第2章 2015年 7月21日

第5話 夏の始まり①


「……うぐっ、気持ちわりぃ……」


 俺はベットから起き上がろうとするが、三半規管が正常に機能していないのか、目の前の光景がグルグルと回り続けていた。


 それでも、なんとか我慢していると、視界は元に戻り、目を凝らしてみるとちゃんと俺の部屋であることが理解できた。


 ああ、そうか。俺は昨日から実家に帰って来ていたんだっけ。


 今借りている部屋で過ごした時間のほうが短いはずなのに、随分と久しぶりな感覚にちょっとした戸惑いを覚えてしまう。


 しかし、部屋のカーテンから漏れる太陽の光から察するに、どうやら俺は夏祭りから帰って来てすぐに寝てしまったようだ。



 ――その前に、何か重要なことをしていたような気がするが、どうも記憶が曖昧で思い出せない。



 変な夢もみたような気がするのだが、その夢はまるでノイズがかかっているように不明瞭なものになってしまっている。


 まぁ、夢なんてそんなものだろう。


 俺は乱暴な手つきでカーテンを引いて、朝日を浴びる。


 それと同時に、机に置いてあった目覚まし時計を見ると、時刻は七時五十分と表示されていた。


 大学が夏季休暇に入ってから、こんな朝早く起きることなんてほとんどなかった。


 別に、起きたところでやることなどないので、もうひと眠りしようとしたところで、違和感に気付く。



 ――どうして、昨日壊れていたはずのクーラーが動いているんだ?



 俺が首を傾げたと同時に、一階のリビングから大声が聞こえてきた。


慎太郎しんたろう!! あんた、いつまで寝てるの!」


 その声と同時に、古くなった階段の軋む音が響いたかと思えば、瞬く間に部屋の扉が勢いよく開いた。


「……なんだ。もう起きてるんじゃない。早くしないとご飯食べる時間ないわよ」


 母は眉間に皺を寄せながらブツブツと俺に対する文句を呟く。


 だが、俺はそんな母を見ながら「何かが変だ」と奇妙な感覚に襲われる。



 違う。

 何かが、違う気がする。



「……どうしたのよ。人の顔をジロジロみて」


 顔……。


 そうだ! 顔だ!


「母さん……なんか若くなってないか?」


「はあ?」


 今度は、母が俺に対して怪訝な目を向ける。


 口では言わなかったが、明らかに「こいつ、何言ってんだ?」という目線が俺を突き刺してくる。


 それでも、見れば見るほど、今目の前にいる母が、昨日までの母とは違うことを実感する。


 昨日、久々に会った母より、ほんの少しだけだが若い。



 だが、それは間違いなく俺の母親で……。

 それこそ、毎日顔を合わせていたときのような……。



「なに馬鹿なこと言ってんのよ? まだ夏休みも始まってないのに休みボケしてんじゃないわよ。いいからさっさと降りてらっしゃい。学校に遅れるわよ」


 だが、俺の疑問が解ける前に、母はさっさと部屋から出て行きリビングへと戻ってしまった。


「……は?」


 いやいや。ちょっと待て。


 母の言った台詞に、俺はさらなる混乱を強いられることになる。


 散りばめられたワードの一つ一つは、なんの変哲もない日常会話のそれだ。


 しかし、母から発せられた言葉の全てが、今の俺の状況からあまりにも乖離してしまっている。


 俺は今、大学は絶賛夏季休暇中だし、もちろん、ここから大学にわざわざ行くような用事もない。


 一体なんなんだ……と、頭を抱えようとしたその時、俺の視界にあるものが飛び込んできた。


 俺の部屋に掛けられてある、カレンダー。


 それは、何の変哲もない、母が毎年銀行から貰ってくるもので、いつのまにか勝手に俺の部屋に貼られているものだ。


「ん? ちょっと待て……」


 だが、俺は飛び跳ねるようにそのカレンダーへと近づき、数字を確認する。


 カレンダーは、何の予定も書かれていない真っ白なもので、最初から印刷されている数字が大きく記載されている。



 ――2015年 7月。



 その西暦は、今から五年も前のものだった。


「なんで……こんなカレンダーが貼ってあるんだ?」


 まさか、母がずっとカレンダーをそのまま貼っていたのか?


 確かに、都心のアパートから帰ってきてから、この部屋のカレンダーなんて気にもしていなかったし、可能性としては無いこともない……ことなのだろうか?


「……いやいや、ありえないだろ」


 だが、俺は自分でたてた仮説をすぐに自分自身で否定した。


 母はそんなずぼらな性格ではないし、五年前といえば、俺はまだ高校二年生の時だ。


 そのときは、この部屋を毎日使っているのだからさすがにカレンダーくらいは自分で捲りもするだろうから、気付くはずだ。


 それに、今は八月なのに。カレンダーは七月で止まっているのが気持ち悪い。


 ……いや、待てよ。



 2015年。

 7月。


 

 そして、母が俺にかけた言葉の意味。


「……まさか!!」


 俺は部屋から飛び出して、急いで洗面台へと向かう。


「ちょっと、慎太郎! 静かにしなさい!」


 俺はリビングから聞こえてくる母からの叱責を無視して、洗面台の鏡の前に立つ。


「……やっぱ、これって」


 自分自身のことだからなのか、それとも今まで提示されてきたものがヒントのようになっていたから、すぐにその解答にたどり着いたのかは、正直判断ができない。


 だが、これだけは、はっきりと断言できる。



 鏡に映っている俺は間違いなく、五年前の高校二年生だった頃の俺だった。





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