第15話 夏の途中と思い出の場所③
先輩を後ろに乗せて自転車で走ること、数十分。
幸い、俺と
そして、俺が先輩を連れてきた場所は、来週祭りが開催される神社からほんの少し離れた丘の上だった。
さすがに、丘の上を登るときは先輩に自転車から降りて歩いてもらったけれど、自転車の乗り心地は絶対によくなかったであろうにも関わらず、先輩はどこか満足気な顔をしていた。
丘を登った先には、この町を一望できる平地が広がっている。
随分と久しぶりに来たけれど、この場所は俺の知っている景色と何一つ変わっていなかった。
「綺麗な場所だね」
少しずつ、町が夕日に染まっていく様子眺めながら、先輩はそっと呟いた。
「……ここが、きみの行きたかった場所なのかい?」
後ろで自転車を止めていた俺に向かって、紗季先輩は俺に質問を投げかける。
夕日を浴びた先輩の表情は、いつもの白い肌とは違い、少し赤みを帯びていた。
「なんとなく、先輩に言われて一番に思い浮かんだのがここだったんです。太鼓の音で神社の近くにあるこの場所を思い出したっていうのも理由かもしれないですけど、ここ、中学の頃まではよく来てたんです」
別に、何か目的があって来るような場所ではなかったけれど、ここは人なんて殆ど誰もこないし、自分の時間を邪魔されずに過ごせる場所なので、しばらく通うようになっていた時期があった。多分、翠だって俺がここに通っていたことなんて知らないはずだ。
「……へえ、こんな場所があったんだね」
紗季先輩は、感心したようにそう言うと、目の前に広がる景色をじっと見つめていた。
そして、しばらくの間そうしていると、ふいにこんなことを囁く。
「……こうしてみると、この町は小さいね」
紗季先輩に言われて、俺ももう一度、ここから見える町を眺める。
確かに、中学生の頃に見ていた景色より、町全体が小さく見えているような気がした。
だけど、それは俺が都会での生活に慣れてしまったせいかもしれない。
「……先輩は、昔はもっと広い町に住んでいたんですか?」
なんとなく、先輩にそう質問すると、彼女は首を横に振った。
「いや、それほど変わらなかったと思うよ。ただ、こんな小さい町に、私は暮らしていたんだなって、そう思っただけさ」
耳に掛かった黒髪を手で梳きながら、紗季先輩は俺にそう告げた。
いつものミステリアスで、どこか掴みどころのない紗季先輩の雰囲気が、今はどうしようもなく不安を駆り立てる要因になってしまっているのは、俺の気のせいだろうか?
しかし、その理由が明確にできないまま、紗季先輩は新たな疑問を俺に投げかけてきた。
「
「どうして……ですか?」
なぜ、紗季先輩がそんなことを知りたいのか、正直俺には分からなかった。
だが、先輩の質問には今の俺でもはっきりと答えることができた。
「それは、もう俺がここに来る理由がなくなったからです」
「理由?」
俺の返答を聞いて首を傾げる先輩に、俺ははっきりと告げた。
「ここは、俺が一人になりたいときに来ていた場所だったからです。いや……ちょっと違いますね。誰とも会いたくないときに来ていたんです。そういうことって、先輩にはありませんか?」
「……そうだね。人間、誰でも一人になりたいときはあるものだよ」
俺は、先輩が自分の意見を肯定してくれたことに安堵しつつ、きっと、先輩自身もそうなのだろうと思った。
「でも、そういう場所は、必要なくなりました……。俺にも、居場所が出来たんです」
――きみは本が好きなのかい? それとも、人間が嫌いなのかい?
紗季先輩から告げられたその言葉は、当時の俺にとっては、自分の本質を見抜かれてしまったようで、正直怖かった。
だが、誤解がないように言えば、俺は本当に本が好きだし、今でも大好きだ。
たった一冊の本に書かれた物語は、本当には存在しない、空想の産物である。
それでも、俺はそんな本を愛し、物語を愛していて、それがまぎれもない事実であったことに間違いはない。
だが、それは表面上の真実であって、もしかしたら俺の無意識の中には、もっと別の何かが蠢いていたことも、また事実だった。
俺の人生には、自分の未来に影響を与えるような、そんな大それた出来事を実際に経験するなんてことは、これまで一度だってなかった。
それこそ、物語として語るような話など俺は実体験として持っていないし、目撃もしていない。
それなのに、俺は『他人』という存在と馴染むという行為が、いつの間にか自然とできない自分に気付いてしまった。
誰かに合わせるように会話をし、誰かの態度を確認しながら言葉を並べていく。
そういう、他人には簡単にできてしまうことが、俺にはできなかった。
だから自然と、周りにいた友達は俺から離れていったし、誰も俺のことなど相手にしなくなった。
ずっと傍にいたのは、翠くらいだけど、それはあいつが少し変わり者だから、俺なんかが相手でも、幼なじみとして、何も変わらず接してくれる。
それなのに、身勝手な俺は『孤独』を感じて、本の世界へと足を踏み入れた。
そして、俺の『孤独』と寄り添ってくれたのが、太宰治という作家の作品だった。
『人間失格』
その、タイトルにそぐわない内容と、彼自身の半生に俺は魅了されてしまった。
だけど、紗季先輩に初めて声を掛けられたとき、ようやく気付いたのだ。
俺は、人間が嫌いになってしまったから、本が好きになってしまったんじゃないかと。
それは、俺にとっては衝撃の事実であり、大好きだった本に対する裏切りのように、そう思ってしまったのだった。
「俺は、人と話すのも、人と関わることも嫌いでした。だけど、紗季先輩だけは違いました」
だけど、紗季先輩は俺を『孤独』から救ってくれた。
俺と同じ目をした少女もまた、『孤独』を背負っているように見えたから。
共依存、という言葉を思い出す。
あまり肯定的な言葉としては使われることはないけれど、多分、俺と紗季先輩の関係を表すにはぴったりな言葉だ。
「俺にとって、先輩と過ごすあの図書室での時間が、この場所と一緒なんです」
今でも俺が抱いているこの感情の正体が、自分でもよく分かっていない。
それでも、もう伝えることができないと思っていたこの気持ちを、先輩に伝えることができたような気がした。
「……そうか」
先輩の顔が夕日の光のせいで、上手く直視することができない。
「それは、私にとっては、少し誇らしいことなのかもしれないね」
――そして、夕焼けが少しずつ落ちていく中。
「慎太郎くん……」
――紗季先輩は、俺にこんなことを告げた。
「明日は、私とデートをしてみる気はないかい?」
俺がその言葉の意味を飲み込むまで、紗季先輩はずっと楽しそうに笑みを浮かべていたのだった。
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