【読み切り版】よしよしbotな妹は好きですか?

白銀アクア

第1話 よしよしは最高です

「よしよし、良い子、良い子~」


 天然のASMRボイスが鼓膜を撫でる。

 ふわっとした温もりに包まれた指が、僕、霧島きりしま歩夢あゆむの髪をさする。手首のブレスレットが目の前をちらつく。


 ヤバい。

 妹によしよしされて、落ちそうなんですけど。


「おにいちゃん、パンツを汚さずに、おしっこできて、エラい、エラい~」


 妹の霧島きりしま心愛ここあがとんでもないことを口走る。

 案の定。


「霧島の野郎、心愛たんに介護してもらえるなんて――」

「うらやま氏ね」

「俺の妹なんざ、俺の後にトイレ入るときは防護服に着替えやがるからな」

「ボクは歩夢きゅんの髪に転生するンゴォ」


 近くにいたクラスメイトたちの視線が一気に僕たちに向けられる。

 本当だったら、今すぐにでも妹から離れたいのだが。


「ふごおおぉおぉっつっっ(心愛、学校だし、ちょっとは控えて――)」


 心の声とは別に、口から出た音は意味をなしていなかった。

 それどころか。


「おにいちゃん、ご褒美がほしいの?」


 妹は僕の返事を待つことなく――といっても、今の僕はまともにしゃべれないのだが――行動に出た。


 同じ年の妹の指が僕の後頭部を掴んで。


 たっぷんたっぷんとしたモノが耳に当てられる。


 ――トクン、トクン。


 規則正しい音が心地よい。まるで、母の胎内にいるかのよう。


「あたしの心音……どう?」


 ASMRボイスが強烈な眠気を誘う。

 もうどうでもよくなった。


 妹の胸の感触と、心臓の鼓動と、ささやき声。

 人を堕落させる究極のアイテムである。


 休み時間が終わるまで、満喫するか。

 僕、しゃべれないし。無理に抜け出して、妹を傷つけたくない。全力で好意に甘えよう。


 ぐっすり寝たいのだが。


「おい、オレの心愛たんが心音配信してるぞ」

「俺も心愛チャンネルのメンバーシップに入れば、心音――」

「きしょいっての」

「でも、ボク、月1億円払ってもいいから、心愛たんのEカップ心音聴くンゴ」


 周りが盛り上がっていて、寝るに寝られない。

 動画投稿サイトに詳しい幼なじみによれば、心音(心臓の鼓動)を聴かせてくれるVTuberもいるらしい。ただし、メンバーシップ限定配信で、月額課金必要みたいだけど。


 それはさておき、心愛Eカップだったのか。どおりで、頬で谷間を感じるわけだ。制服なのにね。

 いや、妹でなんてこと考えてるんだ、僕は。恥ずかしい。


 そんなことより、今や教室中の注目を浴びている。

 心愛が気分を害さないか心配になりかけるが、当の妹は楽しげに鼻歌を歌っている。


 妹の成長を見ているようで、うれしいような寂しいような。


 半年前、僕が事故に遭って、脳に傷を負って。言葉を失って、自分のことも満足にできなくなって。


 僕が赤ん坊に戻って行くのに対して、妹が急に大人びてきて。

 女性らしい体つきになってきて。双丘が日増しに膨らむとともに、包容力も豊かになって。

 精神的にも高校に入ったときは、おどおどしていたのに、半年も経たずに人前で堂々と僕をあやせるようになっている。


 兄としては複雑な気分で、妹に甘えていた。


 モヤモヤしていたら、チャイムが鳴る。

 妹が離れていく。授業が始まるまで、妹の温もりが残っていた。


   ○


 次は体育の時間。

 本当なら、ひとりで着替えないといけないところ。


「おにいちゃん、ズボン降ろすからね~」


 妹の吐息がお腹をくすぐる。指がベルトのバックルに触れる。

 僕は妹に着替えさせてもらっていた。


 体育準備室。跳び箱や、バスケットボールが入ったカゴなどをしまう狭い部屋だ。

 妹とふたりきり。甘酸っぱいイチゴの香りが鼻孔をくすぐる。さらさらの銀髪が僕の膝をくすぐる。


 人並みに行動できないこともあり、学校には許可をもらってのこと。本当なら、更衣室を使いたいのだが、残念ながら男子更衣室はない。代わりに、体育準備室を使わせてもらっているわけだ。


 体育準備室。言葉の響き的にも、殺風景な空間的にも、本来たいして意味がないはず。

 なのに、心愛みたいな美少女と密室にふたりきりでいて、しかも着替えさせてもらっている。体育準備室ってこういう空間だっけ?


「おにいちゃん、お着替えできて、良い子、良い子」


 いつのまにか着替えが終わったようだ。

 最初から最後まで、僕なにもしなかったんだけどね。


「じゃあ、あたしも着替えるから」


 妹はブラウスのボタンに指をかける。慣れた手つきでボタンを外し、白い布に包まれた胸が露わになる。

 数ヶ月も同じことをしているのに、いまだに慣れない。


 目を伏せようとする。

 すると、ちょうどスカートを脱いだところだった。上とお揃いの白いパンツを見てしまう。イチゴのプリントがかわいい。


 床をじっと見つめていたら。


「おにいちゃん、待ってて、エラい、エラい~」


 体操着姿の妹が背伸びして僕の頭を撫でる。

 制服よりも薄くなった妹の温もりを感じる。


「うぅうぅぅぅぅぅぅぅぅぅ(僕、なにもしてないんだけどな)」

「照れてるのね、良い子、良い子~」


 なにもしてないのに、心愛が僕を全肯定してくる。

 周りから見たら、妹はバカなことを言っているのかもしれない。


 けれど、僕にしてみたら。

 事故に遭って以来、自分にできることが減っているわけで。

 誰にでもできることを褒めてもらえるだけで、うれしくなってきて。

 話せないなりに、ぎりぎりのところで自我を保っていられるのも。


「おにいちゃん、生きてて、ありがと❤」


 妹が僕を甘やかしてくれるからかもしれない。


「体育は離れちゃうから、お守りを渡すね」


 そう言って、妹は僕の右手首にブレスレットをつける。妹の温もりが残っていて、心がポカポカした。


 妹に手を引かれて、体育準備室を出る。

 体育の時間は男女が別。体育館の半面を男子が、残りを女子が使っている。


 男子はバスケットボールだった。

 といっても、僕は試合に出るわけではない。準備体操とシュートの練習を軽くやって、残りの時間は見学だった。複雑な行動はできないし、試合の流れに脳がついていけないから、見学が許されている。


 隅の方で座ってぼんやりとしていたら、校内放送があった。


「体育の鈴木先生、至急職員室まで来てください」


 授業中の呼び出しだ。


「ごめん、ちょっと行ってくる。あとはバスケ部に任せた」


 男子を見ていた鈴木先生は慌てて体育館を出て行く。

 どうせ僕は見学だ。先生がいてもいなくても変わりない。


 と思ったのだが。


「ねえねえ、ちょっといいかな」


 後ろから背中をちょんちょんと叩かれる。


「ボク、君に話したいことがあるんだよね」


 僕と心愛を見て、「ンゴンゴ」言ってた男子だ。


「ボクさあ、心愛たんの非公式チャンネルを運営してんのね」

「ふごぉぉっっ(心愛の非公式チャンネルなんてあるんだ?)」

「非公式チャンネルと言っても、実態は心愛たん親衛隊。略して、KTS」

「……」

「心愛ちゃんは全人類の妹にして、究極の女神さま」


 目が語っている。彼が心愛を崇拝している、と。


「なのにさ、貴様は心愛たんの心音を独り占めしやがって」

「ふごぉぉっっ(僕の意思じゃないんだよ)」

「心愛たんは神聖にして、犯すべからず」


 彼は息を荒くし、目が血走っている。身体が大きいこともあり、圧迫感がある。


「なのに、貴様は兄という立場と、事故を理由にして、心愛たんによしよしされて」


 だから、僕もされるがままなんだって。

 そう言いたいのに、言葉が出せない。


「今日までは黙って見ていたら、もはや許さん」


 僕に向けられる敵意はすさまじかった。

 何人かが僕たちを見て、怪訝そうな顔をする。


「みんな、心愛たんによしよしされたいんだぞ。よしよしこそ人生。よしよしには1億円の価値がある」

「KKKKKKKKKKKKKKKK(1億円?)」

「全世界の心愛民が言ってるっての!」


 彼はアホだ。その常識外れな言動が恐怖を生む。


「貴様に何かあったら、心愛たんはボクによしよししてくれるのかな?」


 なにを考えている?

 本能が危機を伝える。

 だが、言葉は失われ、身体も自分の思ったように動かせない。


「それ、さっき、心愛たんがしてたよね」


 彼の目がブレスレットに留まる。


「ボク、そのブレスレットほしいなあ」

「……」

「君に手を出さない代わりに、譲ってくれないかな?」


 脅迫だった。


「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ(イヤだ!)」


 もちろん、僕に返事なんかできない。

 彼のぶっとい腕が僕の右手を掴む。


「あぁっっっっっっっっっっっっ(やめろ、離せ!)」


 抵抗を試みるも、事故前のように手を動かせない。今の僕には振りほどくのは無理だった。


 誰かの助けを待つのも厳しいだろう。

 普段から僕は美少女の妹に介護されていて、うらやましいと思われている。教室で堂々と胸を押しつけられて、心音なんて聴かされてたんだもんな。


 妹の目がない今、僕に味方してくれる人はいない。こっちをチラチラ見ても誰も動かないのは、そういうことだ。あるいは、僕に味方したくても、雰囲気的に難しいか。


「いいから、寄こせ!」


 心愛たん親衛隊の強引にブレスレットを奪おうとしてくる。

 手首を強く掴まれて、痛い。ただのデブだと思ったら、意外と握力がある。


「うっ」


 間の抜けた声とともに、己の無力さを痛感させられる。


 これだけは譲れない。大事な妹が僕のお守りにと渡してくれたもの。

 本来なら、僕が妹を守らないといけないのに。


 もし、彼に屈しても、妹は笑って許してくれる。いや、僕の身を案じて、つきっきりで面倒を見てくれる。「おにいちゃん、痛くない?」とか言って、手首をペロペロなめるとかありうるな。


 だから、負けても問題ない。

 徐々に指先に近づくブレスレットを見て、弱気になりながらも。


 僕は首をひねる。


 妹は僕を気遣って、僕を甘えさせてくれる。よしよししてくれる。まるで、ロボット《bot》のように。

 自分が傷ついていても、僕を不安にさせないために、笑顔でいる。


 そんな子なんだ、僕の妹は。


 僕は妹を守りたい。

 僕が妹を守るんだ。


 笑っちゃうよな。自分のことも満足にできない人間が、大好きな人のために戦おうと思ったのだから。


 左肩を後ろに引くと、溜めを作って、肩と頭から彼にぶつかっていく。いわば、体当たり。

 とっさの反撃は想定外だったらしい。男はバランスを崩し、尻餅をつく。


「おにいちゃん、なにしてるの!」


 と、そこで妹の声が飛んできた。

 妹が走って近づいてくる。


「なっ」


 心愛たん親衛隊を名乗る男は動揺し、正座になる。


「心愛さま、これは……おにいさまが見学退屈そうで」

「遊んでいたとでもいうわけ?」


 いつもは朗らかな心愛の目が怖い。


「ひぇっ」


 男はすっかり縮み上がっている。


「もうしませんから、今回だけは許してください」

「……わかったわ。約束を破ったら、一生口がきけないと思いなさい」


 怖いんですけど。半年前まで、僕の背中に隠れていたような子が、殺気を放ってるんですけど。


「じゃあ、おにいちゃん、保健室に行きましょ」


 そういうと、心愛は女子体育を見ていた先生に頭を下げる。


 妹と一緒に体育館を出る。

 10月のさわやかな風が心地よい。腕に伝わる妹の鼓動は、教室のときよりも熱かった。彼女の想いがよりいっそう感じられて、心が落ち着いてくる。


「よしよし、おにいちゃん、がんばった、エラい、エラい」


 心愛が僕の頭を撫でる。

 風に揺られた銀髪が僕の肩をくすぐった。


 妹によしよしされるだけで、勇気が湧いてくる。


 自分が無力だと思っていたけれど、僕にもできることがある。

 少しでもいいから、妹に恩を返していきたい。


 よしよしされながら、僕は決意を強くする。


 やっぱり、よしよしは最高だな。

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