第3章 2015年 7月25日 ~ 7月26日
第10話 二人だけの時間①
俺、
未だに『これはいつ覚める夢なのか?』と戦々恐々としているが、今はその兆候が全くと言っていいほど感じられない。
一応、目が覚めたらすぐに鏡の自分を確認したり、スマホで日付を確認することだって怠らない生活が続けているが、幸い、目が覚めると大学生の頃の俺に戻っていた、なんてことは起こっておらず、胸をなで下ろす結果になっていた。
そうして、俺は毎朝、実感するのだ。
俺は今、まだ
そして、今日も俺は学生服に着替えて、学校の図書室へと向かう。
夏休み中の登校ということで、この前とは違い、自転車を使って学校まで向かう。
理由としては、通学中に
翠のテニス部は熱心ではないと言っている割に朝の集合時間が早いらしく、鉢合わせになることもないので安心して登校できる。
さすがに、翠と偶然出会ったとして、また二人乗りがしたいと言われたところで一切の妥協なく断るつもりだけれど、押し切られたら断り切れるかどうか自信がないところが、ちょっと情けないところである。
そんなことを考えながら、俺は長い坂道を登って学校に到着したのち、校舎裏にある駐輪場に自転車を止めて、目的地へと向かった。
校舎の中は、授業がある日と違って、人もいないし全く音がしない。
そして、その無音な空間の一番端に、図書室は存在している。
俺はいつものように扉に手をかけると、「ガラガラッ」と年季を感じさせる引き戸が動く音が奏でられる。
そして、開かれた扉の先にポツンと一人、彼女は返却カウンターに設置された椅子に座っていた。
「やあ、おはよう。
まるで、俺が来るタイミングを予期していたかのように、彼女は優しく微笑み俺を迎えてくれる。
今日もまた、紗季先輩の姿を見ることができて、ほっと息を吐く。
そんな俺の様子には、おそらく気が付いていないであろう先輩は読んでいた本を閉じてカウンターの机の隅に置いた。
そして、新たに自分の鞄から参考書を取り出して、机の上に広げる。
どうやら、紗季先輩は俺が来たタイミングで読書から勉強に切り替えるらしく、ここ数日の先輩のルーティンになっていた。
紗季先輩は、必ず俺より早く図書室に来て鍵を開けてくれている。
残念ながら、図書室の鍵は先輩にしか預けられていなくて、俺は鍵を所持していない。そして、マスターキーはおそらく
なので、万が一、俺が先輩より早く来てしまったら、しばらく廊下で待っていないといけなくなるのだが、今のところそのような事態にはなっていない。
「あの、先輩って何時からここに来てるんですか?」
そういえば、先輩が何時頃から来ているのか確認していなかったので、興味本位でそう聞くと、先輩は耳に掛かった自分の髪を手ですくような仕草をしながら答えてくれた。
「だいたい八時くらいかな? 暑くなる前に家を出たいからね」
壁に掛けてある時計を見ると、今はもう九時を少し回っている時間帯だった。
「なんか……いつもすみません。鍵の管理とかも全部任せちゃって」
「構わないよ。慎太郎くんが気にすることじゃないさ」
そう言って、紗季先輩は口角をあげてくすっと笑った。
「以前から思っていたことなんだが、きみは少し相手に対して謙遜しすぎじゃないかな? もっと遠慮せずに接してくれて構わないよ。特に、私が相手ならね」
それだけ言うと、紗季先輩は俺から参考書へと視線を戻した。
これでも、先輩相手には遠慮せずに自然体のまま接しているつもりなのだが、されている側はそういう風には思っていないらしい。
なので、少しばかり反論しようかと思ったのだが、先輩はこの話題に関してはもう締め切ったみたいで、今はペンを走らせることに集中しているようだ。
勉強の邪魔をするのも悪いので、俺も先輩の隣に座って鞄から夏休みの課題の教材を机に並べた。
ただ、図書委員としての確認事項は怠らない。
「先輩、ちなみに今日って誰か来ましたか?」
「今日はまだ誰も来ていないね。もしかしたら、昼頃には誰か来るかもしれないけど」
一応、ざっと図書室を見てみたが、紗季先輩の言ったことに嘘はなく、生徒の姿はどこにもなかった。
そして、隣に座る紗季先輩の横顔を眺めながら、つい考え込んでしまう。
この数日間、先輩に変わった様子は見受けられなかった。
毎日この図書室で過ごし、閉館の時間が来れば別れるだけという、ありきたりな生活を送っていた。
紗季先輩も、終業式以降、あのとき発したような意味深なことは何も言わないし、今だって普通に勉学に取り組んでいる。
こうしてみると、紗季先輩は普通の受験を控えた三年生、といったところだ。
少しそのことについても気になって聞いてみたのだが、先輩は大学からは家を出て都心の大学を受験するらしい。
しかも、驚いたことに、先輩の志望校は俺が通っていた大学と一緒だった。
だから、先輩が受験に合格すれば、本当は大学でも紗季先輩と一緒だったということになる。
もしかしたら、そんな未来も可能性として存在していたのかもしれない。
「……どうしたんだい、慎太郎くん?」
「えっ、な、なんですか?」
「いや、さっきから私の顔を気にしているようだったからね。何かあったのかと思って……おや?」
と、そこで今度は紗季先輩が俺の広げている課題に目をやっていた。
「慎太郎くん、ここの数式、間違ってるよ?」
「えっ? そう、なんですか……?」
どうやら俺のやっていた課題にミスがあったらしい。
一応、俺の頭は大学四年までの知識が詰め込まれているはずなのだが、そのアドバンテージはあまり活かされていないらしい。
というか、むしろ受験の頃の知識なんて今じゃあ殆ど残っていないので、もしかしたら今の俺は当時の高校二年生だった俺より知識が劣っているかもしれない。
その証拠に、課題を進めるたびに悪戦苦闘し、最後には解いた問題に赤ペンでバツを付けるという空しい作業を繰り返していた。
「ああ、この問題で使う数式は……って、口で説明するよりも書いたほうがいいね。ちょっと失礼するよ」
そういうと、紗季先輩は自分の机ごと俺に近づいてきて腰を据えた。
その結果、俺の肩と先輩の肩が触れ、すぐそこに先輩の顔が見える距離まで縮まってしまう。
先輩からは、花の蜜のような甘い香りがして、俺の心拍数が急上昇する。
「これはこの数式を使うんだ。そうしたら、このαに当てはまる数字がすぐに出てくるだろ? だから、そのあとは公式通りに――」
先輩は俺がそんなことを意識してことも知らず、いつも通りに話しかけてくる。
だが、心なしか先輩が話すにつれて、身体が密着する面積が多くなっているような気がする。
今は夏で、当然先輩はブレザーなどを羽織っておらず夏服のカッターシャツ姿なので、先輩の柔らかい肌が、まるでダイレクトに俺の肌と触れ合っているようだった。。
「――という感じだね? わかったかい?」
「え!? ええ……なんとなく……」
正直、それどころではなかったので全然頭に入らなかったのだが、せっかく教えてもらっているのに聞いていなかった、とは答えられない。
「こらこら、なんとなくじゃあ駄目だよ。こういうのは基本をきっちりと覚えておかないと」
そして、紗季先輩は顎に自分のシャーペンをコンコンっと叩くと何かを閃いたように、いたずらな笑みを浮かべてこう告げた。
「よし、今日は私がきみの先生になろうじゃないか」
そういうと、紗季先輩はますます俺に身体を預けるようにして距離を縮めてきた。
「あ、あの……先輩!」
「ん? なんだい?」
「その……先輩が勉強できなくなっちゃうのは、マズい気がするんですが……」
本当はもっと別の理由だったのが、この状況を改善したかった俺はとっさに言い訳を口にした。
「そんなことはないさ。人に教えるのも立派な勉強方法の一つだからね。それとも、私が先生じゃあ、慎太郎くんは嫌なのかい?」
しかし、紗季先輩は全く意に返さず俺にそう告げた。
「いえ、そんなつもりで言ったわけじゃあ……」
「だったら、遠慮することはないさ。それに、さっきも言ったことだが、きみはもう少し人に甘えることを覚えたほうがいい。特に、私が相手ならね」
そして、くすっと上目遣いで笑う先輩は、年上のはずなのに、可憐な少女のように魅力的な笑顔を浮かべていた。
いや、俺の体感ではもう先輩だって年下なんだ。
それなのに、俺はやっぱりこの人が大人の女性の姿に見えてしまうのだった。
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