第2話 司書①
それから四日後の夕に、伸介が浩一の喫茶を訪ねると中に井川義春の姿があった。
剣道六段を持つ壮年は、その灰色の背広越しにもその逞しい肉付きを見て取ることができ、その実直な在り方が鉄心を通したかのような背筋にも表れている。
その前には空いたガムシッロプが三つ重ねられ、カフェオレを湛えるグラスが堂々と
「伸介君か。いいところに来てくれた」
「井川さん、お久し振りですね。いいところに、ということは何かあったんですか」
「ああ。ちょうど大将に話すところだったんだが、ちと気になる事案があってな。それにしても、ひどく機嫌がいいじゃないか」
「何かあったのか?」
「いや、ちょっといいことがありましてね」
言いつつ手の消毒に向かう伸介の顔が緩み切っている。
井川の顔もまた青年の来訪が嬉しかったのか、その相好を崩し、僅かにカフェオレを口にする。
ブレンドコーヒーを淹れながら、浩一には先日の娘との進み具合が手に取るように分かった。
時計の針が六時半を指す。
「ただ、井川よ。まずはそっちの話を聞かせてくれねぇか」
「分かりました。まだ何かある、という確証はないんですが」
「何かの事件なんですか」
井川はアイスコーヒーを一口含むと朗らかな笑みを一転させた。
「いや、署では熱中症で処理された案件なんだがな」
井川の話によると、亡くなったのは大江に住む倉間芳江という七八の老婦であった。
芳江は七年前に夫を亡くして以来一人暮らしを続けていたが、三日と空けず上通の喫茶店に通っていた。
しかし、五日ほど顔を見せなかったことを不審に思ったその店主は、合志に住む娘夫婦に連絡を取り、それを受けた娘が訪ねたところ異臭と共に変わり果てた芳江の姿を発見したという。
しばし愕然とした娘が、震える声で救急に連絡したのは、昼過ぎのことであった。
「それで、変死の線もあったことから我々が出向くことになったのですが……。腐敗こそ進んでいたものの、目立った外傷も薬物も検出されず部屋の状態などから熱中症による急死と判断されました」
「そうだったんですね。でも、熱中症なら何の問題もないんじゃないんですか」
「ああ。ただ、微かに気配が残っていたんですよ。発動された、技令の気配が」
井川の言葉に、伸介の顔から笑顔が消え、緊張が走る。
浩一の差し出したカップから立ち上る香りが二人を包んだ。
俗に言う魔法や霊感といったものはここから生じたものであり、生まれながらに持つ素質と本人の鍛錬によってその能力が決まる。
市井の人々も僅かにその力を持つが、それを操る力などを持ち合わせぬのが普通である。
故に、そうした技令を操る者達は技令士と呼ばれ、自らの心の強さを以って世界に干渉を行うことができ、また強く自らを律して人目につかぬようそうした力を用いている。
しかし、中には己が力を用いてその欲求を満たす者もあり、時に何も知らず暮らす者へその手を伸ばすこともある。
そして、それが大きくなると世を揺るがすような大事件となってしまい、技令士の持つ秘匿性が失われてしまうため、そうした行いは忌むべきものとされている。
「井川、それがどこから出ていたかは分かるか」
「すみません。集中して探ってみたんですが、絞り込めませんでした。もう少し早かったら分かったんですが」
「気のせいだった、っていうのはないんですか」
「ああ。最初は臭気が酷かったんでそのせいで間違えたかと思ったんだが、探索用の技令石を用いても残る技令が僅かに確認できた。ただ、それと仏さんの死とが結び付かなかったんですよ」
「なるほど。それだけなら迷い込んだ使い魔同士が知らない間に小競り合いをやった可能性もあるな」
「ええ。ですから確証がありません。それでも、スマホを近くに落としてたのが、どうにも
たたみかけるように言って、井川は押し黙ってしまった。
伸介を出迎えた頃の柔和な表情は消え、眉間に寄った皺が彼の持つ信念を浮き上がらせる。
伸介は拳を握り井川を見詰め、浩一もまた僅かに沈思する。
しかし、それも一度大きく息を吐いたきりであった。
「よし分かった。まずは探りを入れてみよう。このところ、技令士同士での対立も知られていない以上、いずれにしても動向を掴む必要がある。ただ、今の情報だけでは材料に乏しい。分かってることをもう少し教えてくれ」
浩一の一言に上をを向いた井川の顔が生気に満ちる。
「ありがとうございます、大将」
「なあに、少しでも気になることがありゃ、すぐに教えろと言ったのは俺だ。何もなけりゃそれでもいい。それに、お前はその仏さんの無念を晴らさねぇと気が済まねぇんだろ」
『上司』たる浩一の一言に、井川の瞳が仄かに潤む。
「ええ、大将のおっしゃる通りです」
感に堪えたように振り絞られた一言を、浩一は頷きながら聞いた。
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