第5話 叔母の友人 (5)

ディナーの営業時間が終わり、疲れた身体を引きずって自室の灯りをつける。ベッドの正面に吊るされたストラップが出迎えてくれるように輝き、引き寄せられるようにそっと手に取った。


 出張先で友人にお土産を買うついでに、その姪にも、と思うのは春海にとってはきっと何でもないことなのだろう。だけど、不意討ちで与えられる好意に慣れていない歩には、あまりにも効果的だった。しかも、あんな表情を見せられた後なら、尚更。


 顔に近づけると、僅かに春海の匂いがするような気がして、それだけで身体中の血がかっと熱くなった。ぎゅっ、と目を閉じると、熱っぽい吐息を閉じ込めるように下唇を噛む。


 思えば、初めから意識していたのかもしれない。

 茶色の緩いウェーブがかった髪、耳朶に光るピアス、細く長い指先、勝ち気な性格を表すような強めの眼差し、普通なら我が儘ともとられそうな物言い──

 自分には全て無いもので、その全て持っている様な存在の彼女と、惹かれそうになっている自分に。


 だから、必死で嫌いになろうと思っていた、距離を置こうとしていた。


 今まで気づかない振りをしていた感情はいつの間にか歩の心に大きく広がっていたらしい。いとも簡単に崩れてしまった心の壁を恨めしく思いながら、ベッドの上に倒れこんだ。



 ◇


 自分が異分子だと気づいたのは、高校で初めて好きな人が出来たときだった。

 地元から少し離れた進学校に入学した歩に待っていたのは、大人数の見知らぬ同級生と、朝から夕方までみっちり詰め込まれた授業。元々大人しめな性格だったことに加え、毎日の授業についていくのがやっとの生活に、やがて日常を一人で過ごすことが多くなり、そんな歩に声を掛けてくれたのが、歩の初恋の相手だった。


 長い髪と優しい性格、はにかむように笑う表情が印象的で、笑うと口元にえくぼが出来る可愛らしい女の子。

 人懐っこい性格故にいつも大勢の友人に囲まれながらも、時折一人きりの歩に気を遣ってくれるように話しかけてくれる彼女と、もっと一緒に過ごしたい、ずっと傍にいたい、と望む自分がいて、いつしか視線で追い、話しかけられる度に胸をときめかせる様になっていた。


 初めて胸に灯った感情に戸惑いながらも、淡く甘い幸せが嬉しかった。だがその一方で、同性に惹かれる自分の性癖にショックを受けたのも事実で、ときめく気持ちの中には常に苦しみが伴っていた。

 告白なんて考えられなくて、ただ漫然と流れる高校生活の間だけでも、傍にいたかった。


 そんなささやかな願いさえ叶わないまま、高校生活はある日突然激変する。


 一人きりの日常が当たり前になった頃、授業を終えて帰路に着いていた歩は学校に忘れ物をしたことに気がついた。学校に戻るのは面倒だったが、明日提出する課題にはどうしても必要で仕方なく来た道を引き返す。放課後の学校は既に部活が始まっていたようで、あちこちから声が聞こえてくる。


 ランニングの掛け声、吹奏楽の楽器の音、体育館の床を鳴らす靴の音──

 どれもこれも帰宅部の歩にとっては馴染みの無い音で、ただでさえ馴染めない雰囲気の学校がますます歩を拒絶している様に思えた。


「早く取りに行こう……」


 心細さからこそこそと廊下を歩いていくと、窓もドアも開けっ放しの歩の教室から声が聞こえてくる。どうやらクラスメイトの幾人かが放課後に残って談笑しているらしく、聞こえてくる笑い声が軽蔑と嫌悪を含んでいることに気付き、自然と向かう速度が鈍った。


「だからぁ、本多さんって絶対レズだってば!」

「うわぁ、マジ!」


「!?」


 自分の名前が出たことに驚いて足を止めるも、廊下まで聞こえてくる声は聞き間違えもない同じクラスのリーダー的存在の女子の声で、更に聞き覚えのある女子の驚いたような声が続く。


「だから、蓮ちゃん。本多さんに声掛けるのは止めた方が良いよ」

「あたしもそう思う。だって、本多さん、蓮ちゃんの事ずっと見てるんだよ! 絶対イヤらしいこと想像してるに決まってるよ」


「そんな事ないと思うよ」


 どうやら歩の初恋の相手も同じ場にいるらしく、困ったように否定する声が弱々しく聞こえてくる。


「体育で着替える時とか変な視線感じたこと無い?」

「あ~、あれだけ毎日見てるならあるかも」

「今度からあたし達がさりげなくガードしておくから。もし、何かあったら先生に言おうよ」

「マジでキモい!」

「あたし、同性愛者ってテレビの中だけかと思ってたけど、こんな近くにいたんだね~」

「女が女を好きとか信じられないわぁ」

「蓮ちゃんかわいそう」


 次々と放たれる言葉が歩の胸に突き刺さる。

 頭の中が真っ白になり、ドッドッと音を立てる心臓の音しか聞こえてこない。冷や汗が身体を伝い、息をするのさえ怖くて、頭の中は先ほどの言葉がずっと繰り返されていた。

 ふらつく足で教室を離れ、家に帰りつくまでの道をどうやって帰ったかすら覚えていない。気がつけば真っ暗な自分の部屋の片隅に立っていた。


『同性愛者』

『キモい』

『かわいそう』


 自分の恋心が周りに知られていた羞恥心と、自分で受け入れられない感情が周りにとっては『害』でしかないという事実が歩を襲う。


「っ!?

 ……っく、げぼっ…………げほ…………はっ……っは……」


 急に吐き気を覚えてトイレに駆け込むと、胃の中の物を全て吐き出した。吐いても吐いてもせりあがる胃液が口からこぼれる度に視界が滲んでいく。ずるずると座り込んだまま、込み上げる苦しさだけではない理由で、ただひたすら涙を流し続けていた。



 その日以降、周りの目が怖くて部屋から出ることができなくなり、引きこもるようになってしまった。最初は体調不良と誤魔化して休んでいたものの、日を追うにつれ、明らかに学校へ行くことを拒否し続ける歩の突然の変化に、両親は驚き、戸惑った。何度も理由を訊ねられたものの、打ち明けられるはずなどなくて、泣いて、泣いて、泣き通した日々は今でも思い出したくもない。


 結局一年近く学校を休んだ事で、両親も高校の話をすることもなく、家でも孤立気味だった歩を花江がこの町に誘ってくれるまで、歩はずっと一人だった。


 ◇


「好きになってなんかいない……」


 ぽつり、とこぼれた言葉に苦い想いが込み上げる。


 またあんな思いをしたくはない。

 こんな気持ちを抱いてると知られたなら、きっと今度こそ生きてはいけない。


 滲み出す涙を目元が赤くなるくらい何度も拭き取って顔を上げると、ストラップを元の場所に戻した。

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