第6話 夏の始まり②


 結局、俺は母から半ば強制的に朝食を摂ることになり、まだ整理のつかない頭を抱えながら家を後にした。


 俺の感覚では、ずいぶんと久しぶりの学生服だったので、なんとも言えない気持ちになった。


 やはり、今の俺は高校二年生の頃の俺ということになるらしい。


 そして、外に出ると、朝だというのに直射日光を浴びた瞬間、一気に汗が全身から噴き出してくる。俺も覚えていなかったが、二〇一五年の日本の夏もかなり暑かったようだ。


「この感覚……ぜってー夢じゃねえよな……」


 見慣れた風景を歩きながら、俺はこれが決して夢ではないことを実感しつつあった。


 都会とは違って家と家の間に距離があって、無駄に高低差がある整備されていない道を歩くこの感覚。



 俺は本当に五年前の世界に戻って来てしまったのか?

 でも、だとしたら一体どうして……。



 これがSF映画なら、何かの実験に巻き込まれて過去にタイムスリップした、なんてことになるのだろうが、俺は昨日の夜も至って普通に過ごしていた。


 原因が分かれば、俺は元の時間軸に戻ることができるのかもしれないが、生憎全く身に覚えがない。


 そういえば、昨日は確か、変な夢を見て……。



「――い、こらー! 慎太郎しんたろう~!!」


「いてっ!!」


 必死に考えようとした俺の脳天に、いきなり激痛が走った。


 その衝撃に思わず膝を折ってしまった俺に対して、頭上から声をかける人物はそんなことはお構いなしに話しかけてくる。


「ちょっと。なんで無視するのよ? さっきからずっと呼んでたんだけど」


 その人物はかなりご立腹なのか、言葉の端々に苛立ちがこもっていた。


 俺は、涙目になっていることも隠さず、その声の人物を確認してみると――。



「えっ? みどり……なのか?」



 そこには、俺の幼なじみの水菜みなみどりが学生鞄を持ちながら俺を見ていた。


「……何よ、その顔。そんなに痛くしてないでしょ?」


 翠は俺のリアクションが不満だったのか、鋭い目つきで俺を睨んできていて、今持っている学生鞄で俺の頭を叩いたことはすぐに分かった。


 だが、俺が驚きのあまり固まってしまったのは、学生鞄で叩かれたからではなく、翠の姿が高校生のときのままだったからだ。



 白いセーラー服に、黒髪を結わえただけのシンプルな髪型。

 肌の色も少し焼けていて健康的に見える。



 だが、よく考えたらそれは当たり前のことで、ここが二〇一五年なら幼なじみの翠だって、俺と同じように高校二年生の姿をしていて当然だ。


 ただ、頭で分かっていることでも、こうして目の前に現れると動揺を隠しきれなかった。


「ってか、ホントに大丈夫なの?」


 今度は、やや心配そうな声色で話しかけてくる翠。さっきまで寄っていた眉間の皺はなくなって複雑そうな表情をしていた。


「……ああ、大丈夫。なんともねえから」


 殴られはしたものの、これ以上翠に心配をかけるのは悪い気がしたので俺は立ち上がってなんともないことをアピールする。


「そう。全く、心配させないでよ。慎太郎のくせに」


「くせに、ってなんだよ」


「そのままの意味よ。あたしを無視した罰だと思いなさい」


 そういって、翠はスキップをするような軽やかな歩調で先へ進む。


 その後ろ姿が、俺にとってはどうしようもなく、懐かしさを感じてしまう。


「あー、そうそう。慎太郎、あんたは夏休みどうすんの?」


 俺が感傷に浸っていることなんて露知らず、翠は世間話を再開させる。


 もちろん、翠にとって俺は昨日までの俺と同じ高校二年生の白石慎太郎なのであって、まさか中身が大学四年生の俺だなんて想像もしていないだろう。


 もし、この場で俺がその真実を告白しようものならば、笑い話にされるか、熱中症を疑われて病院へ行くように勧められるだけだ。


「あたしたちもさー、来年は受験じゃん? そうなったら全然遊べないし、お母さんは塾に行かせるつもり満々らしいし、最後の青春っていうの? そういうのはちゃんと経験しときたいわよねー」


 頭の後ろで手を組みながら、空を見上げる翠。


「ってか、あたし、ちゃんと大学行けるのかなぁー? この前の期末テストも散々だったし、もしかして結構ヤバいんじゃない? って本気で思ったんだよね」


「……大丈夫だよ。お前はちゃんと大学に行く」


 未来の記憶がある俺としては、今の翠の心配が杞憂であることを知っている。


 翠は一年後、唐突に僕と同じ東京の大学に行くと言い出し、猛勉強を始める。

 先生や親からも、偏差値的に今からでは間に合わないと止められていた進路だったが、その逆境をはねのけて、翠は見事志望校に合格して上京するのだ。


 ……ただ、その大学が翠の本当に行きたかった大学ではないことを、俺は薄々感じてはいたが、何も言わなかった。


 それでも、翠はちゃんと勉強をして、大学に進学するのだ。


 もちろん、そこまで伝えるつもりはなかったが、今の翠を安心させるくらいはいいだろうと思っての発言だったのだが、俺の話を聞いて振り返った翠は狐につままれたような表情をしていた。


「ほえ? なに、慎太郎? あんたがあたしを褒めるなんて珍しいじゃん? いっつもあたしのテストの点数みて馬鹿にしてくるのにさ?」


「えっ? いや、そりゃあ……」


 翠の発言に、たじろいでしまった俺は、咄嗟に言い訳を考えようとするが上手く言葉が出てこなかった。


「慎太郎……あんた……」


 そして、翠は眉間に皺を寄せながら僕に近づいてきて……。


「いやぁ~、あんたも、やっとそのひん曲がった性格を改めるようになったか~!」


 いきなり俺の頭を羽交い絞めにしてじゃれついてきた。


 その瞬間、翠から伝わってくる体温に、思わず俺は膠着してしまう。


 汗に交じったシャンプーの甘い香り。


 そして、ずっと俺たちはこうして馬鹿なことをやっていた記憶が、想起させられる。


 同時に、つい昨日……、この世界ではもっと先の未来の話になるのかもしれないが、最後に俺が見た翠の表情とは似ても似つかないくらい、無邪気な笑みを浮かべている。



 そうだ。翠は、こんな風に笑う奴だった。

 その笑顔を、多分俺は、五年間ずっと、見ることができずにいた。


 俺のせいで、翠は本当の笑顔を出さないようになっていることが分かっていたのに、俺はずっと、自分には関係ないと、見ない振りをして生きてきた。


 もしかしたら、俺にそのことを気付かせるために、今の俺はここにいるのだろうか?


 そうだとしたら、俺がやらないといけないことは、一つしかない。


「翠……あのさ」


 俺のせいで、翠は彼女自身の人生まで大きく変えた。


 それが俺の傲慢の考えということも分かっているのだが、それでも、やっぱり俺は、今の翠のままでいてほしい。


「ん? 何よ、慎太郎?」


 翠は俺から手を放して、不思議そうな顔で覗き込む。



 世話焼きで、馬鹿みたいに明るくて。

 そして、俺にとって、とても大切な友人だ。



「翠……もう、俺のことは……」


 そんな翠に、俺は……。



「全く、きみたちは本当に仲がいいね」



 ――その声が聞こえた瞬間、俺の身体が勝手に震えだすのを感じた。



 そう、俺はずっと、この状況になってさえ認めようとせず、無意識にその存在を除外していた。


「あっ……」


 隣にいた翠も、先ほどまでの緩い雰囲気から一転させて、緊張感を漂わせる。


 そして、俺もその人物に視線を向けてしまった。



 綺麗に伸びた清涼感のある黒色の髪。

 日差しを浴びた形跡がどこにもないような白い肌。



 もう二度と、見ることはないと思っていたその人物の姿は、俺の記憶と寸分も違わずに存在していた。



「やあ、おはよう。慎太郎くん」



 そういって、黒崎くろさき紗季さきは柔和な笑みを浮かべた。


「せん……ぱい……?」


 俺は絞り出すような声を発して、彼女にそう告げた。


 すると、紗季さき先輩は一瞬だけ怪訝な顔をしたものの、いつもの含みのある笑みを浮かべながら俺にこう言った。


「そうだよ、きみの先輩の黒崎紗季だよ。そして、きみの隣にいる女子生徒がきみの幼なじみで私の後輩でもある水菜みなみどりさんだ。そうだよね、水菜みなさん?」


「えっ!? は、はい……そうですけど……」


 自分に話を振られるとは思っていなかったのか、翠はたじろいだ様子で返答する。


 その間も、紗季先輩はずっと口角をあげながら、俺と翠を交互に見つめたのち、言葉を発した。


「それじゃあ、自己紹介も済んだところでそろそろ行こうか。早くしないと学校に遅れてしまうからね」


 そう言って、紗季先輩は俺たちを置いて先に行ってしまう。


「……いこ、慎太郎」


 そんな彼女の背中を見つめていた俺に、翠がそう声をかける。


 俺は、翠に言われるがまま、学校へと続く道のりを歩きだす。


 だけど、先を歩く紗季先輩との距離は、一向に縮まることはなく、誰も言葉を交わさない時間が続いたのだった。


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