第16話 結託

 銀座通りでの一件から三日後の昼下がり、浩一の喫茶店には美夏の姿だけがあった。

 珍しくロングスカートを纏った彼女はハンチング帽を脇に遣り、カウンターに突っ伏すようにしてもたれかかっている。


「それで、美夏はどうしたいんだ」

「分かんない。でも、なんだかぐちゃぐちゃした気持ち」


 美夏の言葉に笑った浩一は、店に入ってきてからのことを反芻していた。




 珍しく一人で訪ねてきた美夏は、コーヒーを頼むなり金切り声を上げて浩一に告げた。


「ねぇ、おじさん、伸介くんが浮気してるんだけど」


 その一言に思わず目を剥いてしまった浩一は、危うくカップを落としそうになった。

 荒れる美夏に対して穏やかに在るよう努めた浩一は、事の経緯を少しずつ聞き出していった。


 話によると、一週間ほど前の週末に訪ねてきた伸介は酒に酔っており、そのまま美夏にもたれかかるようにして眠りに就いたという。

 吸わぬ伸介から煙草の匂いがしたため不思議に思ったようであるが、付き合いで飲みに出た帰りなのだろうと思い、そこまで不思議に思うことはなかった。

 ただ、着替えさせてからベッドに運ぼうとしたところ、ポケットの中から飲み屋の抽選券が出てきたことで女の勘が働いたという。

 そこで、伸介のスマホを開いてラインを確かめたところその店の女の子からのメッセージがあり、事が発覚したのだという。


「もう! 伸介君はそんなことしないって思ってたのに」

「まあ、いきり立つのも仕方はないが、カップは丁寧に扱ってくれ。割れるとそれなりに高いんだ」


 苦笑しながら浩一はさらに店の名を聞き出したところで、その表情を変えた。


「なるほどな。そりゃあ黙って行った伸介も悪いが、お目当ては女じゃないな」


 目を丸くした美夏に、言葉を選びながら浩一はその店について語り始めた。


「伸介が三年ほど前に酷い失恋をしたことがあってな。片思いだったんだが、断られ方がそれはもう惨たらしいものだった。その時、荒れていた伸介は偶々誘われたガールズバーに入り、そこでここの店長に慰めてもらったらしい。俺も手を付けられんほどだったから驚いたんだが、それからその店に足繁く通うようになって店が変わった今も折を見つけて行くようにしているらしい」

「でも、隠れていくなんて……」

「女を連れては行けんと思っとるんだろうな。ただ、あいつはそうした優しくしてくれた男には懐いてしまう。そう、奴の育った環境を思えば仕方のない事なんだがな」


 浩一のこの一言に、美夏の表情が曇る。

 伸介からその育ちを聞かされていた彼女は、そこに重い真実性を垣間見たのだろう。

 そのまま珈琲を口にすると、そのまま気怠そうにカウンターに身体を預けてしまった。




「おじさん、私、どうしたらいいんだろう」

「気になるって言うんなら、直接聞いてみてもいいんじゃないか。伸介ならきちんと答えるはずだ。答えねぇようなら、俺が躾け直してやる」

「でも、勝手にスマホを覗いたのは私だし……」


 溜息を吐いた美夏を見て浩一が穏やかに笑う。

 己が娘のようになりつつある彼女の幼い一面を見ると、浩一の中に何とかしてやらねばという思いが浮かび上がってくる。


「ただまあ、手前の女の家に上がってすぐにつぶれるような飲み方をするようじゃあいけねぇな。少ししたら灸を据えてやるから、俺に任せておけ」


 呆けた表情で顔を上げた美夏へ穏やかに微笑みかける浩一は、しかし、同時に今回の件をどのようにするか逡巡もしていた。


「ただな、丁度下通で内偵が必要な案件があったんだが、それに伸介を使う訳にもいかなくなっちまったなあ」

「おじさん、それなら私が手伝おっか?」


 美夏の一言に浩一が頷く。

 このような事態となってしまった以上、危険のない範囲において手伝ってもらうより他にない。


「それなら一つ聞くが、技令の気配を追うことはできるか」

「それくらいならできるけど、張り込みとか尾行とかすればいいの?」

「いや、その必要はない。ただ、目星をつけた店があるからその近くの店に入り込んで、異常があったら知らせてほしい。ただ、夜の話になっちまうから俺のよく知ったところに頼むことにしよう」


 懸念は相手方に襲われることだけではなく、変な虫に絡まれることもある。

 だからこそ、浩一としては十分に気を配ってから対応する必要がある。

 本職の司書ではなく、隠密の行動に慣れている訳でもない美夏にかかる負担を一つでも減らすべく、浩一の頭は既に回転を済ませていた。


「あとは伸介をどうやって誤魔化すかだが、まあ、あいつには銀座橋の近くで異変がないか張り込ませるようにしよう。寒くなる時期にちと可哀相だが、高架近くから動くなと言っておけばいいだろう」

「うん。それなら、私が家にいないのも分かんないから大丈夫だね」

「ああ。お前が家に着いてから解放することにするから大丈夫だ」


 浩一が外を見遣ると、朝方には張りつめていた電線が少しだけ緩んだ姿をしている。

 その先には僅かに浮かぶ雲だけがあり、後は茫漠と青い空が広がるばかりであった。

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