから、無理に意識しなくて良いのよ。

もし誰かに同じ事を言われたら笑顔で『大好きです』って答えてあげなさい。歩の笑顔ならそれだけで大抵の人はノックアウトされちゃうから」

「……何それ。訳分かんないよ」

「歩が可愛いって言いたいの」

「そんな訳ないじゃん」

「本当よ」


 少しだけ笑顔を取り戻した歩に花江が安心したように背中を叩く。


「ほら、早く片付けましょう。

 明日は春海と出かけるんでしょう、朝早いの?」

「ううん。

 十時に迎えに来てくれるって」

「それならゆっくりで良いわね。楽しんでらっしゃい。

 それに比べて私なんて折角の休みなのに………講習会なんて面倒よね」


 花江のいかにもうんざりとした表情に思わず笑うと、恨めしげな視線を向けられる。


「いっそのこと月に一度くらいは連休を入れようかしら。どう思う? 歩」

「花ちゃんが社長なんだから、花ちゃんが決めてよ」

「……まあ、しばらく保留案件かしらね」


 何だかんだ言いつつもこの仕事が好きらしい花江があっさりと取り下げ片付けに戻る。そんな花江をどこか羨ましく思いながら残りの片付けに取りかかった。

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