肥後司書伝~浮世の裏の捕物帳

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

肥後司書伝 (一)

第一章 社の裏

第1話 参道

その日、伊能伸介は藤崎宮そばの餅屋で甘酒を嗜んでいた。

蝉の声さえ失せるほどの陽光の陰で、上着も鞄も脇に置き、頻りに扇子を扇ぐ。

昼からの外回りでひとつやらかしてしまい、しばしの休みと車を停めてきたのだが、本殿からの僅かな合間で汗が引かぬほどとなっていた。

とはいえ、戻ることを思えば中で冷気に当たるわけにもいかず、伸介は外の腰掛にあった。


藤崎宮は熊本でも有数の大社である。

その大鳥居は国道三号線より続き、参道を車が行くこともある。

また、その左右には商店、保育園、マンションと立ち並び、灯篭と松並木を除いてしまえば、どこにでもある住宅地として溶け込んでしまうだろう。

しかし、清流の地熊本の象徴たる白川を背にした本殿は、朱の威厳を以て訪ねる者たちを圧倒する。

正月やぼした祭りの頃ともなれば芋を洗うかの如く人が押し寄せるが、コロナウィルスによってずい兵行列が中止となった今年は穏やかなものであった。

平日の昼など行きかう人も多くはなく、仕事の手を抜くには格好の地であった。


(むっ……)


故に、参道を下る若い女が伸介の目に付いた。

背は一六〇センチほどであろうか。

細いながらも出るべきところはそれなりに出ており、服の合間より見える瑞々しい肌は豊かな蕾を思わせる。


(なるほど、これはいい女だ)


甘酒を啜る体で顔を隠しつつ、目はその動きを追う。

マスクで口元は分からぬものの、確と見える瞳に伸介は釘付けとなる。


(俺にもう少し良い容姿があれば、口説いてみたいものなんだがなぁ……)


器を置き、マスクを引き上げて口元を隠す。

その時、女は右に振れたかと思うと、両の膝が折れる。


「いけない」


伸介が飛び上がり、女に駆け寄る。

崩れるように倒れた女の肩を抱き起こし、やや熱い身体を揺する。


「おい、大丈夫か? しっかりしろ!」


微かな呻き声をあげるだけで、女の返事はない。

このような時、伸介は成す術を知らぬ。

慌ててスマホを手に取り、二度の打ち間違いを経て救急車を呼ぼうとしたのも少ししてからであった。


「藤崎宮が、熱中症で、女が……」


汗だくになって叫ぶ頃には、変事に気付いた人々が集まってきている。

中には看護師の姿もあり、それを見て伸介は初めて近くに病院があることに気付いた。

先ほどの店の主も袋を両手に抱えて駆け寄ってくる。

汗に塗れた身体から立ち上る、女の香りに中てられながら、伸介はひとつ溜息を吐いた。




「ってことがあったんですよ、大将。それからが大変で、人助けってことで会社を早引けできたのは良かったんですけど、その女が近くに知り合いも親族もいないってことで俺が何とかしてやるしかなかったんですよね」


九品寺は建設会通りに面した喫茶「林の書庫」のカウンターで、伸介はブレンドコーヒーを脇に項垂れていた。

対するのは中背ながらも精悍な身体つきの男が一人。

蓄えられた顎髭には白いものが少し混じるが、五十を一つ過ぎたというのに伸びた背が老いの衰えを感じさせぬ。

これが店主たる林浩一であり、笑うと覗かせる綺麗な歯並びと気まぐれで休むことで知られた人物である。


「伸介もよく厄介ごとにひっかかるな」

「六月の泥酔した女に続いてですからね。あの時は罵倒されましたけど、今日はもう頼られっぱなしで。こういったのに弱いんですよね、俺」

「まあ、お前はお人よしが過ぎるからなあ」


二十八にもなって、伸介は顔を赤くして恥ずかしまぎれとでも言うように頭を掻く。

それを見遣った浩一は口元を僅かに上げる。

カップを磨く純白の布はその手元で絶え間なく踊っていた。


「それにしても、若い女がそんな時間に藤崎宮にねぇ。何が面白くてそんなところにいたんだか」

「あれ、大将知らないんですか。今どきは神社で書いてもらえる御朱印帳目当てで若い子も行くんですよ。今はコロナのせいで書いてある札を貼り付けるのもあるみたいですけど、それも限定で集めたいみたいで」

「ああ、そういえばここ二三年だかで流行ってたな。じゃあ、その女も」

「で、ないですかね。持ってた鞄の中に御朱印帳も入ってたみたいですし。本殿の方から来てましたから」

「ほう。お前、中身見たのか」

「いや、見えたんですよ、たまたま」


慌てた様子でカップを口にする伸介は、こうした時、まだ高校生であるかのような顔を見せる。

それを見かけた浩一の妻である明子が、

「あの子は年上に可愛がられるけど、ちょっと幼すぎて女の子が近づかないタイプね」

と評したことがあるが、それを思い出した浩一の口角が再び上がる。


「まあ、ここしばらくは大きな『ヤマ』もないし、その娘を大切にしてやったらいい。秋より先に、お前には春が来るかもしれんしな」

「そうですね。『血吸いの恭平』から半年、何もないのが一番ですよね」

「ああ。何かありゃ、すぐにかかりきりになるんだ。今のうちに楽しんどきな。酒も女もな」


身体を起こした伸介も、それを見守る浩一も、まだこの出来事が後の事件に繋がろうとは微塵も考えていなかった。

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