第25話 そして彼女は消えていく⑤
かなりスピードは出ていると思うのだが、翠は全く怯えている様子がない。
「ねえ、
「……あと少しで着くはずだ」
そう答えたところで、下り坂が終わり道路は平坦な道へと変化していく。俺はペダルに力を込めて、勢いを殺さないように必死で漕いでいく。今までスピードに乗っていた勢いで涼しかった風もなくなり、暑い日差しが容赦なく俺たちを照り付ける。
「あーあ、あたしたち、このことがバレたらまた怒られるんだろうなぁ。内申点とか下がったら困るんだけど」
翠が後ろでそんなことを呟くので、俺はふと、翠の将来のことを考えてしまう。
過去に戻ってきた俺のせいで、翠の将来に何か変化が起きてしまうのは避けたい。
「そうなった時は……俺がなんとかするよ」
だから、俺は翠に迷惑をかけてはいけないと、本気でそう思っての発言だったのだが、
「……慎太郎が? ふふっ、何よそれ」
俺の背中から返ってきたのは、愉快な笑い声だった。
「そんなの、あんたが決めることじゃないでしょ」
「……そうだけどよ」
翠の言うことは至極もっともで、むしろ俺の言い分を教師陣が素直に聞いてくれるとは思わない。
「でも、ありがとう」
ただ、最後に翠は、そんな言葉を俺に言ってくれた。
そのときの翠が、どういう顔をしていたのか見れなかったことに、俺は少し勿体ないなと思ってしまった。
そして、自転車を漕いでいくと、道路に面していた場所から住宅街へと入っていく。
ここは、俺や翠が住んでいる場所とは違い、新しい一軒家が立ち並ぶ区画だった。
そこに、
「結局、黒崎先輩に追い付かなかったわね」
自転車から降りた翠は、自分の推理が外れていたからなのか、不満そうにそうぼやく。
だが、確かに自転車で追いかけたのだから、歩きで帰っている紗季先輩に追い付いてもおかしくないと思っていたのだが……。
「まあ、どっちみち会えるならいいんだけどね」
そういって、翠は目の前にある一軒家を腰に手を当てて眺めていた。
紗季先輩の家は、二階建ての白を基調とした建物で、門の前にはガレージがあったり、見た目からかなりの高級感を醸し出していた。歩くたびに床の軋む音が聞こえる俺の家とは大違いだった。最初に訪れたときは「紗季先輩ってやっぱりお金持ちの家の人間だったのか」と、妙に納得してしまったことを覚えている。
そんな風に懐かしんでいると、翠は表札をちらりと見て、躊躇なくインターフォンに手を伸ばした。
「おい、翠!?」
「何よ、ここまで来たんでしょ。手ぶらで帰るわけないじゃない」
まだ心の準備ができていなかった俺とは違い、翠は気合十分といった顔で相手がインターフォンを出るのを待ち構えていた。
果たして、数秒後、インターフォンから女性の声が届いた。
『はい、なんでしょうか?』
声色には、明らかに不審そうな感情が滲み切っていた。
おそらくインターフォンにはカメラがついているだろうし、車が入る門のところにも監視カメラが設置しているので俺たちの容姿は相手から丸見えのはずだ。
そして、俺はインターフォンから流れてきた声が、誰のものなのかもすぐに分かってしまった。
「あの、あたしたち、賀郭第一高校の生徒なんですけど……」
『それは見れば分かります。そのことを踏まえて、用件は何かと聞いているんです』
やはり、俺たちの姿は相手も確認しているようだった。
だが、そんなことより、翠は相手の言い方があまりにも横柄なことに気が立ったのか、俺から見ても明らかにさっきまでとは違う形相でインターフォンに話しかけた。
「……あたしたち、黒崎先輩……黒崎紗季さんに用事があるんですけど、いらっしゃいませんか?」
『…………』
インターフォンからは、長い沈黙が続くだけで、返事はこなかった。
しばらく待っても何も反応がないので、痺れを切らした翠がもう一度、同じ質問をしようとする。
「……あの、聞こえてますか? あたしたちは――」
『あなたたちに紗季を会わせる必要はありません』
それは、俺たちを明らかに拒絶するような内容だった。
『もういいですか? それじゃあ、あなたたちも帰ってください』
インターフォンの相手は、もうこれ以上は何も話すことがないというように、会話を終了させようとする。
「……は? ちょっと!? どういうことですか!!」
『こちらからは話すことはないと言ってるんです。これ以上騒ぐようでしたら、警察を呼びますよ』
「ちょっと、警察って……」
相手の発言に、翠も動揺しているようだった。
翠としては、まさか本当に警察沙汰にされるとは思ってはいないかもしれない。
だが、俺はこの人がそういうことを躊躇せずにやることを、知っている。
「翠……俺が代わる」
なので、俺は翠の代わりに、その人物と会話をすることにした。
「あの……黒崎先輩のお母さん……ですよね?」
『……そうですけど』
やはり、俺の予想通り、インターフォンの相手は紗季先輩の母親だ。
いや、紗季先輩の話を聞いたあとだから分かったことだが、この人は紗季先輩の本当の母親ではなく、義理の母親だ。
俺はこの人と、以前……、今だと未来のことになるが、紗季先輩のことで色々と言い争いになっている。
当時は『どうして母親なのに、娘がいなくなったことを心配していないんだ』と思っていたが、その理由が分かってしまった今は、余計に腹立たしく感じる。
……だが、我慢だ。
俺がここで声を荒げたところで、何も解決しない。
むしろ、今は翠だってこの場にいるんだ。できれば問題事は起こしたくない。
「あの、一つだけ、聞いてもいいですか? 紗季先輩は……この家にいるんですか?」
『…………』
またしても、長い沈黙が続いた。
だが、俺は辛抱強く相手の返答を待ち続けた。
そして、インターフォン越しから、呼吸音が聞こえてきたのちに、告げられる。
『紗季は……いません』
その解答を聞いた瞬間、俺の悪夢が蘇る。
その台詞は、俺がここで何度も聞いた台詞だ。
夏場の暑い日だというのに、俺は一気に血の気が引いて寒気を感じた。
『紗季は今……病院に向かっています』
だが、俺の予想に反して、紗季先輩の義母はそう俺たちに伝えたのだった。
「びょう……いん……?」
『ええ、昨日から体調を崩していたので今日は安静にするように言ってたんだけど、気が付いたらあの子、勝手に家を飛び出していたんです。ただ、行く場所はおおよそ検討がついたので、学校に連絡したら、案の定、学校にいるということだったので息子に迎えに行ってもらったんですよ』
……思い返してみると、確かに紗季先輩は、いつもと様子が違っていた。どこか弱々しい感じがしていたし、普段なら言わないようなことまで、俺に言っていた気がする。
もしかしたら、その原因は、体調が悪かったから、なのだろうか?
だとしたら、紗季先輩が残したメモ用紙の内容にも、それなりに繋がりができた。
『もしかしたら私は、しばらくここに来られないかもしれない』というメッセージの意味は、単純に体調不良になってしまったから、図書室に来られない、という意味だったのか?
「じゃあ、あたしと慎太郎が喋ってるときに先生が来て、黒崎先輩を呼びに来たってことよね? 時間的には……まぁ、それくらいはあったかもしれないけど……」
翠が話を整理していると、紗季先輩の義母が、今度はさらに声のトーンを落として、インターフォン越しに俺たちに告げる。
『あの……もういいですか? これ以上は、私たち家族の問題ですので……』
相手は明らかに俺たちと早く会話を終わらせようとしている。
そして、俺たちがどこの誰ということも、全く興味を持っていないことが明確にうかがえた。
実際、俺たちは一度も名前や身元を尋ねてこない。
おそらく、これ以上、ここにいても無駄だ。
「……わかりました。色々と、時間を取らせてしまい申し訳ございませんでした」
そう判断した俺は、頭を下げてその場を離れようとする。きっと、その様子は防犯カメラにも写っているので、本当に俺たちが去っていくところも確認していることだろう。
「ちょ……ちょっと慎太郎!?」
自転車を押して去っていく俺の後ろを付いてきながら、翠は不満そうに異論を唱える。
「帰っちゃっていいわけ!? いや、そりゃあ……あたしに付き合ってもらってるってだけなんだけどさ……」
「いいんだ。少なくとも、ここで騒いでいたら本当にあの人は警察を呼んでしまうかもしれないし」
俺はともかく、翠を巻き込むわけにはいかない。
「また、先輩が学校に来たら翠にも連絡を入れるよ。そのときに、手を出してしまったことを謝ってくれたらいいから……」
「でも……」
翠は、まだ何か言いたそうにしていたけど、最終的には俺の判断に従うことにしたようで、反論は返ってこなかった。
「……わかった。じゃあ、黒崎先輩の体調が良くなったら、すぐにあたしに連絡しなさいよ」
俺は、そんな翠の提案に「悪いな」とだけ返答した。
正直、俺も紗季先輩に会えなかったのは不安で仕方がなかった。
だが、同時にあの人……紗季先輩の義母が、余計な嘘を吐く人ではないことも分かっていた。
もし、俺たちに話したことが作り話だったとして、それを俺たちに伝えるメリットなんてどこにもない。ただ俺たちの相手をするのが面倒だったら、理由など付けずに追い返す性格であることは過去の経験……ではなく、未来の未体験(まさか、こんな表現を使うことがあるとは)でよく分かっている。
となると、紗季先輩は本当に、俺が昨日会ったお兄さんに連れられて、病院に向かった可能性が高い。
――だが、問題はそのあとだ。
今回のことで、紗季先輩の家庭事情が浮き彫りになってきたことで、ある想像を膨らませつつあった。
紗季先輩が、俺に話してくれた家族との関係。
そして、今のあの義母の態度から、やはり関係性が良好とはいえなくて、紗季先輩がいなくなった未来でも、あの人は平然とした態度で過ごしていた。
この家には、紗季先輩の居場所がどこにもない。
だから、先輩は――。
「……ねえ、慎太郎」
すると、翠が俺に声をかけてきた。
「あんた、大丈夫?」
だが、いつもの翠とは違い、どこか不安そうな顔で尋ねてくる。
「あんた、今すごい顔してたわよ?」
「えっ? ああ、悪い……考え事しててさ。別に、大したことじゃないから」
そういって笑って誤魔化すが、翠は怪訝そうな目を俺に向けてくる。
「……そう、なら、いいんだけど」
しかし、あまり追及はすることなく、翠は空を見上げて、太陽を眺める。
「ほんと、暑いわよね。どうにかならないのかしら……」
不満そうに呟く翠に、俺は「どうにもならないだろな」と伝える。
その言葉が、自分自身に言っているような気がして、俺はどうしようもなく不甲斐ない気持ちになってしまって、気が付けば、ポケットに手を入れて、そこに入っている紗季先輩から預かった指輪のネックレスを、強く握りしめていた。
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