第4話 帰省と夏祭り④
家に帰って来ると、リビングからは大勢の大人の声が聞こえてきた。きっと夜の宴会が始まってしまったのだろう。俺にもあの人たちと同じ血が入っているのかと疑問を呈さずにはいられない。
しかし、幸いその宴会のお陰で俺が玄関の扉を開けて帰ってきたことにも気づかれていないようだった。
そして、俺は母たちがいるリビングを無視して自分の部屋のある二階へと向かった。
部屋に入ってみると、俺が出かけている間に母が約束通り扇風機を用意してくれていたので、部屋に籠った熱気を逃がすために窓を開け、扇風機の風量を全開にして風を浴びる。
これなら少しは寝苦しさも解消されるだろうと思い、安堵する。
ただ、寝る前にシャワーくらいは浴びたかったのだが、生憎と浴室はリビングを通らなくてはならない。さすがに夜通し宴会をするということはないだろうから、叔父さんたちが帰宅するころを見計らって部屋から出ることにしよう。
その間、時間をつぶそうと思ってスマホを取り出したが、使用することを躊躇った。
もしかしたら、翠から何か連絡が来ているかもしれない。そうなれば、また俺はあいつに余計なことを言ってしまいそうで怖かった。
翠もあの性格なので、俺の無礼をいちいち咎める奴ではないけど、それでも今は彼女との接触はできるだけ避けたい。
となると、やることといえば、ずっと放置していたゼミのレポートの続きくらいなので、いい加減そっちを本格始動させようかと思ったその時、ふと本棚に差してあった一冊の文庫本が目に入った。
背表紙には『人間失格』と書かれている。
日本人なら、誰もがその題名くらいは知っているだろう。
俺は本棚に手を伸ばしてページをめくる。
何度も読み返したせいで、紙は擦り切れていたし、所々に折り目がついてしまっている。
それでも、当時の俺は新しく買い替えることもなく、常に鞄の中に入れて持ち歩いていた。
――きみは本が好きなのかい? それとも、人間が嫌いなのかい?
そうだ。
あの日、図書室でこの本を読んでいた時に出会ったのだ。
長い黒髪に手をかけて、柔和に微笑む女子生徒。
座っていた俺の顔を上から覗き込むようにして、その人は現れた。
ページを捲るが、内容なんて殆ど頭に入ってこず、俺の脳裏には初めて彼女と出会ったときのことが蘇ってきていた。
不思議な人だったけど、ほかのどんな人物とも違う魅力を抱えた人で……ときどき、悲しい表情を浮かべているような人だった。
気が付けば、俺は扇風機の当たるソファまで移動して『人間失格』を読み耽っていた。
「……あれ?」
そして、ある程度読み終えたところで、俺はページの間に何かが挟まっていることに気が付いた。
取り上げてみると、それはどこにでもあるような、白い花が描かれている栞だった。
別に、本に栞が挟まっている事態は不思議ではなかったが、俺にはその栞に見覚えがなかった。
そして、何気なく栞を裏返してみると、そこにはたった一行、こんな文章が記されてあった。
夏祭りの日。
私はずっと、きみを待っています。
――その文章を見た瞬間、俺は強烈な眩暈に襲われたのだった。
〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇
不思議な夢を見ていた。
身体の自由が利かなくなり、俺はまるで液体になってしまったかのように、全ての感覚が曖昧だった。
ぼやける世界を眺めると、辺り一面真っ暗で、ここがどこなのかも不明だ。
自分が呼吸をしているのか、それすらも分からない。
それでも、何故か自然と冷静でいられたのは、どこか居心地がよく、このままずっとこの世界に浸っていたいと思った。
理由は分からない。
だが、この『何もない世界』は、何故だか俺がずっと探し求めていた世界のような気がしてならなかった。
そんな中、俺の目の前に球体の光が灯り、やがてそれは俺の前までゆっくりと近づいてくる。
今にも消えてしまいそうな頼りない淡い光が、チカチカと点滅する。
そして、その点滅と同時に、俺の頭の中で声が響く。
――■■、ケ、■。
まるでノイズが掛かっているように、上手く聞き取ることができない。
それでも、その言葉を理解しなくてはいけないと、本能的に感じてしまう。
どこか懐かしくて、心の底から安心できる声。
――■タシ、■、タ■■、テ。
だけど、今はとても苦しそうで。
それじゃあ、まるで……。
――■■■くん。■■■くん。
そして、彼女は最後に、僕にこう告げた。
――私は、ここにいるよ。
その瞬間、暗闇だった世界が白い光に包まれたのだった。
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