第52話 いま、話したいことがある
大丈夫、大丈夫、と心の中で繰り返してから、私は車椅子を動かし部屋を出る。
お父さんとお母さんはリビングにいるはずだ。
経験したことのない不安と恐怖が、私の勇気を奪い去ろうとしている。
でも。
大丈夫。
大丈夫。
私は、みんなに愛をいっぱいもらったから。
廊下をゆっくりと進みながら、頭の中に浮かべたのは辰馬の笑顔。
愛奈萌の笑顔。
そして、お父さんとお母さんの笑顔。
お兄ちゃんの笑顔。
「みんな、私を愛してくれた」
ついさっきだって、辰馬と愛奈萌とカラオケに行って勇気を受け取ってきた。
お父さんとお母さんはいつだって私優先で、私のためにいろいろと尽くしてくれた。
それを思い出せば、怖くなんてないはずなのに。
信じられるはずなのに。
リビングの扉の前で、足が竦んでしまう。いや、私の場合は車椅子が竦んでしまうか。大丈夫、大丈夫、と何度も自分を鼓舞してようやく扉に手をかける。音を立てずに少しだけスライドさせ――また手が固まってしまった。
わずかな隙間から中を覗くと、ソファに隣通しで座っているお父さんとお母さんの後頭部が見えた。
もう、なんでこうなの!
がんばれ私!
みんなから愛をたくさんもらったじゃないか!
「そういえば、今日って、あの日よね」
リビングの中からお母さんの声が聞こえて、私の身体がびくりと跳ねる。
あの日?
今日ってなにか特別な日だった?
「そうか。今日は俺たちの大切な記念日か」
記念日?
私は二人の言葉に耳を疑う。
結婚記念日は違うし、誰かの誕生日でもない。毎年この日に両親がなにかしていたのも見たことはない。
「懐かしいし、ちょっと情けないわよね。知佳の本当の親になってまだ四年目だなんて。山川先生に言われるまで、私たちは本当に、和樹にとらわれすぎてた」
え?
本当の親?
山川先生――私のカウンセリング担当の先生に言われるまで?
どういうこと?
「でも、一生向き合えないよりはいいじゃないか。あの日、知佳が歩けないふりをしているだけかもしれないって、山川先生に叱られたおかげで俺たちは変われた」
う……そ。
私は唇をかみしめていた。
お父さん、今歩けないふりって、その言葉を言った?
「そうね。山川先生に感謝しないと。知佳は私たちを困らせたいんだって、私はその可能性を考えもしなかったから」
「俺だって、知佳のことをわがままを言わない子だって勘違いしてた。……いや、実際知佳はいい子なんだけど、自慢の娘なんだけど、それじゃだめなんだよな」
困らせたい。
自慢の娘。
二人の言葉が、心の中に染みわたっていく。
「手のかからない良い子がいる、大人みたいに振舞ってる子がいるって状況は、望ましいけど異常なんだよな。だって子供は子供なんだから」
「知佳は良い子だったんじゃなくて、私たちにとって都合の良い子だったのよね」
「ほんと、悪い意味の親ばかだったよな、俺たち」
お父さん、お母さん。
胸がどうしようもなくざわめいてる。
これって、つまり……。
二人とも、私が歩けないふりをしているって気づいてたってこと?
ずっと前から?
「子供である知佳の方が甘える立場なのに、私たちがしっかり者の知佳にずっと甘えていたのよね」
「だからこそ、ちゃんと受け入れようって決めたじゃないか。困らせたいってことは、知佳が俺たちを求めてくれているってことだから」
「親ばかな私たちにまだまだ甘えたいって思ってくれている。親になれる最後のチャンスをくれたんだものね」
「そのおかげで毎日が本当に楽しくなったよな。知佳の笑顔が見られて、知佳のために尽くせて、一緒の時間を取り戻せて」
「ええ。本当に幸せだった。ずっと、ずっとずっと、これからだって」
「歩けるとか歩けないとか、どうでもよかったんだよな。知佳が笑ってくれるなら、そこにいてくれるなら、俺たち家族は最高に幸せなんだから」
お父さんがお母さんの肩に手を回す。
「知佳の足を揉んだり、あの子に似合う服を見つけたり、本当に幸せだった。こんなに幸せなこと他にないくらい」
お母さんもそんなお父さんに身体を預け、肩に頭をのせる。
くそぉ。
なんだよ、いい年してラブラブかよ。
私がきっけかでそんなイチャイチャして。
ほんとに、お父さんもお母さんもばかだ。親ばかだ。すがすがしいほど親ばかじゃないか。
心がじんわりと熱くなる。体が震える。今にも涙がこぼれそう。
私はずっと独り相撲をしていて、でもそれに気が付いたうえで二人は私を受け入れてくれいた。
すごく愛されていた。
ほんと、ばかみたいじゃん、私。
なんでずっと不安がっていたのだろう。
恐怖を感じていたのだろう。
お父さんとお母さんの本当の愛に、ようやく気づけたよ。
ごめんね。遅くなって。
でも、これからも愛をいっぱい注いでね。
私も、いっぱいいっぱい返していくから。
私は拳をぎゅっと握りしめ、それを胸に押し当てた。お父さん。お母さん。お兄ちゃん。私はもう大丈夫です。その拳をそっと解いて、今まで苦労をかけてきた両足を丁寧にさすり、
「今までごめんね。これからもよろしく」
迷いも不安も恐怖も、完全に断ち切れた。
私は私。
梓川知佳。
辰馬も愛奈萌も、お父さんもお母さんもお兄ちゃんも。私のことをずっと信じてくれていたんだ。
よっしゃ。
もう私はみんなに大丈夫だって言えるよ。
ありがとうって感謝できるよ。
「私はずっと愛されてる」
そっと呟きながら瞼を強く閉じる。涙を目の奥底に押し込んでから、私はリビングの扉に再度手をかけ、がっと勢いよく開けた。
「お父さん、お母さん、私、二人に話があるの!」
*****
『ごめん。明日は学校休むね』
「嘘だろ……」
俺は呆然と呟く。
え? なにこれ?
ってことは失敗?
そのショックで学校を休むってことじゃ……。
いてもたってもいられなくなって知佳に電話しようとしたとき、新たなメッセージがスマホに送られてきた。
そこにはこう書かれてあった。
『お父さんが歩けるようになった記念とか言って、学校サボって旅行に行くことになったの』
読み終わると同時に、苦笑いを浮かべたうさぎのスタンプも送られてきた。
「よかったぁ」
なんだよもう! 心配させやがって!
『残ってる有給全部使い込む、退職も辞さないとか言っててさ。ほんと親ばか。お母さんはお母さんでもう宿の予約取っちゃったし』
知佳は呆れているのだろうが、俺には知佳の両親の気持ちの方が理解できるけどな。
いや、違う。
この文章は知佳なりの照れ隠しなのだろう。
だって知佳は、自分が歩けるようになったら両親が兄の幻影を追いかけるようになるのではないか、という恐怖に苛まれ続けていたのだ。にもかかわらず、覚悟を決めていざ両親の前で歩いてみたら、この反応。
死ぬほど嬉しいに決まってる。
そう思って、いま送られてきた知佳のメッセージを読み返すと、画面上の文字がキラキラと輝いているように見えた。
『よかったじゃん。おめでとう』
俺がそう返信すると、
『知佳すごい! 知佳のパパママの子煩悩っぷり笑』
同じタイミングで愛奈萌のメッセージも届いた。
『二人ともありがとう。箱根に行くことになったんだけど、お土産なにがいい?』
「なにがいい、かぁ」
俺は立ち上がって大きく背伸びをした。そのままふらふらと窓のそばまで歩いて夜空を見上げる。暗闇の中で輝く星を見ていたら、
「よし、これしかないな」
すごくおしゃれなお土産をひとつ思いついてしまった。
お土産なにがいい? に対する百点満点、いや、ノーベル賞級の回答だろう。
「俺もだいぶ成長したってことかな」
込み上がる自尊心に心地よさを感じながらスマホをぽちぽちして、送信ボタンをタップする。
『じゃあお土産は、知佳の楽しい思い出話かな』
なんてイケメンで完璧な解答なのだろう。
世界イケメンな返事選手権があったら、俺が断トツで一位だね。
完璧すぎて知佳はさらに俺にメロメロになることだろう。愛奈萌まで惚れちゃったらどうしようかなぁ…………あれっ?
浮かれていたのも束の間、既読がついてからいまだに返信がないことに気づく。
三十秒、一分と無反応が続く。
え?
どういうこと?
なんで二人とも反応してくれないの?
自尊心が困惑に変わっていく。なにか新しいメッセージを送った方がいいだろうかと思った矢先、ピロン、ピロン、と二つのメッセージが同時に届いた。
『カッコつけようとしてるのが見え見えなうえにダサいよ。男としての偏差値低すぎ』
『ごめん辰馬。彼女としてフォローしたかったけど、控えめに言ってスベってるよ』
愛奈萌も知佳もひどいっ!
ってかスベッてたの?
ダサかったの?
一人悶々ともだえ苦しむ俺に追い打ちをかけるように、二人からニヤニヤと笑ううさぎのスタンプが送られてきた。
「息ぴったりだな! もう!」
思わず部屋の中で叫んだ俺は、その後で、二人と同じニヤニヤと笑うウサギのスタンプを送り返した。
完
辰馬たちの物語にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
評価、感想等いただけるとすごくすごく嬉しいです。
また、今後は不定期になりますが、続きとしてサイドストーリーを投稿していきます。
よろしくお願いいたします。
田中ケケ
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