第22話 そして彼女は消えていく②


「……みどり


 扉を開けたその反対の手には、この前借りて行った課題図書が握られている。


 もしかして、その本を返却するために図書室に寄ったのだろうか? だとしたら、あまりにもタイミングが悪すぎた。


 だが、それを俺たちが責めることなどできるはずもない。


 最初は目を見開き驚いていた翠の表情は、みるみるうちに怒りに満ちたものへと変わっていく。


「やっぱり、そういうことだったんだ……」


 何故か、翠の声は震えていて、そこには嫌悪感を隠すつもりなど毛頭ないといった雰囲気が漂っていた。


「ちがっ……これは……」


 翠が現れたことで、俺の頭は混乱してしまう。


 だが、翠はそんな俺にはお構いなしに、今度は紗季先輩のほうへと視線を向ける。


黒崎くろさき先輩……こんな場所で、そういうことをするのは非常識だと思わないんですか?」


 翠は、まるで紗季先輩に恨みでもあるかのような棘のある言い方で攻め立てる。


「…………」


 先輩は、何も答えなかった。


「黒崎先輩……ちゃんとあたしの質問に答えてくださいよ」


 翠は、ますますイライラした様子で顔を歪めた。


「おいっ、待てよ翠」


 さすがに看過できなかった俺は翠に反論する。


「あれは、俺が先輩を……!」


「……じゃあ、慎太郎。あんた、黒崎先輩は付き合ってるの?」


 反論しようとした俺の話など聞かず、翠は抑揚のない声で俺にそう告げた。


 それは、今の俺たちの状況に対して、確信を突くような問いかけだった。


「いや……そんな、ことは……」


 そう。


 俺たちは、翠が想像しているような関係性ではない。


 それは以前、翠に呼び出されて行った喫茶店でも、否定している。


 だが、その事実は、今の翠には火に油を注ぐようなものだったことに、馬鹿な俺は気付いてもいなかったのだ。


「……黒崎先輩、本当ですか? 慎太郎はこう言ってますけど」


 俺の発言を裏付けしたいのか、紗季先輩にも翠は同じ質問を投げつける。


「……ああ、そうだね。慎太郎くんの言う通りだよ」


 先輩は、いつもより動揺の色を滲ませながら、翠の質問に答えた。


 だが、その答えに何故か翠は納得をしなかったようで、先輩に向ける鋭い視線が一層強くなっている。


 むしろ、先輩に対して、さらに敵意に近い感情を向けていることが俺にも伝わってきた。


「……だったら」


 そして、翠は抑揚のない声で、先輩に新たな質問をぶつける。



「黒崎先輩は……慎太郎のことが好きなんですか?」



 俺は、自分が問いかけられた訳でもないのに、心臓が跳ね上がりそうになった。


「教えてください、黒崎先輩。あなたは……慎太郎が好きなんですか?」


 もう一度、翠は同じ質問を紗季先輩にする。


 だが、翠は先輩が質問に答える前に、さらに話を続けた。


「黒崎先輩。あたし、あなたの悪い噂を知ってるんです。夜の街で……男の人たちと一緒にいたのを見たっていう噂です。中には、あたしたちが立ち寄らないような、いかがわしい場所にも出入りしてるって……そういう噂だってあるんですよ?」


 それは、俺が喫茶店で翠から聞いた話だったが、俺が聞いたときよりも相手に配慮しない内容の伝え方だった。


「おい、翠! お前、いい加減に――」


「慎太郎は黙ってて!!」


 図書館に響き渡るほどの大声で、翠は叫ぶ。


 邪魔をするなと、直接的に言われてしまった俺は、情けないことにそれ以上翠に対して何も口出しできなくなってしまっていた。


 冗談で俺にキツイ言葉を言われることがあっても、俺は翠に本気で怒られたことは、一度もない。


 だが、翠は本気で、俺に対して怒りの感情をぶつけている。


 そして、その感情の矛先は、俺ではなく、紗季先輩に向いてしまっている。


「黒崎先輩……あたしは……慎太郎のことを、よく知っています。こいつは……全然友達もいないし、空気も読めないし、クラスでもいるのかいないのか分かんない奴で……どうしようもない奴です」


 話している最中、翠は何かを我慢しているかのように、ジャージのズボンをぎゅっと握っていた。


「……だけど、慎太郎は、馬鹿が付くくらい……優しい奴なんです。あたしが友達と喧嘩したときとか、落ち込んだ時があったりすると、絶対に気付いてくれて、傍にいてくれたんです……。だから、あたしは……そんな慎太郎が幼なじみでいてくれて、本当に良かったと思っています」


 翠は肩を震わせて、目から涙をこぼしていた。


 正直、俺は、一体いつの話をしているのだと思ってしまった。


 確かに、小さい頃の翠は、やんちゃで自我が強かった故に、彼女の友達とも度々衝突することがあった。一時期は、明らかに俺から見ても翠を仲間外れにしようとしている雰囲気が、クラスの中であったりもした。


 そんなときに、俺はただ、翠が一人にならないように相手をしていただけだった。もっと自分が上手く立ち回れたならば、翠を仲間外れにしようとした奴らを探し出して問題を解決しようとだってするだろうが、あいにくと俺にはそんなヒーローじみたことをできるはずもない。


 実際、俺が翠の相手をしていた時期など、俺の記憶では非常に短いものであって、気づいたときには翠は元の仲良しのグループに戻って平穏な学校生活を続けていたというのが俺の印象だ。


 だから、翠が言った、俺が『優しい奴』だなんて、勘違いもいいところのはずなのだ。



 ――それなのに、翠の話を聞いた紗季先輩は、にっこりと笑みを作って、こう告げた。



「ああ、よく知ってるよ」



 透き通るような、嘘偽りのない返事だった。


 それを聞いた翠は、一瞬だけ目を見開いて、先輩の顔を見た。


 そして、その微笑が普段のミステリアスな印象を壊してしまうような、儚く、少女のような笑顔に、言葉を失ってしまったようだった。


「……分かってるなら」


 だが、翠は震えるような声を絞り出して、言った。


「慎太郎のことをそう思うなら……今ここで、あたしが言った噂が嘘だって言ってください。じゃないと、慎太郎が可哀想です……」


 翠は、ずっと紗季先輩のことを毛嫌いしているような節があった。


 それはずっと、翠が紗季先輩に対して苦手意識を持っているからだと、そんな風に解釈してしまっていた。



 だが、違ったんだ。

 翠が紗季先輩を嫌っている理由は、俺のせいだったのか。



「答えてください、黒崎先輩。あなたの噂は……本当なんですか……?」


 そして、翠からの問いかけに対して、紗季先輩は――。



「――ごめんなさい」



 ――たった一言、謝罪の言葉を口にした。



 その瞬間、翠は勢いよく、紗季先輩に近づいていく。


 そして、俺が止める間もなく、翠は右手を大きく振り上げ……。



 パァン! と、乾いた音が木霊した。



「……ははっ」


 紗季先輩は、叩かれた頬を抑えながら笑い声を漏らし、酷く沈んた表情を浮かべていた。


「きみがそれで気が済むというのなら、私はいくらでも罰を受けるさ。きみには……慎太郎くんとずっと一緒にいたきみには……その権利があるんだから」


「……ッ!」


 紗季先輩の発言を聞いた翠は、俺たちに背を向けて、図書室を出て行こうとする。


「翠ッ!」


 俺は、去っていこうとする翠を引き留めようと声を掛けたが、彼女は止まることなく図書室から出て行った。


 一体、何秒くらい、俺は自分が固まっていたのか分からない。


「慎太郎くん」


 だが、俺の意識を戻してくれたのは、先輩の声だった。


 その声のほうに振り向くと、紗季先輩は叩かれた左の頬を抑えていた。


「慎太郎くん、きみはあの子のところへ行ってあげるといい。多分、今の彼女にはきみが必要だ」


 いつもの笑みを浮かべて、紗季先輩は俺にそういった。


「それより、先輩が……」


「ああ……これはいいんだ。自業自得だからね……」


「そんな……」


 自分が頬を叩かれたことに関して、紗季先輩は翠のことを責めている様子はなかった。むしろ、それが当然だというように、受け入れているようだった。


 だが、たとえ当人が納得していようと、俺はそんなのは間違っていると、はっきり言おうとしたところで、それを阻止するかのように、先輩は口を開いた。


「私のことはいいよ。だから、あの子の傍に行ってあげなさい」


 真剣な目で、紗季先輩が俺を見つめた。それは今までに感じたことのない、意思を感じる目つきだった。


「わかり……ました……」


 悩んだ末に、俺は先輩の指示に従って翠を追いかけることを選択した。


 正直、今の翠を一人にすることは危険であると、俺も先輩と同意見だったからだ。


 だから、俺の翠を追いかけるという選択をしたことは、間違っていないはずだ。


 今の俺は、そう自分に言い聞かせて、納得させることしかできなかった。



 ――だが。



「ねえ、慎太郎くん……」


 図書室から出て行く俺の背中に、紗季先輩は告げる。



「さっきのことは、全部、忘れてくれ」



 ……俺は、先輩に言葉に返事をしないまま、その場を立ち去った。






 翠を追いかける途中、俺は夏の暑い学校の廊下を歩きながら、ぐちゃぐちゃになりそうな頭をなんとか堪えて正常に戻そうとする。


 だが、その度に、先輩に言われてしまった一言を思い出して、胸が苦しくなってしまう。


 本当に、自分勝手な感情だ。


 そんなとき、自分の手に先輩から渡された指輪のネックレスを握りしめていることに気が付いた。


 俺は、それをポケットにしまって、呟く。


「忘れるわけ……ないじゃないですか……!」


 俺の独り言は、誰にも聞かれることはなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る