第7章 2015年 8月9日

第29話 夏の終わりは花火の音と共に①


 空也くうやさんが言っていたように、紗季さき先輩は図書室に来なくなってしまった。


 そのことに関して、俺は若干の不安を覚えたが、空也さんが俺に気を遣ってくれているのか、頻繁に紗季先輩の様子を送ってくれた。


 中には、紗季先輩が今日の朝食に何を食べたかなど、事細かに書かれていた時はさすがに驚いたけど、それは紗季先輩がちゃんとあの家にいるのだという証拠にもなるので、安心できる材料になっているのは確かだった。


 また、紗季先輩の体調も徐々によくなっているそうだが、まだ医者からは安静にしておくようにと言われているらしい。


 しかし、空也さんがいうには、たとえ医者が許可を出したとしても、あの義母が紗季先輩を外に出すことを許可するとは思えない、とのことだ。


 そればかりは、下手に刺激を打たない方がいいと思うので、従っておくのが吉というのが空也さんの判断だった。


『母さんも鬼というわけではないからね。またしばらくしたら、紗季の自由にさせるはずさ』


 そんなメールが届いたときは、俺も早くそんな日が来てほしいと祈るばかりだった。


「ふーん。ほんっと面倒臭い母親よね。そりゃあ、黒崎くろさき先輩もあんな捻くれた性格になるわ」


 そして、俺の話を一通り聞いたみどりは、ブツブツと文句を言いながら俺の隣で夏休みの課題に手を付けていた。


 今は、2015年の8月9日、日曜日の午後6時を過ぎた時間帯だ。


 本当は、この図書室も五時を過ぎたら閉めないといけないのだが、翠はキリが悪いからと手を付けた課題が終わるまで付き合わされることになってしまったのだ。


 まぁ、別に厳密な閉館時間もないので、開放時間をセルフ延長していてもそこまで咎められたりはしないだろう。


 しいて言えば、夏休みにも学校の管理のためにいる先生なんかに早く帰るように注意されてしまうかもしれないけど、いざ注意されるまでは、俺は翠に従うことにしている。


 いやはや、学校の先生より翠の意見を採用するとは、幼なじみという関係は末恐ろしいものだと我ながら思ってしまう。


 今日の翠は、部活がないということで、朝からわざわざ俺の家まで来て一緒に学校まで登校した。翠は自転車での通学を希望したが、坂道の二人乗りはもう二度と経験したくはなかったので却下したのだが「それなら、あたしの宿題に付き合え」と等価交換の法則を無視した要求に応じる羽目になってしまったというのが現状だ。


 といっても、翠が図書室にいること自体は、もう珍しいことではなくなってしまった。


 そう……紗季先輩が図書室に来なくなってから、それを埋め合わせるかのように、翠が毎日、図書室を訪問するようになったのだ。


 しかも、朝は律儀に俺の家まで迎えに来て、帰りも一緒に下校することが習慣になってしまっていた。


 実は、そのたびに自転車のことで言い争いをしているのだが、別段どうでもいいことなので、このあたりのやり取りは割愛させていただく。


 ということで、今まで以上に翠と過ごす時間が増えたのだが、翠も部活があるのでその間は一人、図書室で過ごすことになる。


 ただ、そのときだけは、どうしても紗季先輩のことを考えてしまう。


 紗季先輩とは、もう6日間も会っていない。


 空也さんから紗季先輩の様子について連絡は来ているものの、心の中の不安は募っていく一方だった。


 だが、今の俺にできることといえば、紗季先輩を信じて待っていることだけだった。



 ――先輩は絶対、この図書室に戻って来てくれる。



 そう願いながら、俺は自分の首に掛けてある指輪のネックレスを制服越しに触れた。


 紗季先輩から預かった後に、俺はその指輪のネックレスを身に着けるようにしていた。


 紗季先輩の言った通り、その指輪の存在が俺にとっては、まるでお守りのようなものになっていて、これを身に着けていれば、紗季先輩との繋がりを感じることができるのだ。


 だけど実際のところは、俺の存在は紗季先輩からどんどん離れていってしまっていて、今日もあっという間に一日が終わる。


 しかし、俺の心境とは裏腹に、隣に座っていた翠は、背筋を伸ばして満足そうな声を発していた。


「ふぅ、慎太郎しんたろうのおかげで宿題も捗ったわ。ってか、やっぱ賢いわよね、あんた」


 そんな風に感心する翠だったが、正直、それも紗季先輩がいてくれたからだ。


 俺が分からなかった問題は、ほとんど紗季先輩が教えてくれて、それが俺の記憶として鮮明に残っているから、翠にも同じように教えることができたのだ。


 どんなところにも、俺が紗季先輩と過ごした時間が、残り香のように染みついている。


「……どうしたの、慎太郎? さっさと鍵閉めて帰るわよ。どうせギリギリまで開けてても誰も来ないんだから」


 最後の一言は余計だと思いつつ、実際に誰も来ないだろうから文句も口には出せず、紗季先輩から預かっている図書室の鍵を使って戸締りを確かめたのち、学校をあとにした。


 こうして、翠と二人で並んで歩く帰り道も、随分と慣れてしまった。


 相変わらず、外は図書室と違って蒸し暑く、歩くのさえ億劫になってしまう。


 ただ、いつもと少し違うとしたら、時間帯が遅くなったせいで、帰り道に浴衣を着た人たちがまばらに歩いていることだった。


 今日は、賀郭がかく神社で夏祭りが開催される。遠くから太鼓の音もほんの少しだけ聞こえてきた。


「祭りかぁ。ねえ、あんたは……行くわけないか」


 翠は、質問しようとしたところで勝手に話を完結させた。決めつけはよくないと思うのだが、残念ながら実際にそうなので反論する要素がどこにもなかった。


「あんた、昔は結構あたしと一緒に行ってたわよね? どう、たまには行ってみない?」


 翠は、にやりとした笑みを浮かべながら、俺にそのような質問を投げかける。


「……いや、やめとく」


「えぇー、なんでよ! こんなに可愛い子と祭りに行けるなんて、男なら嬉しいもんでしょ!」


 ブーブーと文句を言う翠に対して、俺はやれやれと首を振りつつ答える。


「お前と一緒に行ったら、すぐに財布の中身がなくなるんだよ」


「財布? 一体なんのことよ?」


「……未来の話だよ」


「……はぁ?」


 まぁ、今の翠に話しても分からないだろう。大学生になった俺が、翠と一緒に夏祭り行ったなんて話は、今から五年後に起こる出来事だ。


 そして、俺はそのあとに、五年前の世界へとやって来たのだ。


「まぁ、なんでもいいけどさ……」


 だが、翠は俺の話なんて全然興味なさそうに、本当に、自然な口調で、俺に告げた。



「黒崎先輩とか、誘えばいいのに」



 ――その瞬間、俺の頭の中が、グルグルと回り始める。





 また、この感覚だ。

 なんだ、一体、この感覚はなんなんだ。


 ――■■■■■。


 そして、また、頭の中で謎の声が響く。

 だけど、その声は、温かくて、ずっと聴いていたいような声だった。


 ――■■■くん。


 どこかで聴いたことがある、優しい、声。


 ――■■郎、くん。


 少しずつ、ノイズの混じった声が、クリアになっていく。

 そして、最後は、はっきりと、その声が聞こえた。


 ――慎太郎、くん!






「紗季、先輩ッ……!」


 ハッ、と目を見開くと、翠が不思議そうな顔でこちらを見ていた。


「……えっ? あっ、うん。黒崎先輩よ。夏祭りとか誘ったらいいのにって思っただけなんだけど、よく考えたら今は先輩も体調が悪いし、来年もこの町にいるか分かんないのよね。あんた、黒崎先輩の進路先とか……って、どうしたの!?」


 俺は、翠の話を最後まで聞かずに、自分の持っていた鞄をひっくり返すようにして中身を全部、放り出した。


 その様子を見た翠は、一体何事かと狼狽えていたが、俺はそれすらも気にせずにある物を探す。


 もしかしたら、この中に……!


「……あった!」


 それは、俺が高校生までずっと鞄に入れていた、太宰治の『人間失格』の文庫本だった。


 しかし、本当に確認したかったのは、本ではなく、その中身。


 俺は、素早くページをめくって、それを探す。



 ――そして、俺の捜し物は、確かにそこに、存在していた。



 ページの間に挟まれた、小さな白い栞。

 俺は、その栞を手に取って確認すると、短い文章で、こう書かれていた。



 夏祭りの日。

 私はずっと、きみを待っています。



「先輩が……待ってる!」


 俺は、手に取った栞を握りながら、ぶちまけてしまった鞄をそのままに、全力で走りだした。


「ちょ、慎太郎!!」


 後ろから、翠が俺を呼ぶ声が聞こえるが、俺が立ち止まることはない。


 どうして、今までずっと、このことを放置していたのかと、後悔したくなる。


 だが、今、確信した。


 この栞のメッセージを残したのは、間違いなく、紗季先輩だ。


 俺がいた最初の世界では、おそらく終業式のときに俺の鞄の中に、この栞を入れたのだろう。


 だが、今、俺がいるこの世界では、終業式のときにその栞をこっそりと俺の鞄に入っている文庫本に挟むようなことはしなかった。


 なぜ時間にズレが起こったのか、それは憶測でしかないのだが、多分俺と会う機会が最後ではなくなったからだろう。


 前の世界では、夏休み中に図書室を解放するということなんてせずに、あの終業式の日が、俺と紗季先輩が会う最後の日になっていたからだ。


 だから、そこで俺にメッセージを残したのだ。


 でも、今回は違った。


 このメッセージを残したのは、おそらく、空也さんが紗季先輩を迎えに来たときだ。


 そのときに、俺の鞄の中にある文庫本に栞を挟んだ。


 確か、紗季先輩は空也さんが俺の鞄から財布を取っていたときに、鞄の中身の整理をしたと言っていた。


 だから、そのときにこっそり挟むことは可能だ。


 そして、なぜ、こんな回りくどいことをしたのかといえば、紗季先輩は、空也さんのことを警戒しているからだ。


 俺は、空也さんから彼の本音を聞いていたから、紗季先輩の味方であることを知っていたけれど、紗季先輩は空也さんを信用していない。


 もし、直接メモなんかを残してしまえば、空也さんに見られてしまう可能性がある。


 だから、それを避けたかった紗季先輩はこうして栞に書いて渡したのだ。



 ――俺が、必ず見つけてくれると、信じていたから。



 そして、俺の考えが正しいと証明するかのように、ポケットに入れていたスマホが震え出したので取り出すと、相手は空也さんだった。


『あっ、もしもし。白石くん、きみに伝えたいことがあるんだが……』


 と、空也さんは言い淀みながらも、俺に言った。



『紗季が、いなくなった』



 もし、その台詞を、数分前の俺なら焦る気持ちを抑えられなかっただろう。



 だが、今の俺は違う。

 もう、紗季先輩が今、どこにいるのかを、知っている。



 ただ、それを空也さんに伝えるべきか、一瞬だけ考えてしまった。


『すまない、僕の責任だ。きみからも、ちゃんと忠告してくれていたのに……』


 だが、電話越しでも分かる沈鬱な様子に、俺は空也さんに現状を伝えることを決意した。


「……空也さん! 俺、多分、紗季先輩がいる場所、分かります!」


『えっ!? 本当かいっ!? 紗季は、一体どこに行ったんだ!?』


 走ってまま通話をしているせいで、息も絶え絶えで話していたのだが、空也さんはそのことに対して言及することなく、俺から紗季先輩の居場所を聞き出そうとする。


「夏祭りをやってる賀郭神社です! 多分、そこに紗季先輩はいると思います!」


『……わかった。賀郭神社だね。僕もすぐに向かうよ』


 そういうと、空也さんは通話を切ってしまった。


 俺も、全速力で賀郭神社へと向かう。


 そこに、紗季先輩が待っている。


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