Order3 重なる彼女

 大通りから外れた小道。所謂いわゆる、裏路地と呼ばれるその場所には、社会の闇が潜んでいる。

 暴行、暗殺、密売、強姦。このようなものの温床がそこにある。

 理由は簡単で、人目につかないこと。騒ぎが起きづらいことが最もな原因だ。

 ラキアとリクトは、その闇を今まさに目撃していた。

 男たちが入っていった路地裏に、二人は人混みをかき分けて向かう。

 先頭を走るラキアは、いち早く人混みを抜けだし路地裏の入口へとたどり着く。

 目に飛び込んできた光景は、酷いものだった。

 男たちが2人がかりで女を拘束し、他の男たちが女性に暴行する準備をしていた。


 女1人を集団で暴行するなんて、許せない。

 ラキアは、拳を握りしめると同時に勢いよく路地裏に駆けだしていた。

 もう思考する暇などない。体が勝手に動いていた。

 ラキアは走る。

 向かう先は、女を殴ろうとしている少し細身なあの男。


 ラキアは、その男の近くまで疾走するや否や、勢いよく跳躍し男の顔に膝蹴りをくらわせた。

 その男の顔面は骨が砕ける音を立て、直線状にいた男たちを巻き込んで、吹き飛ばされていった。

 ラキアは咄嗟に、女性の前に立つ。


「ンだてめぇ! 何しに来やがった!」

 釣り目の男が、耳鳴りをするような声でそう問いかける。


「それはこっちのセリフだ。女性1人に男複数人なんて、卑怯だと思わないのか?」

「いや……思わないね」


 ラキアの問いに答えたのは、男たちの後ろからかき分けて前に出てきた風格のある男。

 髪を後ろに括り、顎髭を生やしたその男は、自分の髭を触りながら口を開く。


「お前は、その女の仲間か……?」

「……関係あるか? 今のこの状況で」

「そうだなぁ……確かにその通りだ。『お前は俺らに喧嘩を売った』。それだけで、もう十分だよなぁ」


 顎髭の男が右手を上に掲げる。


「お前ら、遠慮はいらねぇ。2人まとめてやっちまえ!」

「「「「うおぉぉぉおぉぉ」」」」


 周りの男たちが、雄叫びを上げる。これが、戦いの狼煙というわけだ。

 ラキアは、腰を低くして構える。

 周囲を見渡してもざっと10人、いや、まだだ。

 裏路地の入口両方から、ぞろぞろと似たような相好の人が入ってくる。

 加勢が来たようだ。剣や鈍器を持っているものが半数。なんとか行けるだろうか。

 神経がすり減る感覚を覚えながら、全方位に注意を向けた。


「死ねやァッ!!」

 正面の男が拳を振りかざしてくる。

 ラキアは男の背面側によけ、振りかざした腕を掴み、空いた手で肘を打ちあげる。

 綺麗に関節が外れる音がし、男は「ぐああぁあ」と声をあげて倒れた。

 まだ来る。

 次は左……右……正面から2人。さらに両方から。

 ラキアは休む暇なく、立ちはだかる敵を殴り、蹴り、投げ飛ばし……あらゆる手段を用いて、制圧を試みる。

 だが、まだ来る。

 ラキアは少し後退して、彼女を覆うように構えた。

 何とかして彼女を守らないと。


「すみません……ちょっと、近い」

「あ、あぁ……すみませ……え?」


 か細い声が聞こえ、ラキアは女性に謝ろうと振り返り、瞠目する。


「え……お前……なんで……」


 ラキアは彼女から目を離せなかった。離せるはずがない。

 なぜならそこには、彼の記憶に焼き付く……今でも鮮明に思い出せるが、そこに立っていた。


「メアリ……?」

「え?」


 そんなはずはない。声が違う。それに記憶の中の彼女は、目の前の女性みたいな少し尖った耳は持ち合わせていない。

 なのになぜ、彼女から目を離せないのか……?


「あ、後ろっ!!」


 途端、眼前の女性が焦燥した顔で叫んだ。

 彼女の視線はラキアの後方。

 彼が振り返ったときには、男が上から剣を振りかざしていた。

 もう避けられる時間はない。剣を挟んで受けとめるか、いやそれすら間に合わないかもしれない。

 気がついたときには、ラキアは右腕で頭を守り、瞳を閉じていた。

 必死の覚悟だった。最悪この右腕を失うだけで済むのであれば、どれほどかマシだと潜在的に考えていた。

 ラキアが身を固めるその瞬間、前方からガキィーンと甲高い金属音が響きわたる。

 ゆっくりと瞼を開けるとそこには、記憶に新しい男の後ろ姿があった。


「な、なんだ! お前?」

「お前さぁ……剣で斬られる痛みを知ってて、それ振りかざしてるんやろうなぁ……?」


 背中を見せる男がそう発すると、拮抗していたはずの剣闘に決着がついていた。

 目前もくぜんの彼は一瞬にして相手を切り裂いた後の構えをとっており、斬りかかっていた男の胸元には、二筋の斬り痕ができていた。

 ラキアの前に立つ男が左に持つ紫の剣先に、少し血痕が付着している。


「うがああぁああっ……!」


 やむなくして、斬られた男はもがき倒れこむ。それを確認した男は、剣を薙ぎ払って大きく息を漏らした。


「安心せぇ、そんなんでは死なへんわ。てか、こんな程度の喧嘩でそんなモン持ち出してくんなよ、ボケナス!」

「…………」


 呆然とするラキアの方へ彼は顔を向ける。


「すまんなー、ラキア。ちょい遅なった。怪我無いか?」

「……あぁ。ありがとな。リクト」

「おん、気にすんなや。それに、まだおるで」


 周囲を一瞥する。まだ、数人残っていた。

 ラキアは再び姿勢を低く構え、リクトと背中を合わせる。

 リクトは2人が入ってきた方の敵を、ラキアはそれとは逆の方の敵を見つめる。


「そっち、任せるぞ。リクト」

「おう、任せとき……けどまぁ、これはただの喧嘩やでなぁ。この剣は無しや」


 リクトがそう言うと、左手に掲げた剣がだんだんと眩い光を放ち、粒状に分解され、消え去った。ほどなくして、その粒子は彼の左手へと集合し剣をかたどり、光が爆散する。そこに現れたのは、先ほどの紫色の剣ではなく、木で作られたただの木剣だった。

 今のはなんだ。魔法の一種なのだろうか。


「俺は、これでいく」

「お前、なんだ今の──」


「お前ら! 何ぼさっとしてんだ! さっさとやっちまえ!!」


 ラキアの言葉を遮るように、顎髭の男が声を上げる。


「さぁ、行くで~! 喧嘩の始まりや!」


 リクトの掛け声を合図に、周囲の男たちが2人に襲いかかる。

 ラキアは変わらず反撃戦術で、相手の攻撃を受けながし、その中で顔や腹などの急所を狙う、または関節を外して倒していく。

 男たちは「ぎゃぁっ!」や「ぐほぉぇ」という声と共に道端へと倒れていった。

 一方リクトは、ラキアとは逆。積極的に攻撃を仕掛ける戦法をとっていた。左手に持つ木剣を武器を持つ相手より速く振りかざし、みるみるとなぎ倒していく。

 この光景、まさに無双であった。


「おいおい、お前らそんなもんかぁ!? もう俺、武器なしでいってまうでぇ!」


 リクトはそう吠えると、武器を空気中に分散させて素手で飛びかかっていた。

 2人は、物凄い速さで敵の男たちを駆逐していく。


「ば……化け物……ぐおぇ」


 リクトが殴ったその男がそう声を漏らしたときには、ほとんどの敵が地べたに倒れこんでいた。


「おい、終わりかい! お前ら。もうちょい頑張れよぉー! 全然面白んないやんっ!」


 リクトが大きく嘆息をついた時点で、もう顎髭の男のみ。

 ラキアは男の方へ目をむける。


「……あとは、お前だけだな」

「……クソっ。何なんだ、お前ら!」

「どうでもいい。それよりも話を聞かせろ。お前らはただの半グレか? それとも──」

「だ、黙れっ! うおぉおおっ!」

「はぁ……会話の余地はないか……」


 男が勢いよく突進して拳を振りかざすところに、ラキアは男の拳を避け、右拳のカウンターを顔にぶち込む。

 彼は脳が揺れたのか、体が伸びて地面に倒れこむ。

 少しやりすぎたか……。

 すると、俺の後方から白髪の女性が前に出て、男の首元に手を当てる。

 脈を診ているのか? 彼の安否を確認している? もともと自分を狙った相手か……?

 疑問を浮かべる間、女性は続けて、倒れる男たちの安否を確認して回った。

 最後の1人を調べ終えたところで、ゆっくりと立ち上がり、ラキアの方へ体を向ける。


「大丈夫そうです。ありがとうございました。助けていただいて」

「あ、あぁ……」


 ラキアはまだ、彼女の目を見ることはできなかった。


「では、私はこれで──」

「まぁまぁ、待ってや。お姉さん!」


 女性が背を向ける瞬間、リクトが声を上げて引き留める。

 彼女はこちらに朗らかな顔を向けると、首を傾げて一言応える。


「なにか?」

「あんた、何でこいつらに襲われとったん?」

「……わかりません」

「わからん? ってことは、単純に絡まれとったってことなん?」

「……そうですね」

「ほーん、そりゃ大変やったなぁ」


 リクトは何度もうなずきながら同情し、言葉を続ける。


「とりあえず、また襲われてもかなんし、あんた家まで送るわ」

「いえ、結構です。そこまでお世話になるわけには」

「そんなんちゃう。せっかく助けたのが意味なくなるのが嫌やねん」

「いや、でも本当に」

「ええから。俺らのためや思てくれ。ええやろ? ラキア……え? おーい、ラキア?」


 2人が会話をしている間ずっと、ラキアは遠くを見つめていた。

 自分でもまだ、整理がついていない。

 別人なのはわかっている。だが、ほとんど見分けがつかないほどと酷似していた。

 でも違う……違うんだ。

 だって彼女は……彼女は……


「おい、ラキア!」

「!?」


 ラキアが我に返ると、顔を覗き込むようにリクトが目を細めて見つめていた。


「何ぼぉっとしてんねん。どっかで頭打ったか?」

「あ、いや……悪い」

「まぁ、ええ。とにかく、家まで送るわ。あんたがどんだけ拒んでも、俺らはついていくからな。わかった?」


 リクトが啖呵を切ったとき、建物に遮られた狭い上空から甲高い泣き声が響きわたる。

 3人が上を仰ぐと、小さな鳥が楕円を描くように滑空しながら、地上へと近づいてくる。

 やがて、頭上近くまで降りてきた鳥は、リクトの肩口に止まった。その鳥の足には小さな紙が結びつけられていた。


「あー、これアントラルの。準備出来たんかな……」


 リクトは鳥の足に結びつけられた小さな紙を解き、広げて目を通す。


「おーん、はいはいはいはい……」


 リクトが眉を寄せて頷いて数秒後、ラキアにその紙を押しつける。


「あかん、読めへん。ラキア読んでくれ」

「は?」

「俺、こっちの字、読めへんねん」

「……ホントに言ってるのか?」

「そうや言うてるやん! 俺の元居た世界と全く文字ちゃうもん。勉強し始めたのも最近やし、まだわからへんて!」

「そ、そうか……」

 

 ラキアは唇を歪ませながら、彼から紙を受けとる。

 そういえば、彼は異世界からきたと言っていた。全く信じていなかったわけではないが、まだ飲みこめていないのが現実。

 だが、この世界の識字率を基準に考えるなら、彼のような字が全く読めない人は本当に稀だ。多分、彼の言う話はホラ話ではないのかもしれない。

 ラキアは紙きれに目を通すと、このようなことが書かれていた。



 ============


 ラキアくんへ


 多分リクトくんは読めないだろうから、君宛にかくことにしたよ。

 コーヒーの準備終わったから、キリのいいときに戻っておいで。

 それに、も用意しているから、楽しみにしてほしい。

 リクトくんにもそう伝えといてくれ


                アントラル


 ============


 ラキアは紙の内容を鼻で笑い、その紙をリクトに返す。


「準備できたそうだ。もう買い物も済んだし戻ろう。この紙には、『お楽しみを用意してる』って書いてあったけど」

 柔らかな口調で伝えると、リクトは目を輝かせる。

「ガチっ!? キタァ~! やっぱあいつわかってるやーん! じゃあ、はよ戻ろ!」

「おいおい、待て。まずこちらの女性を返すんじゃなかったのか?」

「あー、そやった、そやった」


 すると女性は、薄笑いを浮かべる。


「いえ。ご用がおありでしたら、そちらを優先してください。私は──」

「いや、ちょい待って」


 彼女の発言を遮ったリクトは、口元に手を当て何か考えていた。


「……お姉さん、逆にこのあと用事は?」

「用事……ですか? 特には」

「ほんならさ……俺らと一緒にこーへん?」

「「は?」」


 ラキアと女性は口を揃えて声を漏らす。


「これもなんかの縁やろ? それに、多分ってケーキとか、クッキーとかクソ美味いお菓子やで! せっかくやし、食べにきたらええやん!」


 そう声高らかに口にしたところで、ラキアは勢いよく彼の肩をひっぱたく。


「痛った~っ! いきなり何すんねん! ラキア」

「お前こそいきなり何言いだすんだ。そういうのは、アントラルさんの許可がいるだろ?」

「あ? あぁ……いや、あいつなら大丈夫やて、多分。誰連れてきても、歓迎するやろ」

「お前、あの人どんな地位の人かわかってるのか?」

「地位? 割と高めの人やったっけ……? てか、別にどうでもよくね?」

「はぁ……」

「あの」


 ラキアが説教を垂れているところで、女性が恐る恐る口を挟む。


「確かに魅力的なお話ではありますが、そちらの方の言う通り、私は部外者ですので、お気持ちだけ──」


 と彼女が話しているのを遮るように、どこからかグゥ~~、という空気が内臓を通り過ぎた音が聞こえてくる。

 ラキアは眉をひそめてリクトの方へ向くと、彼は首を横に振る。

 2人は同時に正面に顔を向けたとき、「あっ」と漏れそうだった声を殺した。

 正面に立つ女性は目線を下に向け、白い耳先と頬を赤く染め上げていた。


「あ、あの……これは……その……」

 口ごもる彼女の顔は、どんどん赤くなっていく。

 それを見たリクトは、いきなり口から息を吹き出した。

 

「ぶはっはっはっ! やっぱ腹減っとるやんっ! もう気遣わんでええさかい、はよ行こうや!」

「え、あの……」

「俺は知らないぞ」

「大丈夫やって~! ほら2人とも行くで! 俺たちの楽園が待っとるからなー! ヒャッホーッ!」


 リクトは意気揚々と声をあげながら、表通りへと向かう。取り残されたラキアたちは、顔を見合わせる。

 まだ数秒に一回は目が泳いでしまうが、何とか彼女をみることができた。

 彼女は笑みを零して、口を開く。


「あの方、不思議な方ですね」

「そ、そうですね……なんか申し訳ない」

「別に謝ることではないと思いますよ。私は嫌いじゃありません」

「そうですか。なら、いいのですが」


 少し落ち着いて話していると、表通りの方から「おい2人とも、はよ行くで!!!」と、大声で呼ばれる。

 その声を聞いた彼女は「ふふっ」と口元を隠して、声を漏らした。


「これは、もう引き返せそうにないですね」

「いや、無理されなくていいんですよ」

「いえ、大丈夫です。たまにはこういうのも、アリかと思ったので」

「は、はぁ……」

 

 本当に大丈夫なのかと不安を抱えていると、彼女に手首をつかまれる。


「待たせるのは良くないですね。行きましょう。えっと……お名前は?」

「え、あぁ……ラ、ラキアです」

「ラキアさん。私はです。では行きましょう、ラキアさん」


 彼女がそうラキアに微笑みかける。

 その姿、この言動。まさに、彼の記憶に焼きついたある女性そのもの。

 ラキアがその錯覚に陥る条件としては、十分すぎるものであった。が重なり、もう見分けがつかなくなっていた。

 そんな彼の脳裏に、ある言葉がよぎる。


『──彼女はもういない。彼女はもう戻ってこない。自らの手で奪った彼女は』


 それは、後ろに立つ自分自身の陰にそう咎められているようだった。

 自分の業を忘れないように。



「……えぇ」


 ラキアは口元だけをひきつらせ、アイリスにリクトのいる方へと牽引されていった。



 ◇◇◇



「ただいま~!」

 リクトは、大声をあげて部屋の扉を勢いよく開けた。


「……君は本当に学習しないね、リクト君」


 再び戻ってきた淡青色の部屋奥で、作業机に座るアントラルが額に手を添えて嘆く。


「ちゃうねん! 今回はおらん自信があってんっ!」

「そういうことじゃないんだけどね」


 彼が部屋の中へと闊歩する後ろを、ラキアとアイリスが続いて入る。

 入室してから……いや、それよりも前の、この敷地に入る門をくぐる段階から、彼女の様子が少し変化していた。

 ここまでの道中、3人仲良く話していたのに──主にリクトが話していたが──門の前に立った途端に、彼女の口数は劇的に減った。

 それからのこと。

 アントラルの部屋に進むにつれて、彼女の肩が小さくなっていき、今に至っては自信の影さえも消えてしまっているように思う。

 確かに只々誘われた場所が、大豪邸であれば誰もが恐懼きょうくする。  

 それに相手が、アントラル=カラウスとなれば、よりそうなるだろう。

 そこらの貴族とは、あまりに格が違いすぎる。


 誘った人間でないラキアがなぜか、自責の念にとらわれていた。

 3人が入ってすぐ、アントラルは首を傾げて、アイリスの方へ目をむける。


「ん? 初見の方が1人いるね?」

「あっ!? えっ、えと……」


 彼女は、言葉を詰まらせて背筋を伸ばしきる。

 

「あー、この子、アイリスって言うねん。たまたま街中で知りあって、ここに連れてきてん。別にええやろ?」

「君はもう少し説明力をつけた方がいい。不十分すぎるよ」

「うるさいのぉ! ええやんか、こういうのは人数多い方がええやろ?」

「君はこれをパーティと勘違いしていないか?」

「え? そうやろ?」


 アントラルは、口から大きな息をこぼした。


「……もういいよ、全く。まぁ、君がこうして連れてくる人と縁ができることもあるから、悪いとは言えないんだよね……」


 再びアントラルは、視線をアイリスに向ける。


「アイリス君だったかな? すまないね、見苦しいところを見せてしまって。君を歓迎するよ。好きにくつろいで」

「あ、はい……」

「それと、ラキアくん」

「はい?」


 アントラルは席を立ち、机の横にあった銀色のワゴンをソファー近くまで運んだ。


「これが、新種のコーヒー豆だよ」

「これがですか……」


 ワゴン上部に乗せられた麻袋の中を開けると、少し香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。


「名前は、『キューリミリア』。山岳地帯である『キューリア』で収穫された豆で、香り高いのが特徴だって、生産者には聞いているよ」

「『キューリミリア』。確かに香りが強いですね……試しにいろいろ作って大丈夫ですか?」

「ぜひともお願いしたいところだね。あと、作ったコーヒーと一緒に……」


 といって、彼はテーブルの方へと手向ける。

 先ほどまで視界に入っていなかったが、そこには何種類もの洋菓子が置かれていた。中にはまだ食べたことのないものもあり、どれも食欲を湧き立たせるものであった。

 これを目にしたからなのか、今まで気がつかなかった甘い香りが漂ってくる。


「世界各国から集めたもの、全部で100種類はある。好きなものを食べておくれ。もちろん、アイリス君もね」

「え、本当に、いいのですか?」

「もちろん。だって……がいるからね」


 ラキアとアイリスが視野を広くすると、テーブルの片隅にある食べ物が無くなっていた。

 何もない食器の向かいにある長いソファには、口をもぐもぐさせているリクトが座っていた。

 彼は飲みこむとすぐに、「ほら、2人とも食べようぜ! ガチでめっちゃうまいから」と嬉しそうに話してくる。


「はぁ……お前なぁ……」

「ん? どーしたん? ラキア。何食いたいん? これ?」

 と、手に持ったふわふわとした焼き菓子を勧めてくる。


「いや。俺は今からコーヒー作るから、先に2人で食べてくれ」

「そっかー」

 リクトは手元の菓子を頬張ってから、円形の焼き菓子を指さす。


「なら、アイリスこれ食べてみ? ガチうまいから!」


 アイリスはアントラルの顔を一度窺った。

 彼が微笑みながらうなずくところを見て、リクトの隣に座る。

 勧められた円形の焼き菓子を手にとり、ゆっくりと小さく一口かじる。


「……っ!?」


 アイリスは大きく一口、また一口を頬張り、一瞬にしてそれを口腔内へと入れこんでいた。

 完全に飲みこんだ彼女は、すべての表情筋を弛緩させる。


「……喜んでもらえたようだね」

「そうですね」


 アントラルの独り言のような言葉に返答しながら、ラキアはコーヒーの抽出方法を考えていた。

 彼がコーヒーを淹れる中で一番こだわるところは、大きく3つ。

 挽き方、注ぐお湯の温度、注ぎ方である。

 これだけでも、コーヒーの味わいは大きく変化する。

 この豆の特徴は『香り』。

 それを活かすのであれば、少し濃いめに抽出し香りを強く、さらに味わいも楽しめた方がいいだろう。

 だが、ここでベストを探るには時間が足りなすぎる。なので、彼は挽く大きさを細かいものと少し荒いものを2つ用意することにした。

 挽いた豆2種類をそれぞれ抽出用の布袋に入れ、その片方を専用ポットの蓋部分に設置し、ゆっくりとお湯を注いて粉を蒸らす。

 湯気と共にあがってくる香りは、少し酸味があり、その中にあるコーヒーならではの深みが潜んでいた。

 アントラルの言うとおり、今までのコーヒー豆の中でも出色の香りだ。

 蒸らし終え、ゆっくりと注ぎ始めたとき、香りに気づいたリクトが、子犬のようなつぶらな瞳をこちらに向けた。


「ラキア! そのコーヒーめっちゃええ匂いするやんっ! 先に俺飲ませてや」

「はいはい。今2人分できたから、アイリスも一緒にどうだ?」

「頂いてもいいのですか?」

「あぁ、それで感想を教えてくれ」


 ラキアは、抽出した深みのある黒い液体を、2つのカップに分けて2人の前にコトンとおいた。

 2人は同時にカップを取り、コーヒーを啜る。


「……んまっ!? 何じゃこれ!?」

 と、リクトは目を大きく開けて、コップを見つめ、

「おいしい……コーヒーって、こんな味なんですね。初めて飲みました……」

 と、アイリスは目を丸くして、口を軽く開けていた。


「……その感じ、満足してもらえたようだな」

 ラキアがそう呟くと、アイリスがこちらを向いて微笑む。


「はい。ラキアさんは、コーヒーの達人なのですね」


 彼女の発言にまたしても、記憶が思い起こされる。

 コーヒーを両手に持つ彼女の姿が、記憶上の女性と瓜二つだったのだ。

 質素な部屋で質素な椅子に座っていた記憶の彼女は、コーヒーを口に注ぎ込んで一言、微笑みながら語りかける。


『──ラキアくんは、コーヒーの達人だね』

 

 思いだすと同時に、胸の中に鉛のような重たいものを感じた。

 もう何年も前の話だというのに、未だに引きずっている。いや、引きずらなければいけない。

 その業を、背負い続けないといけないのだ。

 ラキアは、一度唇を嚙みしめて笑みをこぼす。


「そんなことないよ……そんなことは、ないよ」


 今の自分は、うまく笑えているだろうか。

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