第26話 そして彼女は消えていく⑥
その後、
俺は、誰も訪れてこない図書室で、ただ時間が流れるのを待っているだけで、何も手がつかず、ただ黙ってカウンターの席に座っているだけだった。
そして、ほんの数時間前まで隣に座っていた先輩の席に視線を向ける。
まだ、俺の手のひらには紗季先輩の温もりが残っている。
あのとき、もし
そして、それを先輩が受け入れてくれたのか、今ではもう分からないことだ。
だけど、あのときの先輩は確かに、俺を求めてくれていた。
多分、俺はそれが分かっただけでも十分だった。
この時代に戻って来て得られた経験は、俺がずっと……追い求めていたことだったのかもしれない。
「……なんか、死んで幽霊になったみたいだな、俺」
心残りがなくなり、成仏する地縛霊の気持ちがほんの少しだけ分かったような気がした。
「……なに馬鹿なこと言ってんのよ」
すると、誰もいないと思っていた図書室の扉の前に、ジャージ姿の翠が立っていた。
「翠……お前……部活は?」
「もう終わったわよ」
そう言われて、壁に掛けてある時計を見ると、俺たちが学校に帰って来てから、もう数時間以上も時間が経過していた。いつもなら、図書室を閉める時間帯だ。
しかし、どうして翠はわざわざここに来たのだろうか?
「一応、あんたに言っておこうと思ったんだけど、黒崎先輩を呼んだのはウチの顧問の先生なんだって。別に知ったところでどうなんだって話だけどさ」
ツン、と眉をひそめながら、翠は興味なさそうに俺に情報を教えてくれた。
「ただ、そのときの黒崎先輩は特に変わったところはなかったみたいよ。親から連絡があったって伝えたら、素直に家に帰るって言って、それで……」
と、そこで少しだけ言葉を詰まらせた翠だったが、最後まで言うことに決めたらしく、腕を擦りながら話を続けた。
「黒崎先輩のお兄さんだって人が迎えに来たみたい。そのあと、そのお兄さんと一緒に図書室を出て行ったそうよ」
俺は、すぐに昨日会った男性の姿が頭に浮かんだ。
そういえば、紗季先輩の義母が『息子が迎えに行った』と言っていたような気がする。
ただ、翠は少しだけ不安を残すような顔をしている。
おそらく、その理由はあの義母の態度を見てしまったからだろう。先輩から直接話を聞いていない翠でも、先輩の家庭内の立ち位置があまり良くないことを悟っているのかもしれない。
「そっか……あのお兄さんが……」
「あんた、知ってるの? その人のこと?」
「……ああ、一度だけ会ったことがある」
それも、つい昨日のことだというのは伝えるべきかどうか悩んだが、翠が追及してこなかったので、俺の口から話すことはなかった。
そういえば、元の世界ではあの人とは一度も顔を合わせたことはなかった。夏休み中に帰ってくるくらいだから、大学は俺のように都会の学校に通っているのだろうか?
そういう詳しい話はしていなかったので想像でしかないのだが。
ただ、俺の印象としては、そこまで悪いものではなかった。紗季先輩の態度はそんなにいいものではなかったものの、俺としては、お兄さんは昨日も紗季先輩のことを本気で心配しているようだったし、少なくとも、俺にはそれが演技には見えなかった。
「あの人なら、紗季先輩を悪いようにはしないと、思う」
「……そう。なら、いいんだけど」
俯きながら、不安そうな顔をする翠。
「なぁ、翠」
そんな翠の態度を見て、思わず俺は言ってしまった。
「ありがとな。紗季先輩のこと、心配してくれて」
翠も、今では紗季先輩の味方でいてくれている。
俺には、それがどうしようもなく嬉しく感じてしまった。
「はぁ!? べ、別に心配なんてしてないわよ! ただ、あたしだってその……色々誤解してるかもしれなかったし……それに……」
口ごもりながら、色々と言い訳を見繕う翠だったが、最後は真面目な顔をして、俺に言った。
「……
……俺は、そう告げた翠を、呆然と眺める。
「な、何よ……。あたし、変なこと言った?」
「いや……その、俺、翠が幼なじみでいてくれて、本当に良かったなって」
どんなときでも、翠は俺の傍にいてくれた。
そして、今もこうして、一緒にいてくれる。
「ありがとう、翠」
だから、俺はもう一度、翠に先ほどと同じ言葉を告げた。
でも、これは紗季先輩のことに対してではなく、俺が何十年も翠に言えなかった、感謝の気持ちだ。
「……いっ! いいわよ、そんなの! ああ、もうっ!」
しかし、翠はなぜか苛立ったように、頭をぐちゃぐちゃと自分の手でかき回す。そのせいで、髪の毛がぼさぼさに乱れてしまっている。
「とにかく! 黒崎先輩に連絡ついたら、あたしにも知らせなさいよ!」
そう言って、ズンズンと足音を響かせるように大股で歩きながら、そのまま立ち去ってしまった。てっきり家の方向も同じなので、このまま一緒に帰るのかと思ったのだが、別にそういうつもりじゃなかったらしい。
まあ、翠には翠の予定もあるのだろう。もしかしたら、あの団子頭の女子生徒、礼奈さんと何か予定があるのかもしれない。
そんなことを考えていると、俺はいつのまにか自分が笑っていることに気が付いた。
心に溜まっていた、重苦しい靄のようなものも消えてしまっている。
「……やっぱ凄いな、翠は」
そう呟いたあと、俺は図書室を閉める準備をするのだった。
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