第31話 夏の終わりは花火の音と共に③
「……はぁ……はぁ……し、しんたろう、くん……」
境内を抜けて、人の気配が少なくなってしまったところで、
幸い、後ろを振り返っても
「……先輩! こっちです!」
俺は、本来の道から外れて、木が生い茂る山道に入っていった。
辺りは暗く、これなら上手くいけば身を隠すことができるかもしれないと、俺は先輩の手を引いて、さらに山道の奥へと進もうとした。
「……待っ……てく、れ。
だが、ここで、俺はやっと紗季先輩の異変に気付く。
彼女は息も絶え絶えに、苦しそうに胸に手を抑えていた。
そして、立っていることすら我慢できなくなってしまったのか、胸に手を抑えながら、その場にしゃがみこんでしまった。
「先輩! 先輩!!」
「だ、だいじょうぶ、だよ……」
先輩はそういうが、とてもじゃないが大丈夫そうには見えなかった。
そして、俺はこのときになってようやく、紗季先輩の手首に何かで縛られていたような跡が残っていることに気が付いた。
「先輩……その手首……!」
「きみが……気にするような……ことじゃ、ないよ……」
先輩はそう答えるが、俺には苦痛に耐えるように発したその言葉に、俺は胸が苦しくなってしまった。
「……おいおい。紗季が可哀想じゃないか、白石くん」
そして、すぐ後ろで声が聞こえて、俺は振り返る。
そこには、余裕のある笑みでこちらに近づいてくる空也さんの姿があった。
「それに、紗季も駄目だろ? せっかく僕がずっと一緒にいてあげるって言ってるのに、逃げ出すなんて」
どこまでも落ち着いた口調で話す空也さんを、紗季先輩は鋭い視線で睨む。
「……逃げ出すのは、当たり前でしょ」
そして、紗季先輩は苦痛に耐えるように、言葉を吐き出した。
「私を縛りつけてまで……外に出したくなかったの?」
俺は、その瞬間に自分の全ての過ちを理解した。
紗季先輩が、学校に来なかった理由。
俺が空也さんと一緒に迎えに来たと伝えたときの反応。
手首に残る縛られた痕。
ここまでの証拠が揃っていれば、紗季先輩がどんな目に遭っていたのか、容易に想像ができた。
そして、一体誰が紗季先輩を苦しめていたのかも、もはや明白だった。
「空也さん……あなたは……俺を騙していたんですか?」
「おっと、なんのことだい?」
「あなたは紗季先輩の味方になってくれるって……そう言ったじゃないですか!」
俺は、空也さんに対して怒鳴るようにそう問いかける。
だが、この怒りは決して空也さんへのものだけじゃなくて、自分の愚かさすらもぶつけてしまっていることは、自分自身、よくわかっていた。
それでも、この怒りを飲み込めるほど、俺は大人じゃない。
「いやいや、白石くん。誤解をしてもらったら困るよ。僕はね、紗季のことが何よりも大切なのさ」
しかし、空也さんは平然と言ってのけたのち、立ち止まった。
「嘘だ……だったら、どうして紗季先輩にこんな酷い目を遭わせているんですか?」
「……はぁ。まるで子供だね。きみはいちいち理由がないと納得ができないのかい? まあ、いいか……えっと、紗季をどうしてこんな目に遭わせているか、だったよね?」
やれやれ、と首を振った空也さんは、俺を軽蔑する視線を向けて、言い放った。
「僕が紗季を、愛しているからに決まっているだろ?」
そして、空也さんは彷彿とした笑みを浮かべたまま話し続ける。
「僕はね、紗季を初めて見たときから思ったんだ。『この子を僕の物にしたい』ってね。だから、紗季が僕に服従するオモチャに作り替えたんだよ。ああ、そうそう、最初の頃はホテルに連れて行くのも紗季は嫌がっていたんだけど、ちょっと痛い目を遭わせたら、諦めて付いてきてくれたよ。そのあとは大人しいもんで、僕のいうことをなんでも聞いてくれたものさ。まぁ、初めてのときは震えて声も出せなかったみたいだけど……」
「兄さん! お願い……やめて……そんなこと、慎太郎くんの前で、言わないで……」
「……チッ」
肩を震わせながら、必死に声を張り上げた紗季先輩に、空也さんは舌打ちをしたあと、俺に向かっていった。
「あー、そうそう。学校では噂になってるんだっけ? もしかして、白石くんも知っていたのかい? 紗季がそういうことをしていたってことをさ。残念だけど、相手は僕だよ」
ははっ、と乾いた声で笑う空也さんの姿を見ながら、俺は翠から聞いていた話を思い出していた。
紗季先輩が、街の男と一緒にいかがわしい場所に行っているのを目撃したという、あの噂を、まさか、こんな形で真相を聞かされることになるなんて、考えてもいなかった。
俺は本当に、何も分かっちゃいなかったんだ。
「白石くん。もしかして、紗季のそういう噂を聞いて、きみも紗季に近づいたのかな? きみだって、紗季とそういうことを……」
「黙れ……」
「ん?」
「黙れって言ってんのが分かんねえのかよ!!」
俺はもう空也さんに対して嫌悪感しか抱いていなかった。
紗季先輩がどうしてあそこまで空也さんに怯えていたのか、その理由も嫌というほど理解してしまった。
そして、今までそのことに気付かなかった自分が、腹正しくて仕方なかった。
「あんたのせいで……あんたのせいで先輩はッ!!」
「……慎太郎、くん」
紗季先輩が、泣きそうな声色で俺に声をかける。
どうして俺は、こんなにつらそうにしている先輩を放っておいたんだろう。
本当に、情けなくて仕方ない。
「……はぁ」
しかし、そんな俺たちのやりとりを傍観していた空也さんの表情がみるみるうちに歪んでいく。
「白石くん……本当に、きみは目障りなんだよ」
地面に唾を吐き出した空也さんは、その真っ黒な瞳で俺を見据えながら言った。
「少し前からね、紗季が僕には見せなかった顔をするようになったんだ。あれだけ躾けて僕だけしか見ないようにさせていたのに、どうしてだか分かるかい? それはね、きみの存在だよ、白石くん」
「俺の……存在?」
「ああ、僕と初めて会った日のことは憶えているかい? あのときの紗季をみたときは驚いたよ。きみと一緒にいるときの紗季は、僕といるときと全く違う顔をしていた。まるで、普通の女の子のようだった……」
そしてまた、空也さんはゆっくりと俺たちに近づいてくる。
「本当に、不愉快だったよ。紗季は僕の言うことだけを聞いていればいいのに……」
そして、空也さんは怒りを滲ませた咆哮をあげる。
「僕の……僕の紗季に何をしたんだぁぁぁぁ!!!!」
咄嗟に、俺は紗季先輩を庇うような形になって、空也さんを止める。
「!?」
がっしりと、俺は空也さんの腕を握って拮抗状態となるが、俺はそこで、彼の手にサバイバルナイフが握られていることに気が付いた。
「白石くん。きみも痛い目に遭いたくないだろ? わかったら、そこをどいてくれないかな?」
「……くっ、どくわけ、ないだろ!!」
叫んではみたものの、俺も空也さんの動きを止めるので精一杯だった。
「……先輩ッ! 早く逃げてください!」
せめて、今は先輩を安全な場所へ逃げてもらうことしかできない。
――そう、思っていたのに。
「……いやだ」
後ろに膝をついていた先輩が、ゆっくりと立ち上がる。
「ここで逃げても……私に、帰る場所なんて、ないんだから!」
――そして、次の瞬間。
「慎太郎くんは……私が守るんだっ!!」
紗季先輩は空也さんに向かって、自分の身体を思いきりぶつけたのだった。
「ぐっ!」
体格差はあるものの、咄嗟のことで空也さんも体勢を崩してしまい、よろけるようにして倒れこんでしまう。
同時に、その反動で握っていたサバイバルナイフを落としてしまうが、それを見逃さなかった紗季先輩がナイフを手に取り、そのまま倒れてしまった空也さんに跨るようにして抑え込む。
「や、やめろっ、紗季!」
「私は……あなたのオモチャなんかじゃない!! 私は……!」
「何を言ってるんだ! お前は僕の……!!」
「うるさいっ! 私は……私は……うわあああああああああっ!!」
紗季先輩は、悲鳴のような大声を出し、ナイフを持った手を高く上げ、そのまま空也さんにその刃を、振り下ろす。
そして、空也さんの胸に、その刃が突き刺さる――はずだった。
「先輩ッ!」
――振り下ろそうとした腕を、俺はしっかりと強く、握っていた。
「……紗季先輩が、そんなこと……しちゃ駄目なんです」
「しんたろう……くん……!」
彼女の瞳には、真珠のような涙が溜まっていた。
その顔は、ひどく歪んでいて、苦痛に満ちているようだった。
もうこれ以上、彼女を傷つけるようなことはさせたくない。
それが、俺が今彼女に対して出来ることだと思った。
そして、紗季先輩は震える手で持っていたサバイバルナイフを地面に落とす。
「慎太郎……くん」
そして、助けを求めるように、俺に手を伸ばす紗季先輩。
「……ふざけるな」
「きゃっ!?」
しかし、その瞬間、空也さんは自分の身体に乗っていた紗季先輩を押しのけ、落ちたサバイバルナイフを手に取った。
「お前は……僕の物なんだよおおおおおっ!!」
再び咆哮を上げて、空也さんは紗季先輩に突進する。
「……先輩ッ!」
俺は、咄嗟に紗季先輩を突き飛ばして、空也さんの前に立つ。
「……えっ?」
そして、同時に腹部に今まで感じたことのないような衝撃が伝わってきた。
「慎太郎くんっ!!」
俺に突き飛ばされた紗季先輩が悲痛の叫びを上げる。
「……お前!」
そして、歪んだ表情のまま、空也さんが俺を睨みつけている。
俺は頭の中がくらくらして、上手く視線が定まらなかった。
でも、紗季先輩はちゃんと無事……なんだよな?
「――きみたち、何をしているんだ!?」
すると、少し遠い場所でチカチカと懐中電灯のような光が、俺たちの姿を照らす。
「チッ!!」
空也さんは、まるでその光に怯えるように、さらに木が生い茂る山道へと走り去っていく。
俺はその姿を見て、安心する。
良かった。ひとまずこれで、紗季先輩を助けられたんだ。
「……はぁ、はぁ」
緊張が解けてしまったからなのか、俺は急激な寒気に襲われる。
まるで、どんどんと自分の体温が、抜け落ちていくようだった。
ただ、腹部のあたりだけは、灼けるように熱い。
手で触れると、まるで泥に手を突っ込んだような感触があった。
「……あっ、そっか。俺……刺されたんだ」
俺は、黒く染まってしまった自分の手をみつめながら、そのまま後ろに倒れてしまう。
ドサッ、と自分の身体が地面に打ち付けられる感覚があった。
「慎太郎くんっ!!」
すると、紗季先輩が駆け寄って来て、俺の顔を覗き込むように彼女も膝をついた。
「せん……ぱい……?」
「すまない……! 私の……私のせいで……!!」
ポロポロと、先輩の頬から伝う涙の雫が、次々と俺の顔に落ちてくる。
「すみ、ません……なんか、力が、でなくて……」
「当たり前だ! きみは刺されたんだ! もう何もしゃべるな!! 大丈夫だ! 私がすぐに助けるから!!」
先輩は、必死で俺の傷口の部分を手で押さえていた。
その様子を見て、ああ、止血をしてくれているんだなと、まるで他人事のように思ってしまった。
「せん……ぱい……」
「慎太郎くん! お願いだから私の言うことを聞いてくれ! このままだと、きみが……」
俺は、そんな先輩の警告を無視して、ポケットに手を突っ込む。
そこには、真っ赤に染まった栞と、先輩から預かっていた指輪のネックレスが入っていた。
「せん……ぱい……。すみ、ません……先輩から……借りていた、大事なものなのに……」
「そんなことはどうでもいい!! 慎太郎くん!! しっかりしてくれ!!」
「お、おい! 何があったんだ!?」
悲痛に叫ぶ先輩の周りに、今度は二人ほどの男性がやってきて、俺を囲むようにする。
「早く救急車を呼んでくれ!! このままじゃ……!! 慎太郎くんが死んでしまう!!」
そんな人たちに、紗季先輩はいつもの冷静な態度からは想像できないような早口で、何かを訴えかけていた。
「せん……ぱい……」
俺は、そんな先輩に向かって、手を伸ばす。
「もう……どこにも、行かないでくだ……さい」
そんな手を、紗季はしっかりと、握ってくれた。
「大丈夫だ! 私はここにいるぞ、慎太郎くん!!」
――ああ、それなら、良かった。
そう思った瞬間、遠くから、何かが爆発するような音が聞こえて、少しだけ景色が明るくなった。
「はな……び?」
俺はそう呟くと、自然と口が綻んでしまった。
きっと、夜空に輝く花火は、とても綺麗なのだろう。
「ははっ……せっかくなら、先輩と……見たかった、な……」
「慎太郎くん!!」
そして、俺の視界は、どんどんと暗闇に染まっていく。
――ああ、せめて最後だけ。
――もう一度、紗季先輩の笑顔が見たいな……と、そう思った。
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