第17話 潜航①
十一月も初めの週末、浩一は新市街近くのビルの三階で瓶麦酒を嗜んでいた。
大柄な店主の忙しなく動く厨房を見遣りながら、細いグラスに少し注いではそれを一気呵成に呷る。
その合間に突き出しの煮物に箸を付けるのだが、
(む……これは)
思わず唸りを上げるほどの柔らかな旨味に、堪らず酒が進んでしまう。
この店は以前に伸介より教えられていたのであるが、
「何を頼んでも旨くて、何でも出てくる店ですよ」
というどうにも要領の得られぬままであったため、カウンターで隣合わせとなった女性と同じように出汁巻きとつくねを浩一は頼んでいた。
どうやらその風体から同じ建物の飲み屋に勤めているようであったが、店へ出る前のひと時であろうからと浩一はそれ以上の詮索をせぬようにしていた。
窓の方に大きな武士の絵が掲げられ、厨房との仕切りの間にあるディスプレイでは何かしらのアニメが流されているようであったが、浩一にはとんと分からぬ。
ただ、外の喧騒の静けさに溜息を吐きつつ意識は技令の探索に向けられていた。
この店を紹介しても合うにあたって、伸介に伝えたのはただ一つだけであった。
「ゆっくりと上手い飯だ酒を飲みたいのだが、新市街に近いところでよいところはないか」
そこで、教えられたのであるが、確かに雑多な様子こそ見た目にはあるものの、雰囲気はいかにも落ち着いている。
ただ、この落ち着いてというのも、時に意識を集中させたこの近くの技令の発動を嗅ぎ取るためであり、だからこそ、美夏を別の店に預けて多方面から探りを入れていたのである。
「出汁巻き、お待たせしました」
店主がカウンター越しに渡してきた皿を受け取る。
目映いばかりの黄色の輝きに、一瞬だけコレステロールという横文字が脳裏を過るが、たまにはう良かろうと目を瞑りつつ、大根おろしに少しだけ醤油を垂らしてから、まずは一切れの三分の一ほどを箸で切り分け口に運ぶ。
(うむ、これは伸介の言う通り……)
卵から滲み出る豊かな出汁の奔流が、浩一に否が応もなく旨味を感じさせ、思わず顔が綻んでしまう。
麦酒で口を清めてから改めてもう一口進めれば、最早何かの魔術に陥ったかのようにその味に魅了されてしまう。
「美味しいでしょう、ここの出汁巻き」
大根おろしで箸を休めていると、隣の女性の方から浩一に声をかけてきた。その皿は既に殆ど空となってしまっており、グラスに注がれたものも残り僅かとなっている。
胸元近くまで伸びた髪は僅かに茶に染められているものの、純粋な黒よりもどこか落ち着いた雰囲気を彼女に与えていた。
よく見ると、年の頃は三十の半ば過ぎであろうか。
肉付きの良さを強調した服装からは、女としての盛りを如何にも感じさせられる。
浩一はずらしていたマスクを戻し、女性の方に身体を向けた。
「うむ。初めていただいたのが、これはちょっと驚かされた」
「そうでしょう。大将の作るものは何でも美味しいですから、ぜひご贔屓にされてください」
浩一に微笑みかけた女性は、そこで残ったものを手早く口にする。
その所作は若いというのにいかにも品のよいものであった。
「大将、お勘定貰えるかしら」
「はーい。えーっと、三千二百円ね」
「これでいいかしら」
「丁度ですね。毎度、ありがとうねー」
「こちらこそ、いつもごちそうさまです。それでは、お先に」
店主と浩一に一礼した女性は音もなく静かに店を後にする。
その後には何とも爽やかな香りが漂うようで、浩一は思わず一度鼻で笑ってしまった。
「ご店主、何ともいい店だな」
「どうもありがとうございます。ところで、うちの店はどうやっていらしたんですか。ツイッターとか」
「いやあ、俺はそういったのはせんからなあ。伸介という知り合いの若いのにお勧めされてな」
「あぁ、伸ちゃんのお知り合いでしたか。よく来て下さるんですよ」
カウンターの向こうで話をしながらも、坊主頭の店主はまめに働く。
人懐こい笑顔というのは得をすることもあるのだろうなあと思いつつ、浩一は再びマスクをずらして麦酒を口にする。
街中の週末というのに喧騒はやはりどこか緩やかで、浩一にはそれがいかにも冷え冷えとしたものを感じさせられる。
浩一自身もこうして街中へ飲みに出るという機会が減ってしまっていたのだが、それが広がってしまっていることをまざまざと見せつけられているようであった。
「はい、天草大王のつくね、お待たせしました」
「おお、これはまた見事な」
「玉子に絡めて食べてみてください」
浩一は勧められるまま箸で切り分けたものを摘まみ、黄身をたっぷりと絡めてから口に運ぶ。
「ご店主、これは罪深いほどに旨いなあ。いや、このような贅沢をしたと言えば妻に怒られてしまいそうだ」
「どうもありがとうございます」
半時間ほどしかまだ経たぬものの、技令の動く気配はまだどこからも感じられない。
浩一はそれをよいことに、出汁巻きへマヨネーズをつけて口にする。
「うむ、今日はゆっくりとやらせてもらおう。日本酒はあるかな」
務めのことは頭に置きながらも、暫しこの味を楽しむこととした。
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