第10話
自由落下を続けるアイの眼前に、やがて、大きく暗い裂け目が見えてきた。それはまるで、巨大な魔物がカロンの氷原を鋭利な爪で引っ掻いてつけたような傷で、両側の縁がみみず腫れのように盛り上がり、中は一面の闇になっていた。すでに地表面近くの高度になっていたため、その裂け目は、これまでのゆっくりとしたペースとは桁違いの速度でずんずんとアイの目の前にせり出してくる。アイはあわててスラスターをあちこち作動させ、落下速度を細かく調整した。
裂け目の幅は、おそらく数キロメートルもある。地球のグランド・キャニオンを数倍したような、そして土色を蒼黒く透き通った氷壁の色に塗り替えたような、まさに空前絶後の大峡谷だった。深さは、正確にはわからない。宇宙の彼方からの微弱な光は、峡谷の下方には全く届いていないのだ。そこはただ漆黒の闇だった。
アイはまた、氷壁の上を吹き荒ぶ風の音を聞いた。わずかばかりの大気を有する冥王星と違い、地表がそのまま宇宙の真空に剥き出しになったカロンに風など吹くわけはない。遠く太陽から、プラズマを帯びた宇宙風が吹き渡ってきたのだとしても、その密度は希薄で、この何もない辺縁で体感できるほどの圧力を伴っているはずもない。
現に
ぴい、ぴゅう。ぴい、ぴゅう。
歓迎だったのか、なにかの警告だったのか。それともそれは沈黙を破った訪問者に対して、数十億年もの孤独から解き放たれたこの氷の衛星が、ただ喜びの調べを聞かせたかっただけなのか。アイにはわからなかった。
風の音は数十秒のあいだ続き、やがて徐々に小さくなり、
さらに降下すること数十分で、アイはやっと大峡谷の底に接地した。
もちろん、もし肉眼であれば、そこはただ闇のままであろう。だがわずかばかりの光源があれば、それを数百倍もの照度に調整できる
アイはスレイヴを操り、そのままどんどん谷の中へと分け入っていった。平坦地ではクローラを動かし、起伏の激しい部分は両腕やスラスターの力を借りながら、走り、跳ね、飛び、そして時には四つん這いになった。どこまで進んでも氷壁はその表情を変えず、あちこちに光の池と闇のたまりを作り、そのまだら模様の中をスレイヴは進んでいった。
そしてアイはまた、あの笛のような音を聴いた。
ぴい、ぴゅう・・・ぴい、ぴゅう。
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