第49話 おおかみ小学校 (8)
「ただいま」
靴を脱いでそっと玄関を上がると花江は入浴中らしく、居間には誰もいなかった。自分の部屋に向かい、ドアを閉めるとようやく安心してその場に座り込む。
どくどくと鳴ったままの胸がうるさくて何度も息を吐く。鏡を見なくても分かるくらい、今の自分の顔は赤くなっているに違いない。
「はぁ……」
先程の自分の言葉を思い返すと、じわりと顔がまた熱くなった。
九才も年下のくせに偉そうな事を言って、何様だよ──
自分で自分を罵っても、一度口にした言葉は戻らない。
言ってしまった、という後悔の中にも春海への気持ちはこれっぽっちも偽りなかったのも事実で、だからこそいたたまれなくなり、逃げ出してしまった。
春海の態度に違和感を覚えたのは、ふとした拍子に曇る笑顔を見たのがきっかけだった。
皆と談笑する姿は普段通りの春海で何も変わらない。それなのに、一瞬だけ見た表情のせいで全てが空元気のように思えてしまう。何度か声をかけようとしたものの、皆の中で話しかける度胸もなく見送ってしまった。
「ねぇ、花ちゃん。
今日の春海さん何だか元気なくなかった?」
「そうかしら? いつも通りだった気がするけど」
食器を片付けながら不思議そうに首を傾げる花江に「私の気のせいだったかも」と笑い返したが、以前同じように見た春海の表情を思い出していた。
気のせいだからと笑い飛ばしてくれるならそれでいい。だけど、本当に困っているのなら──
日課となったジョギングにかこつけて春海が出てくるのを待ち、校舎から出てきたタイミングで近づくと、何かに気づいたように立ち止まる春海につられるように足が止まる。ぼんやりと横を見ている春海は、どうやら夕日を眺めているらしい。
綺麗な夕日を見ているはずの春海の表情が何故か悲しそうに見えた。
誰かに助けを呼びたくてもここには花江も勇太もいない。
悩んで悩んで、ようやく声をかける。
「………春海さん?」
驚く春海に花江を頼るように言えば、何故か笑われ、
「歩じゃなきゃ駄目なのよ」
その言葉にどれだけ驚き、嬉しかったか。
「相手のプライバシーに関わる事だから」と前置きされた話は曖昧で複雑な故にほとんど分からず、歩にできる精一杯は相づちをうつことだけでアドバイスも慰めも励ましも出来ない。
勢いだけで最後に伝えた言葉は春海に届いたかどうかも分からなかった。
だけど、それ以上に、弱音を吐いてくれた春海が嬉しかった。
自分に見せてくれた弱さに、彼女の強さを知った。悩み、苦しみながらも、笑って前を向く、その姿勢が酷く眩しくて、酷く羨ましい。
あの人みたいになりたい──
不意に溢れてきた気持ちは、あまりにも甘くて媚薬のように身体の奥が疼く。憧れに尊敬と羨望が加わって、好意が次々と上書きされていく。
押し込めて閉じ込めた想いが実を結ばなくても良い。
ただ、貴女が潰れそうなとき、その弱音を真っ先に打ち明けてくれる様な存在になりたい。
こんな情けなくて、弱虫で、コミュ障で、ダサくて、つまらない人間じゃダメなんだ──!
………………変わりたい
せめて、前向きであるように。
せめて、隣にいて恥ずかしくない人間であるように。
せめて、貴女の気持ちに誰よりも早く気づけるように。
だから、自分を変えたい
何が出来るかなんて分からない。だけど、じっとしていられない。
「歩ー、帰ってきてるの?
お風呂空いたわよ」
花江の声がドア越しに聞こえてくる。
拳を握りしめた後、ゆっくり立ち上がった。頬の赤みも、うるさかった鼓動も元に戻っている。
「はーい」
ドアを開けて返事をすると、前を向いて歩き出した。
〈第一部了〉
ここまでが第一部になります。
ここまで読んで下さり、ありがとうございます。
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ありきたりな言葉で申し訳ありませんが、本当に励みになっています。
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