第9話

これほどの遠隔地に意識を飛ばされながらも、アイはどこか心の安らぎを感じていた。それはたぶん、この零下200度を下まわる極寒の大地に、生きとし生けるものがなにも無いという事実に基づくものだった。


冥王星にはわずかばかりの地殻変動が観測されており、もしかすると地下に存在する液体の海のなかに、極小の藻類やバクテリアなどがそっと息づいている可能性はある。しかし眼下のカロンには、生命の存在する、または過去に存在した痕跡はない。そこは、ただ荒涼としたなにもない大地である。だが、なにもないということこそが、アイにとっては重要なことだった。下には、誰もいない。だから・・・私に危険はない!




かつてモレノに協力してアメリカ軍の遠隔監視任務についていた頃、アイはその異能で常に際立った成果を挙げた。その際、彼女はひとつだけモレノに条件を出していた。たとえ相手が父親がわりのモレノの敵であろうとも、憎むべきテロリストであろうとも・・・人を攻撃し、直接殺傷する任務には、自分は絶対に協力しないということだ。


かつて両親を目の前で失い (幼かった彼女に、そのときの記憶はなかったが)、またこうした超常能力の保有者にありがちな繊細さを持ち合わせていた彼女にとって、それは単に人間としての倫理の問題であるばかりではなく、自分が自分であり続けるための、死活の大事であった。自分は、殺人には協力しない。だが人を救うため、あるいは悲劇を未然に防ぐためにならば、その異能を以て全力を尽くす。モレノは喜び、アイと固くそのことを約束した。


しかしあるとき、思わぬ事態が起こった。イスラマバードの安アパートの一室に、異常なまでに高揚し複雑で張り詰めた思念波を感知したアイは、そこに意識を飛ばした。おそらくは自爆攻撃決行直前のテロリストが、最後の祈りを捧げているのであろう。その状況を確認し、位置をモレノに教える。いつもの手順で事を運ぶつもりが、どうしたことか、その時アイの思念波は完全にそのテロリストに同調し、彼の思念と同一化してしまった。


アイはそこから離脱することができぬまま、死を目前にした彼の絶望と恐怖を、彼が味わった通りそのまま味わうことになった。


彼は自発的なテロリストでは無かった。貧しい暮らしから脱するための借金が返せなくなり、家族の生活の代わりに自分の命を差し出すことになった。しかし彼にたかっていたテロリストグループは性質たちの悪い連中で、家族を捕らえ、縛られた彼の目の前でまず妻の太腿に鉈で大きな傷をつけた。そしてゆっくりと失血死させ、その一部始終を彼と彼の子供に見せつけた。ついで子供のこめかみに拳銃を当て、

「さて。択ばせてやろう。お前が仕事をするなら、子供の命は神にかけて保証する。もちろん借金もチャラだ。だが、やらないと言うのなら・・・」


男は爆弾をいっぱいに括り付けたベストを着せられ、よたよたとした足取りで古ぼけたピックアップ・トラックの運転席に座らされた。そして無理やりにエンジンが掛けられ、彼は観念して米軍施設の正門へと突っ込んだ。


その無念、悔しさ、怒り。そしておそらくは約を違えて殺されてしまうであろう我が子への思い。アイは、死を前にした彼の想念に同期し、その絶望をそのままたっぷりと味わい、思念のリンクを切断できぬまま、コントロール・ルームの中で手足をジタバタさせてもがき、声を限りに泣き叫んだ。


モレノはがっしりとした腕でアイを抱きしめ、その想念を引き戻した。

「悪かった、本当に悪かった・・・アイ。もう大丈夫だ。もう2度とこんな思いはさせない。もう2度とこんな危険を冒させはしない。たとえ世界を救うためであっても!」


モレノは、自分も泣きながらアイに詫びた。彼はその約束を守り、以降、アイを使った遠隔軍事作戦への協力を固く断るようになった。そのあと新設なった宇宙軍に転じ、以前のような危険のないこの無人の荒野の探索行へ、3年ぶりにアイを招待したのだった。

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