第4話 彼女になってくれたお礼は
知佳の指差した先、昇降口の隅にはもう一つ車椅子が置かれていた。
彼女がいま乗っている車椅子より新しく見える。
詳しく話を聞くと、いま乗っているのは屋内用の車椅子――学校の備品――で、これから乗り換えるのは、彼女の私物である外用の電動車椅子だそうだ。
「ごめんなさい。ほんと面倒くさくて」
「だから、しょうがないことじゃん」
「はやく終わらせるから、ちょっと待ってね」
知佳はするすると車椅子を動かして電動車椅子のもとへ向かい、二つの車椅子がちょうど直角に交わるような位置で止まった。
「手伝おうか?」
「ううん。むしろ一人の方がやりやすいの、これ」
補助はまた断られてしまう。
「結構上手だから、見てて」
知佳はまず、お尻の位置を前にずらして座面ぎりぎりのところに座り直した。次に、外用車椅子の、知佳から見て遠い方のアームレストに手を伸ばしてしっかり握る。最後に、いま座っている車椅子の、外用車椅子に近い方のアームレストを空いている手でしっかりと握り、腕の力だけで体を支えて、流れるように車椅子を乗り換えた。
その洗練された動作を、俺は美しいと思っていた。
と同時に、外に出るだけで、こんな重労働が必要なクラスメイトの存在に気付かなかった自分を恥じた。
――いや、知らないふりをしてたの方が正しいか。
入学当初、お節介焼きの女子たちが、知佳の手伝いを申し出ていたのを見たことがあるが、
「悪いし、一人でできるから」
と彼女はその申し出を断り続けていた。
「ふーん。そっか。じゃあなにか困ったことがあったら言ってね」
「うん。ありがとう」
しかし、その困ったことはやってこなかった。
知佳が頼まなかっただけなんだけど。
そのせいで、梓川知佳は障碍者で特別な存在だけど、別に手助けは必要ない部類の人間だとクラス中が思ってしまった。
彼女を助けようとしたクラスメイトたちも、結局は障碍者を助けようとしてる私すごい素敵な人でしょアピールをしたかっただけなのだと思う。
最後まで食い下がる人がいなかったのがその証拠だ。
彼女とこうしてかかわることがなければ、俺は知佳の苦労を知りもせずに高校生活を過ごし続けていたのだろう――違う。俺は知佳が苦労していると知っていたうえで、それでも手助けをしなかった。ほかのクラスメイト達とは違う。
だって俺の母さんも車椅子に乗っていたから。
俺はずっと、母さんがどれだけ苦労をしてきたかを見てきたはずなのに、自分には関係ない他人だからと、トラウマを思い出してしまうからと、知佳の苦労に対して知らぬ存ぜぬを通してきた。
もちろん、知佳がなんでも一人でこなせるから――それも健常者のエゴかもしれない――気にしなかったという面もあるだろうが、普通に考えて、知佳のなんでもできるは健常者のなんでもできるとは違う。
健常者が無意識で楽々できることに、彼女は何倍もの手順と時間と体力を使っているのだ。
「ん? 辰馬どうしたの? 難しい顔して」
「いや、知佳っていつも一人でこんなに苦労してたんだなって。こうして知佳と話すようになった後でしか気付けなくて、ほんとごめん」
「だからいいって。ほんとに全部、見た目ほど大変じゃないから。それに今日は補助として辰馬がいてくれるから、安心感が違ったよ」
なんて健気に笑うその姿に哀愁が漂っているように見えるのも、健常者のエゴなのだろうか。
補助。
彼女は気を遣ってそう言ってくれたが、俺はそんなたいそうなことはしていない。
ただ隣で突っ立って、見ていただけの傍観者だ。
幼いころの俺と同じ。
いや、これだけ身体がでかくなって、人を支える力だって増えたいま、母さんと同じ境遇の知佳の手助けをしないというのは、退化と呼べてしまうのではないか。
――母さんね、辰馬に母さんのせいでいろんなことを我慢してほしくないの。
俺は、優しく頭を撫でてくれたお母さんの言葉を思い出してしまって、泣きたくなった。
「大変じゃなくても……さ、誰かが手伝えば知佳の負担も減ると思うけど」
「そんな、私の足のためにみんなを困らせるわけにはいかないよ」
なんで知佳が申しわけなさそうに笑うんだよ。
一番困っているのは足が不自由な知佳だろうに。
「……そうかもしれないけどさ、でも、これからはいろいろと俺に言ってほしい。困らせるとかじゃなくて、手伝いたいんだ。俺は知佳の彼氏役なんだから」
いつのまにか握り締めていた拳をほどきながらそう言うと、知佳は口をぽかんと開けた後で、
「ありがとう。辰馬がこんな風に優しくしてくれるなんて、足が動かないおかげだね」
と、自分の足を愛おしげにさすり始めた。その言葉だけを切り取れば自虐っぽく聞こえるのだが、知佳は自分の動かない足に本当に感謝しているように見えた。
「じゃあ、帰ろっか。辰馬」
知佳がレバーを動かすと、車椅子がひとりでに動き始める。
「すげーな。本当に電動なんだ」
「うん。普通に歩くより楽かもね。お姫様になった気分?」
「あっちの車椅子はいいのか? あのままで」
「大丈夫だよ。いつもあそこに置きっぱなし。私以外に使う人いないし、いちいち片付けてたら面倒でしょって、学校側が配慮してくれたの」
「そっか」
「ほんと、理解のある学校で助かったよ」
理解のあるクラスメイトはこれまでいなかったけどな。
昇降口から外に出ると、体感温度が一気に増した。暦の上ではもう初秋だけど、まだまだ日差しは驚異的だ。
「あ、そういえば」
会話が止まっていたので、新たな話題を提供するという意味も込めて、俺はずっと気になっていたことを知佳に尋ねる。
「なんで知佳は、あのとき俺のこと助けてくれたの? 話したこともなかったじゃん」
「なんで……か」
知佳は苦笑いを浮かべてから首を捻った。
「そう言われるとすごく難しいんだけど、だって辰馬すごく焦ってて、流山君が言ってることが嘘なんだってすぐにわかったから」
「いや……そういうことじゃなくて、知佳に俺を助けるメリットなんかなかったじゃん」
「メリット……?」
知佳の車椅子が止まる。
ちょうど校門を出たところ。
俺も足を止めた。
「メリット、メリットかぁ……」
同じ言葉を繰り返しながら、知佳は目を伏せる。
たっぷりと考え込んでから顔を上げ、きょとんと首を傾げ、一言。
「それって弱酸性?」
「ちげーよ。初めてのお風呂頑張らねーわ! ってそれはビ○レだわ!」
「ごめんごめん。辰馬のツッコミ独特だから、つい楽しくなっちゃって」
ぺろっと舌を出す知佳だったが、すぐに表情が曇っていく。
「じゃあ元の話に戻すね。私が家で使ってるシャンプーは」
「だからちげーよ」
「ごめんごめん。メリットの話だよね」
「だからシャンプーじゃ……って、いや、あってるのか」
「うん」
苦笑いを浮かべた知佳は、しかし一向にしゃべる気配を見せない。何人かの生徒が、俺たちをもの珍しそうにチラ見しながら通り過ぎていく。
「私はね」
言葉がまとまったのか、ようやく知佳が口を開いた。
「人が人を助けるのに、メリットなんか必要ないって思いたくて、だったらそれをまず私が体現しなくちゃって思って、だから助けたの」
「……なる、ほど」
「要するに私の自己満。こんな私だけど誰かに必要とされたいっていう気持ちを、ちょっとだけ優しげな言葉に変えて言ってみただけ」
おどけたように言った知佳の口の間から白い歯がのぞく。
人が人を助けるのにメリットなんか必要ない。
知佳のその考え方は素敵だと思った。
「でもそれだとさ、助けられた側の俺からしたら、申しわけなさすぎるっていうか、俺、知佳にお礼がしたいんだけど」
「そんなのいいよ。さっきも言ったように見返りがほしくてやったわけじゃ」
「俺がそうしたいんだ。知佳の言葉を借りるなら、これも要するに俺の自己満ってこと。これまで知佳のことを知らんぷりし続けてた俺の傲慢さを謝りたいって気持ちを、ちょっとだけ優しげな言葉に変えて言ってみただけ」
「なにそれ。パクんないでよ」
知佳が控えめにぷくっと頬を膨らます。
「でも、だったらもう大丈夫。辰馬はこれから彼氏役として、少なからず私の手助けをすることにはなるでしょ? さっき車椅子に乗り換えるとき、補助もしてくれたし。それでもう充分だよ」
「そういうことじゃないんだ」
食い気味に否定すると、知佳の瞳に戸惑いの色が浮かぶ。
俺は後頭部をガシガシと掻きながら、頭の中で言いたいことをきちんとまとめてから言葉にした。
「健常者が障碍者の手伝いをする。それが普通じゃなくてお礼になってしまったら、それはなんていうか、違う気がするんだ」
上手く説明できない。ああくそ。
「だから、なんつーか、俺は別の形で知佳に恩を返したいんだ」
「辰馬は考え方が優しいね」
知佳は面白いもので見たかのように、腹を抱えて笑い始めた。
「というより、面倒くさいと言うべき?」
「自分でもそう思う。けど、なんていうか、そういうのって俺の中で大事だから、そうやって面倒くさくなってるっていうか」
「気にしないで。わかってる。面倒くさくない人間なんてこの世にはいないから。そういうの素敵だと思う」
んんー、じゃあなにしてもらおうかなー、と知佳は顎に手を当てて考え始めた。すぐに「あっ」と手をポンと叩く。
「それも辰馬が考えるっていうのは?」
「え?」
「だから、足が動かない私のためになにができるか、その内容を辰馬自身で考えるの。どう?」
なるほど。
そういうことね。
「わかった。じゃあそれで」
お安い御用だ! とまでは思えなかったが、俺からなにかしたいと言い出した手前、知佳の提案を断るわけにはいかなかった。
具体的になにをどうしたらいいのか。
まだそれすらも思いついていないが、彼女の笑顔を想像したらなぜだか心がものすごく暖かくなった。
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