第32話 帰省と夏祭り⑤
「…………ん、んん……なんだ……」
俺は、ふらふらになった頭を持ち上げて、身体を起き上がらせる。
なんだか、不思議な夢を見ていたような気がする。
だが、その内容は全く思い出せない。
それでも、とても大事なことを誰かから聞いたことだけは、はっきりと覚えている。
「……ってか、俺、何してたんだっけ?」
まだ自分が寝ぼけているのか、いまいち記憶がはっきりとしない。
えっと……確か……俺は夏祭りの現場で、
「……そうだ! 紗季先輩!!」
俺は、ベッドから飛び跳ねて、紗季先輩を捜す。
「……あれ? ってか俺、なんでここにいるんだ?」
だが、そこで俺は違和感に気付く。
そう、俺が目を覚ましたのは、自分の部屋のベッドの上で、窓の外は、もう夕暮れ時なのか、日が沈みそうになっていた。
「俺、さっきまで神社にいた……よな?」
俺の記憶では、つい先ほどまで空也さんから紗季先輩を守るために、賀郭神社の山道に逃げこんだはずだ。
確か、そこで空也さんに追い付かれて……。
「……そうだよ。俺、
思い出した途端、強烈な寒気に襲われ、全身に冷や汗が流れる。
俺は、急いで自分が着ていたシャツを捲り上げて、腹部を確認する。
「……えっ?」
だが、そこにはサバイバルナイフなど刺さっていなかったし、血など一滴も零れていなかった。
ただ、大きな傷跡だけは生々しく身体に残っていた。
俺は、その傷を指でなぞりながら呟く。
「夢じゃなかった……って、ことだよな?」
だとしたら、あれから時間が経ったってことなのか?
混乱する頭で、なんとか状況を整理しようとする。
そして、ふと目に入ったのは、部屋に掛けられたカレンダーだった。
母が毎年、銀行から貰ってくるシンプルなデザインのカレンダー。
一見、なんの変哲もないカレンダーだが、俺はそこに書かれている年号に、驚愕した。
2020年 8月
「うそ……だろ?」
慌てて、俺はカレンダーに近づいて、自分の見間違いではないのかと何度も確認するが、印刷されている数字は何度見直しても2020年の8月だった。
そして、ベッドに置いてあったスマホの画面も見てみると、日付は8月10日の月曜日と表示されていた。
その日付に、俺は既視感を覚える。
「まさか……戻ってきた……のか?」
そうだ、その西暦と日付は、俺がこの町に戻ってきた日だった。
だが、なぜ急に元の世界に戻ってきたんだ?
俺は今までずっと、5年前の世界にいたはずだ。
なのに、一体どうして……。
すると、ドタドタ、と誰かが階段を上がって来る音が部屋にも響く。
そして、俺の部屋の前でピタリとその音が止まると、ノックもなしに扉が開いた。
「ちょっと、慎太郎。うるさいわよ! 学校の課題やってたんじゃないの!?」
扉の前には、眉間に皺を寄せた母が立っていた。
「母さんも……戻っている」
俺はじっくりと母の姿を見つめるが、やはり昨日まで見ていた母の姿ではなく、大学生の俺が見たときの、少し皺の増えた母の姿だった。
「訳わかんないこと言ってんじゃないわよ。って、またクーラーの音頭下げたでしょ! 身体を冷やしすぎるのも良くないって、さっきも言ったじゃない、もう!」
そういうと、母はクーラーのリモコンを取って、温度調整をした。
だが、俺はそこでもまた、違和感に気付いた。
もし、俺が本当に元の世界に戻ってきていたのなら、おかしいことがある。
「なぁ、母さん。クーラーって、壊れてなかったっけ?」
そうだ。2020年の俺の部屋では、クーラーは壊れて使えないはずだ。
それなのに、先ほどまでちゃんと動いていたことを証明するように、部屋に設置されたクーラーは、音を立てながらリモコンの指示に従って冷風を停止させた。
「壊れてたって、それ、去年の話でしょ。あんたに散々文句言われたから今年はちゃんと直しておいたのに、何言ってんのよ本当に」
……去年?
「去年って……俺、帰って来てないよな?」
「はぁ? あんた、夏は毎年帰って来てんでしょ? まぁ、ちゃんと帰ってきてくれるのは親としても安心なんだけどね。それに、今年はお父さんの7回忌だったし」
俺が毎年帰って来ているだって?
そんなはずはない。なぜなら、俺はずっとこの町に帰ってくることを拒んでいたし、今年帰ってきたのも、母が言う通り爺さんの法事があったからだ。
その証拠に、下のリビングからは叔父さんたちの騒ぎ声が聞こえてくる。
「慎太郎、学校の課題やってないんだったら、あんたも降りて来なさいよ。叔父さんたちもあんたと話したがってたし……」
母がそう俺を説得しているところで、下の階からブザー音が鳴り響いた。
それは、俺も随分と久しぶりに聞いた、玄関のチャイム音だった。
「はいはい~。どなたかしら?」
ブザー音に返答するように、母はそのまま玄関まで向かっていく。
「あら! ちょっと、慎太郎。あんたも来なさい!」
俺は、只々呆然と立ち尽くしているだけだったのだが、母の呼ぶ声が聞こえて来て、何がなんだかわからないまま、玄関まで足を運ぶ。
その途中で、リビングの前を通り過ぎることになったのだが、母の言う通り親戚一同が集まって、楽しそうに談笑していた。
本当に、俺は元の世界に戻ってきたことを目の当たりにしたような気分だった。
だが、俺が玄関の前に到着すると、驚愕の光景を目の当たりにするのだった。
「あっ、慎太郎。もう帰って来てたんだ? ほら、あたしの家からスイカ持ってきてあげたわよ」
ほれ、と右手で網の中に入った大玉のスイカを見せつけるようにして、俺に声をかけたのは、幼なじみの翠だった。
ただ、俺が驚いたのは、翠が家を訪ねてきたからではない。
「お前……その恰好……」
「恰好? ああ、どう? 可愛いでしょ?」
そう自慢げに言った翠は、袖を広げるような仕草をみせてニヤリと笑った。
今の彼女の服装は、白を基調とした生地の上に藍色の花模様が描かれた浴衣姿だった。
いつもの大雑把な翠の性格とは相反するもので、非常に落ち着いた雰囲気を身にまとっている。
そして、俺はその姿を以前にも見たことがあった。
「ちょっと、何ぼぅ~としてんのよ。あれ、慎太郎? もしかして、あたしの浴衣姿を見て言葉も出ないって感じなの~?」
ふふふ、とニヤついた顔でそう言ってくる翠だったが、俺が驚いているのは彼女が浴衣姿だったからではない。
「お前……その髪型……高校の時と、一緒……」
そう、今の翠の髪型は、俺の知っている大学生の時の茶色に染まった長髪ではなく、高校生の頃と同じ、黒色の髪を後ろで結わえただけのシンプルなものだった。
「髪型って……あたし、ずっとこの髪型なんだけど?」
翠は、俺の母と同様、不思議そうな目で俺を見た。
「ごめんね、なんかさっきからこの子変なことばっかり言うのよ。気にしないで」
母はそういうと、俺を無視して翠が持っていたスイカを受け取った。
「それにしても翠ちゃん、よく似合ってるわね。これから夏祭りに行くの?」
「はい、友達と約束してるので。誰かさんには断られたんですけどね~」
すると、不貞腐れるような顔になった翠は、じぃーっと俺の顔を覗き込んできた。
「な……なんだよ?」
「……ふん。せいぜいこの翠ちゃんの誘いを断ったことを後悔しなさい」
「断ったって……どういうことだよ?」
「だから、あんたがあたしの誘いを断ったって話よ。いいもん、あたしは礼奈と女の子だけの楽しい楽しい夏祭りを楽しむんだから」
俺が翠の誘いを断っただって?
そんなはずはない。俺はちゃんと、この日、翠に無理やり誘われて夏祭りに向かうはずだ。
第一、あの翠が俺に断られたくらいで、簡単に諦めるような奴じゃない。
むしろ今、俺を見つけたのなら無理やり手でも引っ張って、俺を連行するはずだ。
やはり、俺が知っている翠とは、見た目だけでなく、どこか微妙に違うような気がする。
「ほんと、ごめんなさいね。せっかく翠ちゃんが誘ってくれてるのに、この子、面倒くさがりだから」
「いえ、いいんです。それはあたしもよく知ってますし」
母が申し訳なさそうに翠に謝ると、彼女は手を振りながら笑顔を浮かべる。
だが、ほんの一瞬だけ視線を落とすと、ぼそっと何かを呟いた。
「……まぁ、あたしの誘いを断った理由も、なんとなく分かってるからいいんだけどさ」
「ん? なんか言ったか?」
「ううん、なんでもないわよ」
聞き直そうとしたが、翠は首を振ってなんでもなかったかのように、普段の明るい口調でそう俺に告げた。
「それじゃあ、あたし、帰りますね。慎太郎の顔も久々に見れましたし」
そして、翠はぺこりと母に頭を下げたあとに、俺に言った。
「じゃあね、慎太郎。また帰って来た時は、ちゃんとあたしに連絡しなさいよ」
それだけ告げると、翠は玄関から立ち去ってしまった。
「本当に立派なスイカよね。夜に食べられるように冷やしておかなきゃ」
母は、翠から貰ったスイカを持ったまま、台所まで戻っていこうとする。
一人取り残された俺は、ただただ呆然と立ち尽くすだけだった。
「……あっ」
と、母が何かを思い出したかのように、俺に言った。
「あんた、確かどこかに行くんじゃなかったっけ? あんまり遅くならないようにね」
そして、母はそのまま奥へと消えていった。
「どこかに行くって……俺も知らないんだけど……」
心当たりがあるのは翠と夏祭りに行く予定くらいなのだけど、それもどうやら断ったらしいので、候補からは除外される。
一体、どうなっているんだ?
俺は、頭を抱えながら、ひとまず自分の部屋に戻ったのだが……。
そこで、俺は机の上に、二つ折りにされた一枚の紙が置かれていることに気が付いた。
「ん、これって……」
それだけなら、特に気にしなかったかもしれないが、その横に、俺の見覚えのあるものが置かれてあったのだ。
俺は、すぐにそれを手に取って、呟く。
「これ……紗季先輩から預かった指輪だ……」
近くで見て確認するが、それは間違いなく、紗季先輩の母親の形見である指輪のネックレスだった。
すると、窓から風が入ってきて、机に置いてあった二つ折りの紙が開く。
「!?」
そして、俺はそこに書かれていた内容を確認した。
たった一枚の紙だったけど、俺はそこには繊細な文字が並んでいて、全て俺に向けて書かれた内容だった。
――そして、最後には、その手紙を書いた人物の名前と、あるメッセージが記されてあった。
その手紙を読み終わったところで、よく見ると、紙の下には便箋のようなものが置いてあることに気が付く。
しかも、その便箋はエアメールのようで、宛名には俺の名前と、下宿先として借りているアパートの住所が書いてあって、便箋の日付は今から一ヶ月前のものだった。
だが、そんなことは重要なことではない。
重要なのは、その手紙の内容だ。
俺は、気が付いたときには、もう部屋から飛び出していた。
「母さん! 俺、ちょっと出かけてくる!」
「えっ? ちょっと慎太郎!?」
俺は、ポケットに入れた手紙を握りしめて、母の返事をまたずに家から飛び出した。
そして、家を出て裏口に回ると、そこにはちゃんと俺が高校生の頃に使っていた自転車が置いてあった。
俺はすぐにその自転車に跨って、ペダルを漕ぎ始める。
目的地までは、それほど時間はかからないはずなのだが、俺は何かに急かされるように自転車のスピードを上げていく。
外はもう暗くなり始めて、道には先ほどの翠のように浴衣を着た人たちが大勢いた。
皆、自転車で駆けていく俺を不審な目で見ていたが、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。
そして、自転車を漕ぎ始めること数十分。
俺は、目的の場所に到着した。
もう、夕日は沈んでしまっていて、空には少しずつ星の輝きが映し出されていた。
この場所は、何年経っても変わることなく、静寂な時間が流れている。
俺が中学生の頃に、ずっと通っていたお気に入りの場所。
だが、そんな場所に、たった一人、佇んでいる人影があった。
そして、その人影は、まるで俺が到着するのを見計らったかのように振り向いた。
綺麗に伸びた清涼感のある黒色の髪。
日差しを浴びた形跡が、どこにもないような白い肌。
「やあ、慎太郎くん」
俺の記憶から、何一つ変わっていないその姿で、優しい笑みを浮かべていた。
「紗季……先輩……!」
俺は、涙が出そうになるのを堪えて、彼女の名前を呼んだ。
紗季先輩は、白い浴衣姿だった。
柄には紫色の朝顔が描かれていて、思わず見惚れてしまうくらい、綺麗な姿だった。
「その自転車、懐かしいね。初めて来たときも、私はそれに乗ってきたんだっけ?」
しかし、紗季先輩は俺とは対照的に、いつもと何も変わらない様子で接してきた。
「紗季先輩……無事……だったんですね」
「無事?」
思わず出てしまった言葉に、紗季先輩は反応する。
それでも、俺は言わずにはいられなかった。
「良かった……紗季先輩が、いなくならなくて……」
そう思ってしまったら、俺はもう止められなかった。
俺は、自転車を放り捨てて、紗季先輩のところまで駆け寄っていく。
そして、その身体を、勢いよく、抱きしめた。
「……先輩、先輩ッ!」
ちゃんと、先輩はここにいる。
それを証明するように、紗季先輩の身体からは、人のぬくもりが伝わってきた。
これは、俺の夢なんかじゃなくて、現実なんだ。
「……慎太郎くん」
すると、紗季先輩は動揺しているようだったが、俺の頭にゆっくりと手を伸ばして、優しく撫でる。
そして、たった一言を噛みしめるようにして、俺に告げた。
「ただいま」
俺は、その言葉を聞いて、より一層、先輩の身体を強く抱きしめたのだった。
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