第41話 知佳の足になりたい
カフェで一時間ほど映画の感想を語り合ってから、俺たちは駅から歩いて十五分ほどのところにある公園に向かった。
東京ドーム約三個分の広さを誇るこの公園には、たくさんのイチョウの木が植えられており、この時期に向かえば、世界すべてが鮮やかな黄色に侵食されたかのような感覚を味会うことができる。
その荘厳な景色に、誰もかれもが息をのむ。
「すごい……」
知佳がしっとりとつぶやく。
イチョウの黄色と夕焼け空の紅色のコントラストは、否応なしに人の心の奥底にある情緒を揺さぶってくる。鈴の音がよく似合う景色だと思った。
「すごいすごいとは聞いてたけど、ここまでとはねぇ」
感嘆の声をあげた愛奈萌は、宙をひらひらと舞い降りてきたイチョウの葉を掌にのせてうっとりとしていた。
「確かにな。灯台下暗しっていうか、近くにこんな場所があったなんてなぁ」
いつでも行ける場所こそ、人間が一番足を運ばない場所である。場所に限らず、いつでも会える人、いつでもできる、いつでも話せる等、人間はいつでもを過剰なほど過信する生き物だ。
いつでもなんて、この世には存在しないのに。
だから人間はいつでも後悔している。
俺は母さんに謝れなかった。いつでもできると思っていたから明日にしようと思ったら母さんはいなくなった。
それと同じように、いつでも知佳に告白できると思ったら大間違いなんだ!
明日母さんに謝ればいいや、の明日がこなかったじゃないか!
俺たちは、イチョウを堪能しながらゆっくりと公園内を散歩し、やがて公園の西側にある大きな池にたどり着いた。
「やばいって、これ」
目を輝かせている愛奈萌が池を見下ろしながらそう口にした。
彼女が見つめる水面は、夕日が反射して鮮やかな紅色に輝いており、その中をいくつものイチョウの葉がゆらゆらと漂っている。わびさびの世界に迷い込んだかのような圧巻の景色に、何度もため息がこぼれた。
「ほんとに……綺麗」
池を見ながらそうつぶやいた知佳の方が綺麗だ、と思った自分を俺は心の中で笑った。
この後、俺はこの池の中央に浮かんでいる離れ小島で知佳に告白する予定だ。池の東側からかかっている橋を渡れば、そこに行くことができる。
ああ、やっぱり緊張するなぁ。
意識した途端、景色を楽しむ余裕がなくなってきた。
「二人とも、あそこ」
俺は愛奈萌と目配せをしてから、離れ小島の方を指さした。
「みんなで行ってみない?」
「いいね。行こーぜ」
愛奈萌が事前の打ち合わせ通り即座に賛成すると、知佳も「行きたい」と首を縦に振った。
「あ、でも私、喉乾いたから」
愛奈萌が鞄の中を探って財布を取り出す。
さすが元子役。
演技も自然だ。
「ちょっと飲み物買い行ってくるね。入口のとこに自販機あったから。二人もいる?」
「あ……じゃあ俺はコーヒーで。知佳は?」
普段だったら一緒に行くところだが、今日はそうしない。
知佳と二人きりになるためだ。
「えっ、あ、ああ……じゃあ私も同じので」
「了解。んじゃ、あとは頑張ってー」
胸の前で手をひらひらと振ってから、愛奈萌は背中を向けて歩き出した。
俺はその背中に、心の中で「ありがとう」と告げる。
「んじゃ、先に行って待ってようか」
「そうだね」
俺は知佳の車椅子を押して池の周りを半周し、木の橋を渡って離れ小島に向かった。池の中から公園を見渡すと、また違った趣を感じられる。
「見る場所が違うだけなのに全然違うね。まるでイチョウの池に浮いてるみたい」
どうやら知佳も同じことを思ったみたいだ。
「な。俺もびっくりした」
「愛奈萌も、はやく来ないかな?」
「そうだな」
そこから無言の時間が続いた。
別に気まずくない。
重苦しくもない。
ゆったりとした穏やかなひとときだ。
俺たちの周囲にいる人の話し声や風のささやかな音が、優しく鼓膜を揺らしてくれている。
「なぁ、知佳」
いましかない、と思う。
この落ち着いた、全てを包み込んでくれそうな優しい雰囲気を告白の味方にするしかないんだ!
知佳が首を傾げながら、俺の方を向く。
「ん? なに?」
「あ……いや…………」
俺は彼女の大きな瞳から思わず目を逸らしてしまった。やっぱり緊張するものは緊張するし、怖いものは怖い。
「その……なんつーか」
いま、この離れ小島には二組のカップルと家族ずれが一組いるが、みな水面の芸術に夢中で、俺たちのことなんか気にもしていない。
そう自分に言い聞かせる。
これ以上待っていると、限界まで膨らんだ勇気の風船がパンと弾けてしぼんでしまう。
覚悟を、決めなければ。
真の強い男になると姉ちゃんと約束したのだから。
「…………あ」
俺の顔色からなにかを感じ取ったのか、知佳はおもむろに居ずまいを正した。俺がやろうとしていることを察したのかもしれない。男女間での大事な話なんてひとつしかないからね。
さぁ、覚悟を決めろ! 龍山辰馬!
「あのさ、昨日……誘うとき、大事な話があるって、そう言ったじゃん」
俺は知佳の目を真っすぐ見た。
その瞬間に世界から音が消え、無音になる。
知佳と二人きりになる。
「はい」
知佳の返事はよそよそしく聞こえたが、そんなこと気にしていられない。俺は喉に息を詰まらせたまま、必死で口を動かした。
「俺は、知佳が歩けるようになるのを、その側でずっと見ていたい。俺は知佳が歩けるようになるまで、知佳の足でいたい」
知佳が顔を伏せた。
前髪で隠れてその表情が見えなくなる。
「いまのが、俺の本当の気持ちだ」
いつのまにか握りしめていた拳をふっと解くと風が吹いてきた。
とても柔らかな風だ。
知佳の髪がさらさらと揺れている。
「知佳、俺と付き合ってください」
車椅子に乗っている彼女は、うつむいたまま、なにも言葉を発さない。
俺は誤魔化したい、うやむやにしたい気持ちをなんとか抑え込んで待ち続けた。
もどかしい時間が流れる続ける。
――やがて、彼女は膝の上の鞄をギュッと抱きしめた。
「……ごめん、なさい」
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