第9話 夏の始まり⑤


 その後、紗季さき先輩は職員室に行って事情を話し、夏休み中の図書室の開放を許可してもらった。図書委員の担当をしている青野あおの先生は、かなり昔から賀郭がかく第一だいいち高校の教壇に立っている先生で、今年で六十歳を迎える現国の先生だ。


 らしい、という曖昧な表現をしているのは、俺が青野先生とそれほど接点を持っていないからだ。


 会話を交わしたのも、最初に紗季先輩と一緒に職員室まで行って挨拶をしたときくらいだし、そのときも眼鏡をかけてポロシャツに紺色のズボンを履いた地味な先生という感じで、俺に対しても「宜しく頼むね」と言っただけで、それ以降は委員会の仕事についてなど業務的な内容しか話さなかった。


 そして、紗季先輩がいなくなったときも、図書委員の仕事をしなくなった俺に何も言うことはなく、そのまま俺はほとんど先生と交流がないまま卒業してしまった。


 それが教師という立場上、良かったことなのか悪いことだったのかは、俺がとやかく言う資格なんてないけれど、少なくともあのときの俺を放置してくれていたことは、正解だったと思う。


 あのときの俺は、誰とも言葉を交わしたくなかったし、誰とも人間関係を築きたいとも思っていなかった。


 唯一、翠だけがしつこく俺に絡んできたけれど、それ以外の人たちは、卒業したあとはきっと俺のことなんて忘れてしまっていることだろう。


 そして、学校からの帰り道で紗季先輩と別れ、こうして自宅に帰って来てからも、クーラーの効いた自室のベッドの上に制服姿のまま寝転がってあれこれと余計なことを思い出してしまっている。


 いや、決して青野先生との記憶が余計な事と言ったわけではなくて、今重要なのは二つの事柄で、解決しなくてはいけない問題をあげるとするならば、以下の項目だ。



① どうして俺は、先輩がいなくなってしまった2015年の夏にいるのか?

② 俺は今後、どのような行動を取ればいいのか?



 この二つのことについて、俺はじっくりと考えなくてはいけない。


 まず、①の問題だが、はっきり言って、全然検討すらつかない。まさか、こんなSF要素満載の事象に自分が直面するとは思ってなかったので、はっきり言って知識はほぼゼロだ。


 せいぜい、子供の頃はよく『ドラえもん』を視聴していた程度で、読書をそれなりに嗜んではいるものの、SF小説というのはあまり手を出していないジャンルだった。


 苦し紛れにネットで時間遡行についても調べようとしたが、あくまで現在の科学では机上の空論であって、出てくるのは殆ど掲示板のネタ要素満載のオカルト記事だ。


 もちろん、俺が昨日までいた2020年という時代でもそこまで研究が進んでいたとは思えないし、俺は机の引き出しからネコ型ロボットが出てきて、この時代に連れてこられたわけでも、デロリアンに乗ってきたわけでもない。


 第一、今述べた方法で俺がこの2015年に来たのだとすれば、俺は大学生の頃の姿をしていないとおかしい。


「えっと、こういうのはタイムトラベル……じゃなくて、タイムリープって言うんだっけ?」


 先ほど見た掲示板では、確かそのようなことが書かれていた気がする。


 それほど役に立つ情報は見つからなかった、なんて言ってしまったが、こうして頭で整理していくと、意外と役に立っているのかもしれない。



 そうなると、ここで②の問題も同時に生じてくる。



 果たして、俺はこの時代にいつまでいられるのだろうか、ということだ?


 よくタイムスリップもので禁忌とされているのは「もう一人の自分と出会ってはいけない」というものだ。


 だが、その点は心配しなくていい。


 今の俺が、2015年の俺自身だからだ。


 そして、もちろん2020年の俺だって、まだこの世界には存在していない。もしかしたら、その頃の俺は、まだクーラーの効いていない自室で熱帯夜と戦いながら暢気に就寝しているかもしれない。


「ん、待てよ。確か……」


 昨晩(俺にとっては昨晩だ)のことを思い出して、ふと蘇ってくる記憶があった。


 あのとき、俺は親戚の叔父さんたちに絡まれるのが嫌だから、シャワーを浴びるのをためらって、大学から出されている課題のレポートに手を付けようとした。


 しかし、その過程で、たまたま本棚に並べてあった本を見つけて……。


「そうだ! あの栞……!!」


 今まで、どうして忘れてしまっていたのか不思議なくらい、そのときの記憶が鮮明に蘇ってくる。


『人間失格』に挟まれていた、白い花が描かれていた栞。


 俺は、自分の棚に視線を向けて『人間失格』の文庫本を探すが、昨晩まであったその場所には、ちょうど文庫分一冊が入るような隙間ができていた。


 まさか、栞が文庫本ごと消えてしまったのか? なんて一瞬頭に過ぎったが、そうではないことに気が付いた。


 俺はすぐにベッドの近くに乱暴に放り投げていた鞄の中を確認する。


「あった……」


 そして、目的の物はすぐに見つかった。


 俺は、取り出した『人間失格』の文庫本の表紙を眺める。


 このときから、もう既に印刷紙が色あせていて、昨晩見た時と状態はほとんど変わっていないように見えた。


 俺は、すぐにページを捲り始める。


 パラパラと乾いた音が鳴る中、俺は目を凝らして確認したのだが……。


「……ない」


 文庫本の中に、目的の栞は挟まれていなかった。


 念のため、鞄の中身を全部取り出して調べてみたが、結果は同じであった。


「じゃあ、まだあの栞は挟まっていない時期ってことか……?」


 ただ、俺はその栞を挟んだ人物に心当たりがあった。


「あの栞に書いていた文字……やっぱり紗季先輩の字に似てた気がする……」


 そう、最初にあの栞を見た時は気付かなかったが、今日一緒に図書委員の仕事をしていたときに気付いたのだが、あの栞に書いてあった文字が、紗季先輩の文字とそっくりだったのだ。


 それに、普段から文庫本を持ち歩いているので、俺に気付かれずに本を栞に挟めるとすれば紗季先輩が一番その行為を実行しやすい人物でもある。


 例えば、俺が別の仕事をやっているときに、こっそり鞄から文庫本を取り出して、例の栞を挟むだけでいい。これなら、俺が知らない間に栞が挟まれていたことにも説明がつく。


 だが、もしそうだと仮定するなら、決定的な矛盾が発生してしまう。


 それは、今この瞬間に、あの栞が本の中に挟まれていなければおかしい。


 なぜなら、本来ならば今日が俺と先輩の会う最後の日だからだ。


 昔の俺の記憶に齟齬がなければ、もう先輩が俺の本に栞を挟む機会はなかった。強引な推理として、先輩が俺の家に侵入して本を奪い、栞を挟んで置いておいた、なんてことも理屈上は可能だろうが、そんな手間を取る人物ではないし、全く持って現実的じゃない。


 なので、やはり本来の時間軸であの栞を挟んだのが紗季先輩だとすると、既に過去の事例がほんの少しだけ変化したのではないだろうか?


 ただ、そう推理すると同時に、何故俺は、その栞の存在にもっと早く気づけなかったのかと、後悔が押し寄せてくる。


 自分のお気に入りの本だからといって、常に読んでいるという訳ではない。


 特に、この時期の夏休み中は、一人で自由気ままに過ごせる時間が多かったので、新しく買ってきた本などに手を伸ばしていたこともあって『人間失格』を読む機会がないまま、夏休みを終えてしまった気がする。


 そして、紗季先輩がいなくなってからは、本を全く読まなくなってしまった。


 太宰の作品だけでなく、本に触れようとするたびに思い出すのは、紗季先輩のことを思い出してしまうからだ。


 だから、俺は自分から紗季先輩の存在を遠ざけるように、部屋の棚に『人間失格』を置いたままにしてあった。



 ――もし、あのメッセージが紗季先輩からのもので、俺があの栞に気付いていれば、紗季先輩がどこかに消えてしまうことはなかったのだろうか?



 夏祭りの日。

 私はずっと、きみを待っています。



 俺がそのメッセージ通りに、夏祭りの日に紗季先輩を迎えに行っていれば、どうなっていたのだろうか?



 ――夏祭りの日、先輩は俺を本当に待ってくれていたのだとしたら。



 そう考えると、悔やんでも悔やみきれない後悔が俺を襲ってきた。


「先輩が消えたのは……俺が来なかったからかも知れないってことじゃねえのか……」


 もし、本当にあのメッセージを書いたのが先輩なのだとすれば、紗季先輩は夏祭りまでこの町にいる意思があったということになる。



 ――俺のせいで、もしかしたら先輩は……。



「あら、慎太郎。あんた、帰って来てたの?」


 いきなり扉が開いたと思ったら、掃除機を持った母が堂々と部屋に入ってきた。


 俺が帰ってきたときは留守だったので、商店街に買い物でも行っているのだと特に気にしてはいなかったのだが、どうやら俺が気付かない間に母も帰宅していたらしい。


「悪いけど下のリビングに行っててくれない。そうだ、冷蔵庫にスイカがあるから食べてていいわよ」


 それだけ言うと、母は掃除機のコードを引っ張り出していた。


「なぁ、母さん」


「なに?」


「……今年の夏祭りって、いつだっけ?」


「夏祭り? えっと、確か八月九日だったかしら?」


 母はそう答えると、今度は眉間に眉を寄せながら俺に尋ねてくる。


「あんたが夏祭りの日を気にするなんて珍しいわね。最近は全然行ってないくせに」


「別に、ちょっと気になっただけだよ」


「そう。昔はよく友達と行ってたのに、中学になってから全然行かなくなったものね。せっかくなら、翠ちゃんを誘って行ってきたらどう?」


「いや、なんで翠が出てくるんだよ?」


「だって、あんたと仲良くしてくれてるのなんて、今は翠ちゃんだけでしょ?」


 何気に酷いことを言われたような気がするが、事実なので反論することができなかった。


「まぁ、もう行ったんだけどな……」


「うん? いま何か言った?」


「いいや、別に」


「そう、だったら少しだけ部屋を空けて頂戴」


 そう言われて、俺は母に追い出される形で部屋から出て行った。


 そして、一階に降りて居間の縁側を見ると、朝にはなかった風鈴が付けられていた。


 かすかに流れる風に反応して「チリン、チリン」と涼しい音色を奏でる。


 まるで、夏が始まったことを、俺に伝えているようだった。


 どうして、俺がこの時代に戻ってこられたのか、それは全く分からないけれど、やるべきことは一つしかない。



 黒崎紗季が、この夏に消えないようにしなくてはいけない。



 俺の嫌いな夏が、始まろうとしていた。




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