第10話 操舵室

「酸素濃度は普通だね」

「ええ。今のところ有毒ガスのたぐいも検知されません」


 僕とジェネットは顔に防護用のマスクをかぶった状態で互いにうなづき合った。

 僕らは潜水艇の操舵そうだ室を探して、薄暗い船内を懐中電灯で照らしながら進んでいた。

 このゴーグル付き防護マスクには空気の異常検知機能が備わっていて、酸素不足や有毒ガスの発生を検知して知らせてくれる。

 カイルがこの密閉された船内で有毒ガスを散布したり、酸素濃度を低くしたりするといったわなを張り巡らせる恐れがあるため、その対策として僕がアイテム・ストックから取り出したものだった。


「万が一のためにと買いそろえておいてよかったよ。まさかこれを使う日が来るとは思わなかったけど」


 ミランダとやみ洞窟どうくつにいた時、彼女に挑んできたプレイヤーの中には毒ガスを使う人がいたから、その対策として以前に買っておいたものなんだ。

 僕の少ない給金ではなかなか買えない高価な品だったんだけど、前回の天国の丘ヘヴンズ・ヒルへの出張で、運営本部から臨時ボーナスをもらえたから、それで買うことが出来たんだけどね。


「ありがとうございます。アル様。さすがに私もこれは持っていませんでしたから助かります」


 そう言うジェネットの手には小さな手さげのバスケットが握られている。

 その中には約10匹ほどのハムスターが息を潜めていた。

 ブレイディの薬液で海賊かいぞくの少女や倒れていた彼女の仲間たちをハムスターに変身させたんだ。

 ここから脱出するとき、彼女たちを見捨てていくわけにはいかないし、こうすれば連れて行きやすいからね。


 ジェネットは防護マスク越しに声を潜め、そっと僕に耳打ちをした。


「ところでアル様。その金環杖サキエルの能力なのですが、天の恵みディバイン・グレイス以外には何かあるのですか?」


 そうたずねる彼女に僕は神様から受けていた説明をそのまま伝えた。

 ジェネットは口元に笑みを浮かべ、その目に強い光を宿してうなづいた。


「なるほど。それは心強いですね。では一つお願いしたいのですが、もしカイルと遭遇そうぐうしたら私の合図でやってほしいことがあるのです」


 そう言うとジェネットは彼女の考えを分かりやすく僕に説明してくれた。

 それは彼女の新スキルを生かすためのある作戦だった。


「分かったよ。ジェネット。その通りやろう」

「ええ。お願いします。その前に操舵そうだ室を見つけなければなりませんね。さっきのように妨害の人員が配置されているかもしれないので、ゆめゆめ油断なされぬように」


 僕らは互いにうなづき合うと慎重に歩みを進めた。

 潜水艇の中は入り組んでいたけれど、僕らはそれから10分ほどで操舵そうだ室を探し当てたんだ。

 その間、誰とも遭遇そうぐうしなかったし、カイルからの妨害工作もなかった。

 そして固く閉ざされているものとばかり思っていた操舵そうだ室のとびらは半開きの状態だった。


 僕とジェネットは互いに顔を見合わせながら注意深くとびらを押し開ける。

 するとそれほど広くない操舵そうだ室にその男の姿はあった。


「おや? 船内の見学はもう済んだのかね? 聖女殿」


 獣人の老魔術士カイルはゆったりとイスに腰をかけてこちらを見つめている。

 何だ?

 敵であるジェネットが目の前に現れたってのに、この余裕の態度は。


「それにしても随分ずいぶん滑稽こっけいな姿だな。何だ? その無粋ぶすいなかぶり物は。毒ガスでも警戒したか? なかなか用心深いではないか。どうやら肩透かたすかしを食わせてしまったようだな。香でもいておくべきだったかな」 

「コソコソと隠れているかと思いましたが、逃げられずに観念したのですか?」


 そう言うとジェネットは操舵そうだ室に踏み込まないよう、とびらの手前から徴悪杖アストレアを突き付ける。


「あなたには色々と聞きたいことがありますが、まずはこの船を海上まで浮上させていただきます」

「さもなくばこの老いぼれを殺す、ということか。まあ、己の実力は分かっておる。高名な光の聖女殿と一戦交えたところで、この老体が骨と化すのにさほど時間はかかるまい」


 カイルはまるで取り乱すことなく泰然たいぜんとそう言った。

 敗北を覚悟しているってことか?

 何か妙だな。


「ならばすぐに船を……」

「それは無理だ聖女殿。この船の浮上装備はすでに破壊した。もはや浮上能力はない」


 う、うそでしょ?

 カイルの言葉に思わず動揺する僕のとなりで、ジェネットはあくまでも冷静に口を開いた。

 

「ならばなぜ、あなたはまだここに残っているのですか? あなたが脱出する方法があるということでしょう?」


 当然の指摘だ。

 だけどジェネットの言葉にもカイルは鷹揚おうように首を横に振った。


「そんなものはない。元より私はこの船と運命を共にするつもりなのでな。もちろん聖女殿にあっさりと殺されてゲームオーバーになるという結末がお好みならば、その杖を存分に振るうがいい」

 

 これにはジェネットも顔色をわずかに変えた。


「なるほど……初めからそのつもりでしたか。おのが身を犠牲にしても作戦にじゅんじようとは、悪に身を染める者にしてはめずらしい心構えです。ちなみに今、アナリンはどちらに?」

「アナリン様は初めから乗船されておらぬ。今頃はしかるべき場所でしかるべきことを成されているはずだ」

「そういうことでしたか……」


 そう言うとジェネットは悔しげに懲悪杖アストレアを握る手に力を込めた。

 くっ!

 あの艦橋かんきょうで見たアナリンはすでにカイルだったってことか。

 王都から雷轟らいごうで南下していたアナリンがどの時点でカイルとすり変わったか分からないけれど、僕らはまんまとだまされていたことになる。

 せっかく追い詰めたと思ったのに……。

 僕らの様子にカイルは満足げに目を細めた。


「こちらからも質問なのだが、その奇妙な妖精は何だ? 我が変身魔術をいともたやすく解除したようだが」

「優秀な私のパートナーですよ。まやかしを打ち破る光の使者です」

「光の使者ときたか。さすが神の直属の部下だな。優れた技術のバックアップは驚異的だ。やはり我らにとって一番の厄介やっかい者は貴殿だよ。聖女殿をここに閉じ込めるという我らの判断は正しかったようだ」


 神様のことも知っている。

 やっぱりアナリンたちは僕らのことを調べ上げている。

 この姿の僕がアルフレッドだってことはまだ気付かれていないみたいだな。

 カイルは余裕の表情で頭上を指差すと、その口元にゆったりとした笑みを浮かべる。


「今ごろ海上では貴殿の仲間たちが、我が同胞の攻撃を受けて撃沈しておるだろうよ」

「いいえ。私の仲間たちはそんなにおしとやかではありませんよ。今頃あなたの仲間を返り討ちにしているはずです」


 そう言うとジェネットは徴悪杖アストレアを構える。


「さて、私たちはそろそろおいとましようと思います。いつまでもここであなたと語らう時間はありませんので」


 僕も彼女にならって金環杖サキエルを構えた。

 だけどカイルはこれっぽっちも顔色を変えず、事も無げに言う。


「客人をもてなさずに帰したとあってはアナリン様にしかられてしまう。もう少しゆっくりとしていかれよ」


 そう言うとカイルは椅子いすに腰をかけたままパチリと指を鳴らした。

 途端とたんに潜水艇内の床や壁、天井に至るまで青い光の幾何学模様きかがくもようが浮かび上がる。

 け、結界だ。


 すぐに体に異常が感じられるようになった。

 全身が重く感じられるようになったんだ。

 動けないほどじゃない。

 だけど走り出すのも億劫おっくうなそんな重苦しさが体中を包み込んでいる。

 そしてわずかではあるが肺が圧迫され、呼吸がしにくくなっている、

 こ、これは……。


「船内の圧力を少し上げさせてもらった。少し走ると息が切れるぞ。無理せずゆっくり休むがいい」


 カイルの魔術だ。

 おそらく彼の力があれば今すぐ圧力を最大限まで高めて僕らの体を押しつぶすことも可能だろう。

 やっぱり彼を老人だからとあなどるのは危険だ。

 僕は重い体に気合いを込めて金環杖サキエルかかげ、天井に向けて今日何度目かの魔法を放つ。


天の恵みディバイン・グレイス


 杖から放出された金色の粒子が天井の幾何学模様きかがくもようを打ち消した。

 やった……と思った僕だけど、消えたのは一瞬のことで、すぐに幾何学模様きかがくもようは再び天井に描き出された。


「ええっ?」


 おどろく僕にカイルは目を細める。


「ムダだ。妖精よ。我が結界は幾重いくえにも重ね張りされていて、自動修復機能も備えておる。変身魔法と違い、その程度では打ち消せぬよ」


 そういうことか。

 そんなに簡単にはいかないみたいだ。


「それ。もう一段階、圧力を開けてみるぞ。苦しむがいい」


 そう言ってカイルが指を鳴らそうとしたその時、ジェネットが先に動いた。


清光霧ピュリフィケーション!」


 徴悪杖アストレアから放射される光のきりがカイルをねらった。

 だけど彼のいる操舵そうだ室の中で清光霧ピュリフィケーションは見えない壁にはばまれて消えてしまう。

 くっ!

 やっぱり結界か。

 だけどジェネットは落ち着いていた。


「なるほど。あなたはかなり腕の立つ魔術士のようですね。安心しました。全力を出すべき相手だと分かりましたので」

「なに?」


 いぶかしむカイルをよそに、ジェネットが祝詞のりととなえるかのようにおごそかに言った。

 それは僕にとっての合図でもあった。


「地の底の神よ。我が求めにこたえたまえ」


 するとジェネットの全身から急激に光のきりが放出され始めたんだ。

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