第6章 2015年 8月3日

第21話 そして彼女は消えていく①


 8月3日、月曜日。


 もう慣れてきたと思っていた夏の暑さは、今日も容赦なく学校へ向かう俺を襲う。

まだ朝だというのに、アスファルトから照り返してくる太陽の熱は俺の足取りを重くさせるのには十分な威力だった。


 だが、俺の足取りが重たいのは暑さだけのせいではない。


 その理由は、もちろん紗季さき先輩のことだ。


 連絡先はずっと昔にしていたものの、彼女はスマホを持ち歩くという習慣がないようで、ほとんどスマホとしての機能を発揮していないので、あまり連絡ツールとしては機能していなかった。


 それでも、昨日あれから先輩がどうなったのか気になった俺は、簡単な文面だけメールで送信しておいた。あのお兄さんの発言から察するに、先輩は俺と無断で出かけたようだったし、何か親から言われていないのかと心配になる。


 だが、俺の送ったメールは返信されることなく今日の朝を迎えた。


 まさか……とは思いつつも、俺の中の不安は膨らみつつあった。


 昨日の時点で、もしかしたら俺が経験した『先輩がこの町からいなくなる』という事象の、何かキッカケを与えてしまったのではないのだろうか?


 それに先輩は、お兄さんと会う前に「帰りたくない」と言っていた。


 あの言葉の意味を、俺はまだ彼女から聞いていない。



 ――だが、その感情こそ、彼女がこの町から消えてしまうキッカケだったとするならば。



 そうやって、嫌な方向ばかりに思考を働かせていたからなのか、学校までの道のりがいつも以上に長く感じてしまう。


 そして、ようやく着いた学校では、いつものように体育系の部活動に所属する生徒たちがグラウンドで声を出しながら練習に励んでいた。


 何も変わらない、普段通りの風景に少しは心が落ち着いてくる。俺の心情など届かないだろうが、俺はそんな運動部の部員たちに感謝をしつつ図書室へと向かう。


 そして、長い廊下を一番端、日の光がほとんど当たらないその場所の扉に手を掛ける。


 だが、その手をすぐには動かせずにいた。



 ――もし、この中に彼女がいなかったら?



 そんな予想が頭の中を駆け巡って、胸が苦しくなる。



 大丈夫だ。

 そんなこと、あるわけない。



 ゆっくりと扉を開き中に入ると、本の匂いに包まれた穏やかな空間が広がっていた。


 ただ、その中に少しだけ、甘い花の蜜のような匂いが混じっている。



「おはよう、慎太郎しんたろうくん」



 彼女は、またいつものように、笑顔で僕の目の前に現れてくれた。


 綺麗で艶のある黒髪に、透き通るような白い肌をしている少女。


 美しい造形物のような外見とは裏腹に、しっかりと自分の意思を確立していることを主張する黒い瞳に俺の姿が浮かぶ。


 その瞬間、心に蓄積されていた様々な感情が流れていく。



 そうだ。

 先輩は、ちゃんと俺と約束してくれた。

 この夏休みの間は、一緒にこの図書室で過ごしてくれると。



 俺がその約束を果たし続ける限り、先輩はずっとこの場所にいてくれる。


 何故か俺には、そんな風に思えてならないのだ。


「慎太郎くん。昨日はあれから体調は大丈夫だったかい?」


 受付カウンターで本を読んでいた先輩は、一度読みかけの本を閉じて身体ごと俺の方へと向けた。


「はい。なんともありません。その、昨日はちょっと立ち眩みしただけだと思います。俺、あまり人混みとか得意じゃないですから」


「……そうか。ということは、やはり私が無理をさせてしまったのかもしれないね」


「いえ、先輩が悪いわけじゃないですよ。それに……昨日は俺も楽しかったですから」


「ああ、私もだよ。昨日は本当に……楽しかった」


 紗季先輩は、まるでその出来事が遠い昔に起こったことのように、遠くを見つめながら想い馳せていた。


 まるで、先輩はもう、そんな時間は還ってこないと、自分に言い聞かせているように。


「……また、時間があれば行きましょう。俺も付き合いますから」


 だから、咄嗟に俺はこんなことを口走ってしまった。


「映画館でも、ゲームセンターでも、どこでも付き合いますから……そんな最後みたいな言い方、やめてください」


 紗季先輩が消えてしまうかもしれないという恐怖が、ずっと俺の中に残っていたせいかもしれない。


 そのせいで、俺は必死で紗季先輩を繋ぎ止めようとしている。


 たとえ、それが小さなことだったとしても、だ。


「……慎太郎くん」


 だが、俺の話を聞いた紗季先輩は、いつものように不敵な笑みを浮かべるわけでもなく、ずっと長くいたはずの俺さえも、感情が読み取れない笑みを浮かべた。


 悲しんでいるような、喜んでいるような、そのどちらとも取れる笑顔だった。


「慎太郎くん、ちょっといいかい?」


 すると、紗季先輩は俺を受付カウンターへと来るように手招きした。俺はそれに従い、彼女の近くまで寄っていく。


「……少し、動かないでくれ」


 そして、先輩は俺の目の前でカッターシャツの第一ボタンを外す。


「……えっ、ちょっと、先輩!?」

予想外の行動に俺は動揺するものの、先輩はそんな俺には構うことなく首の後ろに手をまわした。


 そこでようやく、先輩が首から下げていたネックレスが、昨日俺と一緒に出掛けていたときに付けていたものと一緒なことに気が付いた。


 そして、そのネックレスの先には、指輪がついている。


 紗季先輩は、それを愛おしそうに眺めたのち、俺のほうへ差し出した。


「慎太郎くん……これをきみに渡しておこうと思うんだ」


「えっ?」


 突然のことに戸惑う俺とは違って、先輩は表情一つ変えることはない。


 先輩は俺の手をとって、てのひらにそっと指輪を乗せる。俺は流されるままにその指輪を受け取ってしまう。


 それは、金色のシンプルなデザインが施された指輪だった。


「その指輪は……私が小さい頃にお母さんから貰ったものでね。私を守ってくれるお守りのようなものなんだよ」


「母親……ですか?」


 紗季先輩の母親とは、俺も会ったことがある。その人が、紗季先輩にこの指輪を渡したということだろうか?


 だが、俺が浮かべた疑問に答えるように、先輩は言った。


「ああ……お母さんといっても、いま私と一緒に暮らしている母とは違う人だよ。お母さんは、私を生んでくれた人でね。だけど……もうこの世にはいない人なんだ……」


 先輩は自分の手をもう片方の腕を握りながら、俺に告げる。


「少しだけ、私の話をしてもいいだろうか?」


 先輩は、申し訳なさそうな視線を俺に投げかける。


 それが、俺には道端に捨てられた子猫のような、あまりにも弱弱しい姿に見えてしまった。


 俺は、何も言わずに、首を縦に動かした。


 すると、先輩は安心したかのように、ゆっくりと笑みを作った。


 そして、紗季先輩は自分の過去を俺に教えてくれた。


「私が中学生のときの話だ。あまり、裕福な家庭ではなくてね。お母さんは元々身体も弱い人なのに、無理に仕事をし続けたのが原因で肺炎を患ってしまって、そのまま亡くなってしまったんだ」


 先輩の声は、いつものように淡々としたものだった。


 だが、その声に含まれている感情は、とても悲しい色を帯びていた。


「とても暑い……夏の日だったよ……。私は学校が夏休みだったから、毎日お母さんに会いに行ってたんだけど……いつものように病室に行ったら、お医者さんたちが集まっていてね……」


 そのころの先輩は、スマホどころか携帯も所持していなかったそうだ。


 だから、お母さんの容態が急に悪化してしまったときも、先輩は何も知らずにいつものように病院へ向かっていたそうだ。


 そして、紗季先輩は言葉を交わせないまま、母親の最後を看取ることになってしまった。


「思えば、この指輪を渡してくれたときに、もうお母さんは自分の死期を予期していたんじゃないかな? 指輪を私に渡したのは、その前日だったからね」


 紗季先輩は、俺の手に乗った指輪を愛おしそうに眺める。


「私にとって、たった一人の家族だったんだ。いつも優しくて、よく私の頭を撫でてくれる人だったんだよ……。それが中学生になっても続いていたから、さすがに私も文句を言ったことがあるんだけどね」


 その温もりを思い出したかのように、先輩は照れくさそうに笑顔を浮かべる。


 きっと、先輩にとっては大切な思い出で、何より、紗季先輩が母親のことが大好きだったことがよく伝わってきた。



 ――だけど、そのお母さんは、もうこの世にはいない。



 そして、俺の手に乗っている指輪は、その大好きなお母さんの形見ということになる。


「あの、先輩……どうして、そんな大切なものを俺に渡してくれるんですか?」


 これは、紗季先輩にとっては、どんなものにも代えがたい大切な遺品のはずだ。


 それなのに、そんな大事なものを俺に渡してしまう理由が、俺には分からなかった。


 しかし、先輩は首を横に振ると、優しい声色で告げた。


「それが、私にもよく分からなくてね」


 ふふっ、とおかしそうに、先輩は笑った。


「よく分からないって……それじゃあ尚更、俺なんかに渡しちゃ駄目じゃないですか」


 思わずそう言ってしまった俺だったけど、先輩は少し考えるように唸る。


「そうだね……、あえて理由を付けるなら……私のことを、きみに知ってほしかったんだ」


 先輩はゆっくりと俺に近づいてくる。


「……えっ?」


 先輩から香る甘い香りが、どんどん強くなる。


 そして、先輩はゆっくりと、俺の身体を抱きしめてきた。


「……せ、先輩……!」


 先輩の身体は、温かくて、とても柔らかい。


 俺の身体は、鉛のように動けなくなってしまう。


「……慎太郎くん。昨日、私が言ったことを、覚えているかい?」


「昨日の……こと?」


 顔をうずめながら、紗季先輩はそんな質問を俺にしてきた。


 だが、昨日はずっと一緒にいたわけで、当然、話した内容も色々ありすぎで、先輩がどれのことを差しているのかすぐには分からなかった。


「私が……『帰りたくない』と言ったことさ」


 すると、紗季先輩のほうから、答えを教えてくれた。


「あのとき、私は本気だったんだよ。帰りたくなかったし、きみと……ずっと一緒にいたかった」


 静かな図書室で、先輩のわずかな呼吸音が、俺に耳に入って来る。


 それは、どこか熱っぽくて、官能的にさえ聞こえてしまう。


「ねえ、慎太郎くん。『白痴はくち』の物語の最後が、どんなものか知っているかい?」


「えっ……?」


 突然、話が変わってしまったことに俺は面食らってしまう。


『白痴』といえば、坂口安吾の代表作で、以前紗季先輩が読んでいた本だ。


 しかし、俺はまだ読んではいなかった為、紗季先輩から教えてもらったあらすじ以外は、何も知らないままだった。


 そして、俺の反応をみてそのことを悟ったのか、紗季先輩はその結末を自らの口で語ってくれた。


「最後はね……空襲から逃げ延びた男は、一緒に助かった女の寝顔と鼾声を聞いて『豚のようだ』と思うんだよ。そして、一緒に生きていこうと言ったはずの男は、その女を置いて逃げ出したいと思いながら、希望のない朝を迎える、という場面で話が終わるんだ」


 それは……なんとも悲しい最後……じゃないだろうか?


 もちろん、そういう作品はいくらでもあるし、俺の好きな太宰治の作品だって、終始陰鬱な雰囲気で物語が進行していくことも少なくない。


 だが、なぜ今、その話を、先輩は俺にしたのだろうか?


「私は……きみが一緒にいれくれるのなら、それでいいと思った。だけど、きみは違うかもしれない。慎太郎くん……きみは優しいから、きっと私のわがままを聞いてくれるだろう。だけど、いつか私のことを、汚らわしい存在だと、そう思う日が来るかもしれない……」


 そして、先輩は怯えるように、俺に縋り付く。


 それ以上は、何も言わずに、先輩はただただ、甘えた子供のように、俺の傍から離れない。


「私は……きみに失望されることが、怖いんだ」


 先輩の身体が、小刻みに震え始めたのが分かった。


 俺の胸の中にいる先輩が、とてもか弱い存在のように思えてしまう。


 このままだと、紗季先輩は自分の中から生まれる不安に、押しつぶされてしまうかもしれない。



「大丈夫ですよ」



 だから俺は、今の自分の気持ちを、正直に伝えようと、そう決意した。


「俺は、どんなことがあっても、先輩の味方でいます。もし、先輩がこの町から離れたいというのなら、俺も一緒に付いていきますから……」


 そして、俺は先輩の身体をそっと包み込むようにして、抱きしめた。


「俺は、どんなことがあっても、先輩の味方ですよ」



 ――それが紗季先輩が一番望んでいたことならば。



「慎太郎くん……私は…………」


 先輩の声が、脳内で反響する。


 先輩が、俺を抱きしめる力を強くする。


 俺の胸に顔をうずめて、表情を見えないようにしている。


 だけど、俺は先輩が泣いていることがすぐにわかった。


 声だって出ていないし、きっと涙だって流していない。



 ――それでも、彼女はずっと、泣いているのだ。



 こんなに、先輩の存在が小さく感じたのは初めてだった。


 触れてしまえば、すぐに壊れてしまうシャボン玉のように、儚くて脆い存在のように思えた。


 だから、俺は、先輩の頭に手のひらを乗せて、そのまま、ゆっくりと、抱きしめた。


 その瞬間、先輩の身体が一瞬だけ震えたような気がした。


 だけど、その先輩は俺の気持ちを受け入れるように、また抱きしめる力を強めた。


「……慎太郎くん」


 そして、甘えるような声で、俺の名前を呼びながら、うずめていた顔を俺に向ける。


 ずっと、大人だと思っていた先輩が、小さな子供の女の子のように見えた。


 俺は、触れている先輩の黒い髪の上から、頭をそっと撫でる。


 先輩の髪は、近くで見ると本当に綺麗だった。


「……んっ」


 先輩は少しくすぐったそうにして、時々声を漏らす。


 そして、段々と頬が赤くなっていく先輩の瞳が、水面に映る月のように蕩けていた。


 俺は、撫でていた手をそのまま下ろして、先輩の頬に乗せる。


 先輩は、また軽く息を漏らしたけれど、嫌な顔はしなかった。


 ただ、俺の顔をじっと見るだけだった。



 ――もう、自分を止めることができなかった。


 ――俺は……ゆっくりと先輩の顔を近づける。


 ――そして……。



「慎太郎……あんた……」



 その瞬間、俺の後ろから扉が開く音と共に、の声が聞こえた。


 俺は、咄嗟に音が聴こえたほうに、振り返る。


 そこには、ジャージ姿で呆然としている、みどりの姿があった。


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