第二部

第50話 おおかみ小学校学習発表会 (1)

「いらっしゃいませ」


 ドアベルの音に顔を上げれば、目を丸くして歩を見ている春海がいた。一番反応が知りたかった春海の微動だにしない様子に、少しだけ不安になる。


「春海さん、驚きすぎでしょう」


 春海を店内に押し込むように入ってきた勇太と挨拶を交わすと、席へ案内する。


「歩、髪の毛切ったんだ……」

「はい」


 今までの自分と決別する意味も込めて、束ねていただけの髪をバッサリと肩まで切り、初めて茶色に染めてみた。美容師にお任せでお願いした髪型だったが、花江や常連の客からはすこぶる好評で、歩自身もシャンプーが随分楽になり、気に入っている。

 最近一人で来るようになった勇太には見慣れた姿だったが、あれから随分と忙しかったらしい春海には初御披露目となっていた。


「あの、おかしくないですか?」


 見つめられることが照れくさくて、つい感想を求めると、春海の手が伸びてきて、耳の辺りをそっと撫でる。


「ううん、似合ってる。

 随分印象が変わったわよ。これ、美容院で染めたの?」

「っ、いいえ、あの、花ちゃんが、染めてくれて……」


 髪に触れられただけで身動き出来なくなる歩のぎこちない返事を気にする素振りもなく、その感触を楽しむ様に何度も指を滑らせる。


「良いなぁ~。

 ねぇ、花江さん。私もカラーリングしてよ」

「有料ならやってあげるわよ」

「えぇ~、せめて友達価格でお願い」


 花江との会話にようやく離れた手と今まで無意識に息を止めていた息苦しさで少しだけ後ろに離れた。立ちっぱなしの春海に構うことなくカウンターに座った勇太が花江と向き合った。


「花江さん、今日のメニューはなんですか?」

「今日は、肉団子の甘酢餡かけとかき玉汁よ」

「ふーん、それって酢豚じゃないんですか?」

「豚肉の代わりが挽肉だから甘酢餡かけ。

 勇太君のご飯はいつも通りで良いのかしら?」

「お願いします」


「ちょっと、勇太!? そこは私の席だから!」

「はあ? 小学生じゃあるまいし、どこに座ろうと良いじゃないですか」

「っ! あんたねぇ、覚えときなさいよ」


 憮然とした表情の春海が勇太の隣にどかりと腰を下ろすものの、すぐに笑顔を浮かべながら花江に話しかけている。


「お待たせしました」

「ありがと」


 久しぶりに見る横顔は少し頬のラインが細くなった気がする。まじまじと見ていた視線に気がついたらしい春海と一瞬目が合った。


「……」


 何も言わないまま、目だけで笑った春海の表情が大丈夫だと言っているように思え、小さく会釈をするとその場から離れた。


 あの時の事を覚えてくれていた、それだけで今は十分だ。


 ◇


「ねえ、歩。

 体験イベントに来ていた子たち、覚えてる?」


 いつものコーヒーを片手に珍しく真っ先に話題を振られた歩は目を瞬かせるも、春海が上げた幾人かの名前を聞いてすぐに頷いた。


「あの子たちの小学校の学習発表会にお呼ばれしてるんだけど、良かったら歩も行ってみない?」


「え、でも、私全然関係ないし……」

「あ、そこは大丈夫。

 毎年、地域の人たちにも広く呼びかけてるらしいから。むしろお客さんがたくさんいてくれた方が喜ぶらしいわ」

「歩めっちゃなつかれてただろ。

 ある意味関係者じゃん」


 春海と勇太の言葉に心が揺れる。あの時は大変だったはずなのに、時間が経てば楽しかった記憶しか残っていない。折角春海と勇太が誘ってくれたのなら、一緒に行ってみるのも良いかもしれない。


「じ、じゃあ、行きます。

 あの、いつですか?」

「えっと、確か来週の土曜日だったわよね?」

「そ。

 九時から」


 予定を聞いた途端、浮き足だった気持ちが一気に沈んだ。


「あ、ごめんなさい。

 土曜は……」

「そっか、仕事か。

 ごめん! 忘れてたわ」


『HANA』の定休日は日曜で土曜日も仕事だ。ランチだけでなくディナーが入る週末は朝から忙しい。そんな意味を含めた言葉に事情を察した春海が慌てて謝る。



「良いじゃない。

 いってらっしゃい」


「え、でも……」

「私一人でもお店は大丈夫よ。

 今のところその日は予約も入ってないし、ランチだけにしておくから。

 歩も観に行きたいんでしょう? 遠慮せずに楽しんでらっしゃい」

「だけど……」


 花江があっさりと了承してくれた事はありがたいものの、仕事を休む罪悪感で素直に頷けない。歩の歯切れ悪い表情を見て、花江が春海に訊ねる。


「ねえ、春海。

 その学習発表会って一日中あるの?」

「えっ? ううん。

 確か、午前中って書いてあったと思うけど」

「そう。

 ちなみに春海はその日一日中オフなのよね?」

「そうだけど?」


 一つ一つ確認していく様な質問に、春海だけでなく歩も同じ表情を浮かべている。


「それなら、春海にお願いがあるの」

「何?」

「その日学習発表会が終わったら、歩と一緒に買い出しに行ってくれない?」

「花ちゃん!?

 買い出しくらい私一人で行くよ!」


 思ってもみない言葉に慌てて花江を制するも、花江は動じない。


「歩は隣街の大きな複合施設に行ったことないでしょう? 春海に連れていってもらいなさい。

 それに、買い出しっていっても調理器具とかの買い物だから。歩一人じゃいつも悩んでばかりで結局買いきらないじゃない」

「それは……、そうだけど……」


 歩の性格を知り尽くしている花江に言い返せずにいると、春海が二人のやり取りを面白そうにうかがっている。その様子からは少なくとも出掛けることを面倒事とは思っていないらしくて安心するものの、尚も渋る歩に花江が大義名分を付けて背中を押した。


「買い出しも仕事の範囲内だから安心していってらっしゃい。

 良いわよね、春海?」

「私に拒否権はない訳ね」


 笑いながら了承する春海に「夕食ご馳走するから」と花江が続けると、春海が大喜びする。


 その言葉に絶句する歩を花江がおかしそうに笑っていた。

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