第5章 2015年 8月2日

第16話 夏の少女の夢①


 8月2日。


 日曜日の昼間の時間帯ということもあって、都会の駅周辺は人の出入りが激しい。


 今の俺は大学生活を経験しているので、この人混みにもなんとか耐性はついているのだが、高校生だった当時なら間違いなく体力を削られていたところだろう。


 ただ、たとえそうだったとしても、今の俺はなんとか気力を保ち続けなければならない。


 何故なら……。


「平気かい、慎太郎しんたろうくん?」


 隣に、俺のことを気遣ってくれる女性がいるからだ。


 艶のある黒髪を揺らし、甘い香りが漂う少女。


 そして、浮かべる笑みには蠱惑的な魅力があった。


 もちろん、その人物とは、図書委員会の先輩であり、俺の先輩である黒崎くろさき紗季さき先輩だ。


 俺は本日、紗季先輩に誘われて都会の街を訪問していた。


 昨日、急遽決まった予定であり、一体図書委員としての仕事はどうするのかと思ったのだが、そこは紗季先輩が図書委員会の責任者である青野先生に連絡を取って閉館をすることにしたらしい。


 まあ、図書室を解放していたのは、殆どボランティアどころか俺たちの都合で開放していたようなものなので、日曜日に閉まっていたとしても困ることはないだろう。というか、訪れる人は多分いない。


 結局、俺たちが図書室にいる間に訪れた生徒の数なんて、両手の指どころか片手の指ですら数えられるくらいの人数だったし。


 しかし、残念ながら今の俺は、他人の心配をするような心の余裕なんてどこにも存在していない。



 ――明日は私と、デートをしてみる気はないかい?



 そんな訳で、俺は現在、先輩と絶賛デート中なのである。


 俺が知っているデートという言葉通りなら、確かに今の状況を客観的にみれば、その性質は十全に満たしているのだろうが、俺の心情としては極めて複雑で混乱を招いていた。


 だが、紗季先輩のことだ。どうせ俺をからかって、その様子を見て面白がっているに決まっている。


 ……ずっと自分にそう言い聞かせているので、いつもより脈拍が早くなっているように感じるのも気のせいだし、朝からクローゼットにある服を全部取り出して、鏡とにらみ合いをしたのも、別に特別意識したわけでもなんでもないのだ。


 だいたい、先輩だって今日はただの気晴らしのようなことがしたくて俺を誘ったに違いない。


 そうだ。きっとそうに決まっている。


 まさか、本気で俺とデートをしたかったわけじゃないだろう。


「ところで、慎太郎くん。私はまだきみから肝心なことを言って貰っていなかったね?」


 せっかく意識をそらそうとしたのに、先輩は軽い足取りで少し離れてから、俺にこう言った。


「どうだい? 初めて見た私の私服姿は?」


 にこっ、と大人っぽい表情で笑みを作る先輩。


 先輩の言う通り、今日は学校指定の制服ではなく、お互いに私服姿だった。


 紗季先輩は、夏によく似合う白いワンピースに、涼し気なサンダルを履いていた。装飾品といえば、首から何かネックレスのようなものを掛けているようだが、服の中に入っていて、見えるのは金色のチェーンの部分だけだった。


 先輩らしいシンプルなコーディネートだとは思いつつも、その透明感ある姿を直視できないのもまた事実である。


 だが、なかなか口を開かない俺に対しても、先輩はただ黙って笑顔を浮かべながら俺の言葉を待っている。


 そして、根負けしてしまった俺は、先輩に聞こえるか聞こえないかの声で、そっと呟いた。


「に……似合ってると思います」


「それだけ?」


「……凄く……綺麗です……」


「なるほど……うん、及第点にしてあげよう」


 表情を見る限り、俺の反応は本当に及第点はいただけたようで、上機嫌になっていた。


 なので、俺はこのタイミングで、ずっと頭の中にあった疑問を彼女のぶつけることにした。


「あの、先輩。今日ってなんの為に、ここに来たんですか?」


 実は、俺は今の今まで今日の目的というものを全く聞いていなかった。


 いや、それを確認せずに黙って付いてきた俺も俺なのだが、なんとなく、先輩が隠しているように感じたので聞き出せなかったのだ。


 実際、紗季先輩もずっと何も言わなかったし、行きの電車でも、この駅まで行くとだけ告げられただけだ。


「ああ、そういえば、言ってなかったけど……」


 しかし、紗季先輩は俺が指摘するまでそのことに全く気付いていなかったとでも言いたげな態度を見せて、こう告げた。


「全く予定なんてないよ」


「……はい?」


「ただ、慎太郎くんと一日一緒に過ごしてみたかったんだ」


「いや……それなら……」


 いつも図書室で会ってるじゃないですか? と言おうとしたのだが、俺は直前でその言葉を飲み込んだ。


 また、先輩の表情が一瞬だけ、失意に満ちたものになっていたからだ。


 だが、まるでそれが幻だったかのように、紗季先輩はいつもの柔和な笑みを作っていた。


「まぁ、先輩の受験勉強の息抜きに付き合わされていると思ってくれたまえ。ただ、エスコートはきみに任せるよ」


 そういって、先輩は俺との距離を一気に詰めてきた。


 そして、そっと俺の手に一瞬だけ触れた瞬間、そのまま腕を絡みつけるような動作をする。


 だが、俺の身体がその瞬間に震えてしまったせいだろう。先輩はちょっとだけ笑みを崩しながらも、腕を組まずにそのまま俺の隣に立つだけだった。


 安心したような、残念なことをしてしまったというような、複雑な心境を抱く。


 とりあえず、この炎天下の中、先輩を歩き回らせるのは紳士的ではないと思った俺は、近くの大型ショッピングモールを目指して歩き始めたのだった。


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