第5話 吾輩は────
『吾輩は柴犬──名前はまだない。どこからやってきたのか、どこへ行くのかも見当がつかないただの野良犬だ。そして今……吾輩は、とある苦行にさらされている。それは────』
絶え間なく流れる温水。
勢いよく出てきた水が体に強く当たる。
きっとそこで住んでいたであろう小さき生き物達を無情にも押し流し、その人道から外れる所業に心を痛めていた。
諸行無常なり……
「そんな顔をしても家に入るからには絶対洗うからな」
「くぅ~ん……」
シャワーを浴びる時のこの犬は、この世の終わりみたいな顔をする。
本来、綺麗な毛並みの白い柴犬であるがシャワーを浴びる前は完全にクリーム色に仕上がっていた。
ただ……クリーム色であればまだましなのかもしれない。
一通りシャワーで洗い流した後にプルプルと震える水切り散弾銃をお見舞いされる。
ならば、仕返しに両の手に押し出されて召喚された泡立つ液体を塗り込み目の前の白柴にねっちょりと……パシャパシャと……擦り付けた。
白柴は必死に抵抗する。
だが風呂場のドアは硬く閉められ指無き手で開けることは、柴犬の脳みそでは到底不可能な事象であった。
ただただ前足を前に出してもがく。そして足掻く。
『なぜだ……なぜこんな目に合わなくてはならんのか』
次第に哀愁漂う顔は後悔の表情に侵されていった。
もしも、この柴犬がしゃべったとして『なぜ洗うのか!』と問われたとしよう。
その時、俺はこう返すだろう。
「家の中に無断で入っていたるところ泥まみれにした犯人はどこのどいつだ。と!!」
その日、異界探索員の試験がある日だった。無気力にまみれた自堕落な生活を送る26歳無職。
多分だが、人は自分の生活がままならなくなりそうになると行動を起こすのだろう。
何をやっても心が晴れない。
何をやっても悲しいままで日々を過ごし何にも手を付けられない廃人のような毎日。
しかし、そんな日々を打ち切る重大な現実が待ち構えていた。
生活資金が底をつきかけていたのだ。
何とかして稼がなければならない。どうにかしなければこの家すら維持できない。だが、どうだ?
一時、どこか働ける場所を探した。探しはした……しかし、ここはほぼほぼ片田舎だ。
関東圏でありながら埼玉県、日之崎市という今はもう忘れ去られた土地。
住んでる人は限られていた。
災厄の後、人口の少ない田舎はほとんど廃墟となった。
魔物は徘徊し防衛力のない地元民はただの餌になり果てる。
警察や自衛隊も人通りの少ないところをカバーするのは難しく退去を余儀なくされ人口減少に悩まされていた地域はより深刻となっていた。
ここも例外じゃない。
人が少なくなった地域で職を探すのはもう無理な状況になっていた。それならば今住んでる場所を売り払って都会に出てしまえばいいじゃないか。
そういう選択肢もあるにはあった。
けれどそれは出来なかった。
古いながらも思い出深い家。今は面影しか感じることのできない家族と過ごした家だ。
これは、いわゆる偏執だ。
そんな折、近くに異界ができているのだから渡りに船だ。お金も稼げて憎い魔物を殺せる異界探索員の国家資格に目が行った。
その先は……
痛みにもだえ苦しんで逃げ出したなんて未来が待っていたのは言うまでもないだろう。
異界探索員の試験を受けた当日。半日でテストは終わり帰ってきて驚愕した。
たぶん土足で荒らされた家。散乱する衣類。汚されたカーペット。散らかったゴミ。
一瞬で家の中の異変に気付いた。
泥棒にでも入られたのかと思ったが玄関に上がった瞬間、かわいらしい肉球の足跡がやつの仕業であることを物語る。
犯人は意外にも近くに居た。
ふてぶてしく座布団の上で寝転がる泥だらけの野獣は、寝息をたててぐっすりと眠っていた。
丸くフワッとした尻尾。汚れていてもなお若干フワッとした毛とずんぐりむっくりとした胴体の白い柴犬だ。
それから夢の世界から現実へと引きずり抱えて洗面所へ直行。
風呂場へ監禁。
シャワー水浴びシャンプーの刑に処した。
今まで家の庭先に出没することが多かった白柴。
この侵入を期に度々2~3日おきか長くて1週間おきに家に入るようになったのでよくわからない野犬を家に上げる変な習慣ができてしまった。
正直狂犬病が怖い。
ただ、今のところ噛まれたことはないし自分の寿命があとわずかになりそうなことにはなっていない。
我ながら結構幸運ではないだろうかと思う。
それにこの白い柴犬はそもそも……っとそうこうしてるうちに洗い終わる。
風呂から上げ外に出たい欲求を前面に押し出しドアの前で待機する白柴。
クリーム柴から一転して洗われた毛並みは綺麗な白を見せ白柴に転生していた。
純粋にきれいな柴犬だ。
ただ、この時の白柴の格好はとても情けなくしっぽを尻にくっつけながら『はよあけろ』と目で訴えかけてくる。
心で答えよう『何をいっているのだ貴様は……』と────洗面所から出る扉を開けるわけがないではないか。
まだ終わっていない。
すべては水に濡れた時から始まっていたのだ。
電流が流れボタンをスライドさせると轟音と供に奇怪な温風が白柴を襲う。
早く乾かすために風呂場で浴びせた水切り散弾銃ことブルブルっと水切りの仕草をしないのは何かの嫌がらせなのかと考えつつもタオルでがっしりと水を拭き取り容赦なく温風を吹きあてた。
しばらくして白柴のモフモフ感が増したのを感じてから温風を鎮めた。
そして釈放する。
自由の身となった白柴はただただこちらを見つめていた。
『よくもやったなこのやろー』
この犬は、そんな目をしていた。
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