第17話 鳥居春海 (8)

しとしとと降る雨の午後、ランチも終わり『CLOZE』のプレートをおろした店内でぼんやりとカウンターに座っていた歩の耳に、ドアをノックする音が届いた。


「あ!」


「こんにちは」


 開いたドアの向こうには傘を持った春海が立っていて、その場で用件を告げようとするのを遮り、とりあえず中に招き入れる。窓越しに聞こえた雨音よりも強めに降っている雨から手に持ったバックを庇うようにしていたのだろう、傘を畳んだ春海の肩口から袖がじわりと濡れているのに気づき、奥の自宅から持ってきたタオルを差し出した。


「これ、使ってください」

「あぁ、ありがと。

 気を使わせちゃって悪いわね」

「いえ」

「休憩中だったのよね。

 直ぐ済む用事だから」


 春海がバックからクリアファイルに挟まれた書類を取り出したのを見て、少し慌てる。


「あの、花ちゃんなら今出掛けてて。

 もう少ししたら戻って来ると思うんですけど……」

「あ、花江さんは良いの。

 さっき電話して許可貰ったから。これをお店に置いて欲しいんだけど」


 差し出されたプリントには『おおかみ体験イベント』の文字が大きく載っている。


「……体験イベント?」

「そう。

 色々な職種の体験をしてもらうことで、自分たちの住んでる町へ興味や関心を持ってもらえるようにしたいの。

 第一弾は農業でさつま芋掘り。

 町報にも掲載するんだけど、少しでも沢山の人に参加して欲しくてあちこちに掲示をお願いしてるのよ。

 目につくところに貼ってくれるかしら」


「分かりました」

「歩ちゃんも良かったら参加してよ」


「……考えてみます」


 春海の誘いに曖昧な笑みを浮かべて書類を受け取る。誘われるのは嬉しいが、見知らぬ人たちの中に混じって何かをするのは無理だ。そんな思いが表情に出ていたのだろうか、それ以上何も言わない春海が「それじゃあね」と引き返そうとした時、カウンター奥のオーブンから加熱終了のメロディーが流れてきた。


「あ、あの、春海さん!

 少しだけ、時間あります?

 お菓子作ってたので、その、良かったら、……雨が小降りになるまで、……お茶、しませんか?」


 期待にそえれない事に罪悪感を覚えた歩が焼き上がるのを待っていたガトーショコラの存在を思いだし、咄嗟に引き留める。


「わ、良いの!?

 ここに入ったときに凄く甘い匂いがするなぁって思ってたのよね」


 一瞬驚いた顔を見せた春海が少し考えた後、カウンターに腰かける。歩の誘いを受けてくれた事に気づき、慌ててオーブンへ向かう。オーブンの扉を開けて出来上がりをチェックする間もずっと視線を感じ、少し緊張しながら型をそっと取り出した。


「うわぁ、良い香り。

 これってチョコケーキ? ガトーショコラ?」

「えっと、ガトーショコラです。

 初めて作ったから自信ないですけど……」

「へぇ、凄いわね~」


 うっとりとした様子で手元を眺める春海に、熱の冷めないまま一切れカットしたものをフォークと共に差し出した。


「まだ熱いですけど……どうぞ」

「ありがとー、頂きます。

 熱っ!?」


 いそいそと一口食べた春海が熱さに驚きながら「美味しい」と頬を緩める。その表情につられて歩も微笑むと、コーヒーを淹れるため春海が普段使っているマグカップを取り出した。


 ◇


「歩ちゃん、お菓子作り好きなの?」


 程よく冷めたガトーショコラを切り分けていると、コーヒーを片手に春海が話しかけてくる。


「そうですね。多分好きなんだと思います」

「なに、多分って」


 本当は時間をもて余して始めたのがきっかけなのだが、正直に話すわけにはいかず、曖昧な答え方になってしまった。そんな歩の他人事のような返答が可笑しかったのか春海がくすくす笑う。

 今日偶々ガトーショコラを作ったのは春海に貰ったお礼のパウンドケーキを思い出したからで、そこでふと春海に先日のお礼を伝えていないことに気がついた。


「春海さん。

 この間のお土産美味しかったです。

 お礼言うの遅くなりました。ありがとうございました」

「いいわよ。

 もうお返しも貰ったことだし」

「いえ、そんな訳には……」

「私は別に気にしないのに」


 ごにょごにょと口ごもる歩を眼だけで笑った春海が見る。カウンター越しとはいえ、正面からその視線を受け止める事が出来なくてうつむき気味になりながら切り分けたガトーショコラの大半を丁寧に包んでカウンターに差し出した。


「これ、良かったら職場の皆さんで食べて下さい」

「え、流石に遠慮しとくわよ!」

「いえ、花ちゃんの分は取りましたし、また作れば良いので。

 それに……」


「それに?」


 ぼそり、と呟いた言葉にはっとして慌てて口を閉じるも、春海には聞こえていたようで続きを促される。真っ直ぐ見つめてくる瞳が眩しくて目を逸らすと、どきどきしながら言葉を続けた。


「その、……春海さんに『美味しい』って言われて、凄く……嬉しかったから」


 自分が作ったもので喜んでくれるなら、いくらでも作りたい、そう続けたかったが、流石に勇気が出ず途切れ途切れになりながらも何とか言うと、春海がにこりと笑った。


「そっかぁ。

 じゃあ、ありがたく頂くわ」


 嬉しそうに春海がそっとバックにしまう。その丁寧な手つきをいつの間にか視線で追っていて、春海が自分を見ていることに気がついた。


「私、なんだかお茶しに来たみたいね」

「ふふ」


 いたずらを共有するような口調に思わず笑うと、春海も笑顔を浮かべる。


「さて、リフレッシュできたことだしもう少し頑張ってくるわね。コーヒーまでありがとう」

「いえ」


 再び仕事に戻るらしい春海を見送るために後ろに続くと、ドアの前で春海が振り返った。


「な、何でしょう?」


「ううん。

 ご馳走さま」


 まるで微笑ましいものを見たかのような表情で帰っていった春海を見送り、片付けをするため歩もドアの中に戻っていった。

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