第8話 夏の始まり④
体育館で行われた終業式が終わり、教室に戻って担任の先生から夏休みの注意事項が伝えられる。
「それじゃあ、みんな。あまり休みだからってはしゃがないようにね。特に、賀郭神社のお祭りでは問題を起こさないようにしてね」
そう言って、先生は日直に最後の挨拶を指示したのち、教室を退出する。
同時に、教室には喧騒が渦巻き「よっしゃー! 夏休みだぜ!」という男子生徒の叫びに笑いが生じた。そして、皆それぞれが友達に声を掛け合って教室を後にしていく。
俺も、自分の鞄を持って教室を出ようとしたときだった。
「ねえ、
席を立った俺の前に、
あの団子髪の女子生徒はおらず、翠一人だ。
「また、
そして、なんの前置きもなく、翠はそう俺に問いかけてきた。
「……行くけど、なんでそんなこと、お前が聞くんだよ」
だが、翠がどうしてそんなことを聞きたいのか理由が分からず、やや不貞腐れた声色で質問を投げかけてしまった。
「……別に、ちょっと気になっただけだから」
それだけいうと、翠は俺から逃げるようにして立ち去ってしまった。
……一体、なんだったんだ?
気にはなったものの、俺が考えても仕方のないことだ。
俺は、紗季先輩との約束通り、図書室に向かう。
その間も、翠の態度は気になったものの、俺が優先すべきことは何より紗季先輩のことだ。
あの人が、図書室で待っているというのなら、俺はそれにただ従うだけなのだ。
そして、図書室前に到着して扉を開くと、汗をかいていた身体に冷たい風がぶつかってきた。
先ほど、この学校には冷房機器が設置されていないと言ったが、例外があり、クーラーが設置されている部屋が二つだけ存在する。
それは、職員室と、いま俺が向かっている図書室で、図書委員である俺はその恩恵を存分に活用させてもらっていた。
そして、扉を開けたと同時に、クーラーの風だけでなく、懐かしい本の匂いが鼻腔を刺激する。
俺にとって、このインクと紙の匂いが、唯一心休まる空間だった。
「……本当に、静かだよな」
蔵書が並ぶ本棚に囲まれたこの部屋を、俺は一瞥する。
あれだけいた校舎の生徒たちが、ここには誰もいないというのも考えてみれば不思議なものだ。
若者の読書離れ、という言葉はこの頃から……というより、随分と前から囁かれていたものだが、それが可視化されているような光景である。
まぁ、図書館を利用している学生たちの殆どは、自習場所として使っており、おそらくこの時期は期末テストが終わっているので、わざわざそのあとも勉強しようと考える殊勝な人間もいなくて当然だ。それに、受験生である三年生は、この町から電車で通える塾を利用しているはずだ。
なので、この図書館にいて聞こえてくるのは、涼しい風を提供してくれるクーラーの駆動音と、グラウンドから聞こえてくる運動部の元気な掛け声だけだ。
そして、その図書室の先には、本を借りるためのカウンターがある。
――そこに、一人の女子生徒が着席していた。
透き通るような白い肌に、綺麗に輝く長い黒髪が、存在感をさらに助長させる。
俺が来たというのに、彼女は自分が持っている文庫本に視線を落としていた。
その姿を見て、またしても俺の胸の鼓動が早鐘を打つ。
窓から差し込む光の情景もあってか、彼女がとても神秘的なものに見えてしまった。
何度も見てきた光景だというのに、自然と瞼が熱くなる。
それでも、俺はゆっくりと呼吸を整えてから、普段通りに、彼女の名前を呼んだ。
「
すると、今まで微動だにしなかった紗季先輩が、ゆっくりと顔を上げる。
そして、俺の顔を見た瞬間に、ゆっくりとほほ笑んで口を動かした。
「こんにちは、慎太郎くん」
本当に、何でもないただの挨拶のやり取りだけど、俺はこの時の……紗季先輩が挨拶をしてくれる顔が、一番好きだった。
もう、過去形でしか語ることができなかったはずの俺の感情が、再び形となって身体中を駆け巡った。
だけど、僕はそんな感情を読み取られないようにしようと、誤魔化すように話題を振ることにした。
「先輩、なに読んでたんですか?」
「これかい?
そういうと、彼女は俺に表紙を見せるようにして差し出してきた。
確かに、その文庫本の表紙には、題名として『斜陽』と書かれていた。
表紙が少し傷んでいるのは、この図書室にあったものを拝借したんだと思う。
「もちろん、きみは読んだことがあるだろう?」
「……ええ」
『斜陽』といえば、太宰の作品として『人間失格』や『走れメロス』と同様に、読んだことがない人でも一度くらいは題名を聞いたことがある作品だと思う。
主人公、かず子の人生を綴った物語であり、時代に奔走され、没落していく華族の様子が描かれている作品だ。
すると、先輩は本の表紙をじっと見つめ、優しい手つきでその本を触りながら呟いた。
「『人間は、恋と革命のために生れて来たのだ』か……。いい言葉だけど、今の私たちにとっては、あまりピンと来ない台詞でもあるよね」
「そう……かもしれませんね」
紗季先輩が言った台詞は『斜陽』から引用してきたものだ。
『人間は、恋と革命のために生れて来たのだ』
紗季先輩は、どうやらこの言葉に共感を得ていないらしい。
かくゆう俺も、『恋』や『革命』などと大それたことを経験したことはないので、紗季先輩の意見に賛成の意を述べた。
「そっか。やっぱり、私と慎太郎くんは似ているのかもしれないね」
紗季先輩は、俺の返答に満足したように、柔和な笑みを浮かべたままそう呟いて持っていた文庫本をそっと返却カウンターの机に置いた。
ただ、その顔に少し翳りがあったように見えたのは、俺の気のせいだろうか?
しかし、紗季先輩はすぐにいつもの含みのある笑みを浮かべながら、隣の空いている椅子を手で示した。
「さて、私の話はここまでにして、今後の図書委員の活動について伝えたいことがあるから慎太郎くんも席についてくれたまえ。ただ、返却カウンターを空けるわけにはいかないから、いつものようにここで話すことになるけどね」
そう言われて、俺は紗季先輩の指示にしたがって、彼女の隣の席に腰を下ろす。
紗季先輩の言うように、いつも俺はここで彼女の隣に座って時間を過ごしていた。
――その何もない時間が、俺にとってはかけがえのない時間だったことに気付いたのは、その時間を失ってしまってからだった。
「それじゃあ、早速、夏休みの間の話をさせてもらうけれど、この期間中は図書室を閉めようと思っていてね。去年は私と慎太郎くんの当番制で開放していたけれど、結果的にはあまり人も来なかったし、夏休みの間は閉鎖という形で先生と話をつけてきたんだ」
淡々と、紗季先輩は話を進めていく。
「悲しいけれど、この図書室を利用する生徒はもう殆どいないみたいでね。もしかしたら、私や慎太郎くんが卒業してしまうと、図書委員という役割もなくなってしまうかもしれないね」
――俺は、この話を聞くのは、これで二回目だった。
「とまぁ、おおむねこんな感じだよ。いま貸出されている本も、返却BOXを置いておくことにしたから、私たちの仕事は、今日の受付が終われば完了だよ」
俺を覗き込むようにして、紗季先輩はそう告げる。
整った顔立ちと、近くにいれば感じる先輩の雰囲気は、いつも俺の思考を困惑させる。
だけど、俺はずっと、この不思議な感覚が、どこか落ち着いて、ずっと彼女の傍にいたいと思っていたことを思い出す。
「私からの話は以上だよ。他に何か聞きておきたいことはないかい?」
――そう言われたところで、俺はあの時、何も返事をしなかったはずだ。
このときの俺の心には、夏休みの間、もう先輩に会えなくなってしまうことに少なからず気持ちが沈んでしまっていたのだ。
だが、俺も先輩も、ただ同じ図書委員であるという理由だけで繋がっているような間柄で、それ以上の関係性を育んではいなかったし、そうなろうとも思ってもいなかった。
きっと、紗季先輩だって同じなのだろう。
俺に声をかけてきたのも、おそらく紗季先輩にとってはただのきまぐれで、今どき図書室に通う生徒のことが少し気になった程度だったのだろう。
だから、俺にとっての紗季先輩の存在と、紗季先輩にとっての俺の存在には、大きな差異が生まれているに違いない。
「じゃあ、これが今日一日の私たちの最後の仕事だ。頑張りたまえ」
そういって、紗季先輩は先ほど置いた『斜陽』の文庫本を手に取ろうとする。
だが、文庫本に触れたところで、先輩は図書室の窓から差し込む光を見ながら、そっと呟く。
「慎太郎くんは、夏が嫌いになったことはないかい?」
唐突に、彼女が俺にそう尋ねてきた。
綺麗に伸びた清涼感のある黒色の髪。
日差しを浴びた形跡がどこにもないような白い肌。
そして、制服の袖からは女性らしい細い腕が伸びていて、その爪先はネイルなどをしておらず自然な光を反射させていた。
――同じだ。
――俺があの日、紗季先輩から聞いたことと全く同じ質問。
「私はね、ずっと夏が嫌いなんだよ」
さも当たり前のように、自然な口調でそう告げる彼女。
――あの日、俺はただ、黙って彼女の言葉を聞くだけしかできなった。
「だから、もし私が願いを一つだけ叶えるのだとしたら、二度と夏が来ないようにしてほしいって神様に頼むつもりでね。なかなかいいアイディアだと思うんだけど、もし慎太郎くんが夏が好きだったら悪い事をしちゃうことになるからね。先に謝っておこうと思ったんだ」
――やはり、彼女の言っていることは、俺には理解できなかった。
――そして、視線を向ける俺に向かって、彼女は微笑を浮かべながら、こう告げるのだ。
「それとも、私が消えてしまえばいいのか……」
――それは、酷く悲しく、そして何かを諦めているような、そんな声色。
――俺はこの日、紗季先輩の言っていることを理解しようとしなかった。
――そうして、俺たちは二度と会えなくなった。
――本当に、彼女は消えてしまったから。
――だから、俺は――。
「俺も……嫌いです」
咄嗟のことで、その言葉を発したのが自分だということに気付かなったくらいだった。
でも、その台詞は間違いなく、俺が言った言葉だった。
「俺も……夏が嫌いなんです……」
「……そっか」
紗季先輩はいつもの調子で返事をすると、笑みを浮かべながらこう尋ねてきた。
「それがどうしてなのか、聞いてもいいかい?」
純粋な興味からだったのか、それとも、ただ単に話を続けるために言ってくれたのかは分からない。
それでも、俺は正直に、先輩に話したのだった。
「夏が来ると、俺の大切だった人のことを思い出すんです……」
夏が来るたびに、俺は胸が痛くなって、上手く呼吸ができないような感覚に襲われてしまう。
だから、俺は夏が嫌いだ。
――消えてしまった紗季先輩のことを、ずっと忘れられないでいたから。
「だから、先輩も消えたいなんて言わないでください」
こんなことを言うつもりなんて毛頭なかったのに、気が付いたら俺は真剣な表情で紗季先輩を見つめていた。
「……慎太郎くん」
そして、口を開いた彼女は僕にこう告げた。
「近い」
そう言われて、俺は初めて自分が前のめりになって先輩に話しかけていたことに気が付いた。
「あっ! えっと、すみません!!」
俺は自分の失態に気が付いて、慌てて先輩の傍から離れようとする。
「わっ、わあああっ!」
だが、それがマズかった。
勢いあまって着地した自分の椅子が、そのまま見事に後ろに倒れてしまい、俺は全身でその衝撃を受けるはめになってしまった。
「い、いってー……」
頭への強打は免れたものの、先輩の前で実に情けない失態を晒してしまった。
「……ふふっ」
「……先輩?」
だが、起き上がって紗季先輩のほうに視線を向けると、彼女はお腹を抱えながら、必死に何かを我慢しているように顔を歪めていた。
「……ふふっ、あははははは!」
しかし、その我慢にも限界が来たようで、紗季先輩は大声をあげて笑い始めた。
俺は、そんな無邪気に笑う先輩を見るのが初めてで、最初はただ茫然とその姿を眺めているだけだった。
だけど、あまりにも紗季先輩が可笑しそうに笑うので、段々と自分も恥ずかしくなってきてしまい、反抗するような声を上げてしまう。
「わ、笑いすぎですよ先輩ッ!」
「ごめんっ……! でも、おかしくって……あははっ!」
いつもは凛としていて、大人びた印象を受けていたけれど、今の先輩は本当に小さな子どものように笑っていて、俺にとっては不思議な感覚を与えるものだった。
「……あー、こんなに笑ったのは久しぶりだよ」
そう言いながら、紗季先輩は笑いすぎて目に溜まっていた涙を拭うと、今度は先ほどまでとは違う、いつもの先輩らしい少し口角を上げただけの笑いで、僕に告げた。
「ありがとう、慎太郎くん」
そして、彼女は独り言を呟くように話す。
「大切な人、か」
「……はい?」
急にそんなことを言うので、俺が反応に困っていると、その様子をみて悟ったのか紗季先輩は、俺に告げた。
「さっき、慎太郎くんが言っただろ? 大切な人がいるって。慎太郎くんにも、そういう人がいたんだね。ちょっと意外だったよ」
それは決して、俺を貶しているとか、そういう類にものじゃなくて、本当に言葉通りの意味なんだと思った。
そして、紗季先輩は俺から視線を外して、また寂しそうに呟いた。
「……羨ましいな」
「……えっ?」
羨ましい、という言葉の意味が分からなくて、俺が紗季先輩に問い返す。
「……いや、なんでもないよ。変なことを言っちゃったね。今のは忘れてくれたまえ」
そう言った彼女は、いつも浮かべる余裕のある笑みではなく、本当に失言だったと、僕に気を遣うような笑みをしていた。
「…………」
だが、紗季先輩はまだ何か言いたそうに、じっと下を向いていた。
そして、数秒間の静寂のうち、彼女は俺に告げる。
「慎太郎くん、この夏休みの間だけでいいから、私のお願いを聞いてくれるかな?」
いつもとは違う、上目遣いでそう尋ねてくる紗季先輩の仕草に、思わず心臓が跳ねてしまう。
まるでおねだりをする子供のようなその態度に戸惑っていると、紗季先輩は含みのある笑みを浮かべながら、こう告げた。
「さっき、図書室を閉めるって話をしていたけど、やっぱり開放できるかどうか聞いてみるよ。誰も利用する人がいないかもしれないけれど、私たちまで来なくなっちゃったら、本たちも可哀想だからね」
もちろん、慎太郎くんが良ければだけどね、と最後に付け加える紗季先輩。
……こんな展開、俺が知っている記憶では存在しなかった。
夏休み中は図書室が閉鎖することを知らされて、書庫の整理をしたのちに紗季先輩と別れることになっただけだった。
そして、それが俺にとって、紗季先輩と過ごす最後の一日になったはずだ。
「……慎太郎くん、やっぱり嫌かい?」
なかなか返事をしない俺に対して、紗季先輩は不安そうな目で俺を見つめる。
「いや、さっきから上の空だったみたいだからね。もしかしたら、夏休みには何か予定があったのかい?」
色々と考えを巡らせてしまっていたせいで、どうやら、紗季先輩にも分かってしまうくらい、俺は動揺してしまっていたらしい。
「いえ、そういう訳じゃないです!」
「本当かい? 図書室の開放となると、慎太郎くんにも当番を手伝って貰わないといけなくなるから、私に遠慮せずに嫌なことは嫌だと言ってくれて構わないのだよ?」
「そんなことありません。手伝いなんて、いくらでもしますよ」
「そうかい? それならいいんだが……」
「ただ、俺からも条件があるんですけど、いいですか?」
「条件?」
そして、首を傾げる先輩に対して、俺はある条件を提示する。
「俺も……ずっと一緒に居ていいですか?」
俺は、座っていた椅子から立ち上がって、もう一度、紗季先輩に向かって告げる。
「この夏は、俺もずっと、先輩と一緒にいたいんです」
先輩が消えたのは、この夏の出来事だった。
ならば、その間、先輩の傍にいれば、先輩が消えることはないはずだ。
「それが……俺からの条件です」
じっと見つめる先輩の瞳の中には、高校生の自分が映っていた。
もう二度と、戻れない時間だと思っていた。
だけど、今の俺は、確かにここにいて、先輩と同じ時間を過ごしている。
どんな原理で、俺がここにいるのかなんて、知ったことじゃない。
俺の行動で、未来を変えられるかもしれない。
「慎太郎くん……」
そして、俺の台詞を聞いた先輩は、ぽつりと呟く。
「それは無理だと思うよ? さすがに……図書室で宿泊することはできないだろうし……」
「……はい?」
「いや、慎太郎くんの気持ちは嬉しいのだけど……『ずっと一緒』というのはどうもね……。家に帰らなければ、きみの親御さんも心配するんじゃないかな?」
真剣にそう告げる彼女に、思わず俺は全身の力が抜けてしまう。
「……あの、先輩? 俺が言ってるのは例えであってですね。本当に四六時中一緒にいたいってわけじゃないです」
「ああ、なるほど」
紗季先輩は、本当に今やっと理解できたといわんばかりに、ぽんっと手を叩いた。
ああ、そういえば、この人はこういうところで天然だったな、と思い出す。
――だから、きっと俺が図書委員に入った理由だって、きっと分かっていないのだろう。
まぁ、今はそんなことはどうでもいい。
俺は先輩にもちゃんと誤解されないように説明を付け加える。
「えっと、つまり、図書室の開放は去年みたいな当番制じゃなくて、二人で一緒にやりませんか? ってことなんです。その方が仕事もしやすいと思いますし……」
自分で言ってしまってから気が付いたが、そもそもうちの図書委員はどの委員会活動と照らし合わせても、ぶっちぎりで暇な委員会だ。
そして、ただでさえ暇なのに、夏休み期間ともなれば、もっと仕事の量は減るだろう。
だからこそ、紗季先輩も最初は図書室の閉鎖を提案したのだし、先生もそれを許可したのだろう。
なので、俺の意見は全く合理的ではない。
「ああ、そうだね。慎太郎くんの言う通りだ」
しかし、紗季先輩は俺の返答に納得した様子を見せて、笑みを浮かべた。
「それじゃあ、夏休みもよろしく頼むよ、慎太郎くん」
そう告げた彼女の笑顔は、どうしようもなく綺麗で、やっぱり俺は今、夢を見ているんじゃないかと疑ってしまったのだった。
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