第5章「血に染まる純白の衣」

1.幼い約束


 鈴瑠が竜翔の背を叩く。

 息ができない。


 一日の、名残の日差しが木漏れ日となって、あたりを煌めかせる。


 名もない小さな泉のほとり。

 柔らかい草の上で、鈴瑠の身体は竜翔によって押さえつけられている。


 二十歳と十四歳。

 体格の差は相変わらず歴然で、鈴瑠は小柄なままだ。


「あと三日だな」


 漸く唇を離し、竜翔が嬉しそうに言う。 


 そう、あと三日。

 鈴瑠が成年と見なされる十五歳になる日まで。


 その日から、鈴瑠は花山寺を出て、本宮へ移ることになっている。

 正式に竜翔に仕えるためだ。 


「どれだけ待ったか…。鈴瑠」


 震える吐息をついて、首筋に顔を埋める。

 鈴瑠の身体がカッと火照る。


 その体温の上昇を敏感に感じ取り、竜翔の行動が大胆になる。

 上着の紐が解かれ、鎖骨のあたりから肌が露わになり始め…、そこへ唇を落としたとき…。


『りん…』


 小さく涼やかな鈴の音が聞こえた。


 これで幾度目か。

 竜翔の行為が禁忌の領域に踏み込みかけると、必ず聞こえる鈴の音。


「鈴瑠は、浄き生き物なのだったな」


 クスクス笑いながら、竜翔が鈴瑠の上着を整える。


 しかし、我慢もあと三日。

 成年に達すれば、鈴の音も消えるだろうと、竜翔も、そして鈴瑠も考えていた。


 横たわる鈴瑠を助け起こし、膝の上に横抱きにする。

 腕の中にすっぽりと納まってしまう身体が愛しくてしようがない。

 堪らずにキュッと抱きしめた瞬間、鈴瑠が身を固くし、気配を殺す仕種を見せた。

 この数ヶ月、時折見られるようになった行動だ。


「鈴瑠…?」


 呼びかけられて、鈴瑠は不安そうな瞳を竜翔に向ける。


「また…か?」


 頬を寄せながら聞いてきた竜翔に、鈴瑠は僅かに頷く。


「ここのところ…強くなってきてる…」


 鈴瑠が感じる「気」。


 竜翔との出会いのきっかけとなった、あの時のような邪悪な気が、まとわりつくように、足元から這い登ってくる。 


 しかし、あの時の気配は獣の気配。だが、ここのところ澱んでいるのはそうではなく…。


 誰かが見てる…。

 人の気配…。


 小さく鈴瑠が震えた。

 その身体を、竜翔が愛おしげに抱きしめる。


「鈴瑠、案ずるな。私がお前を守ってやる」


 断言するが、竜翔の胸も不安に塞がれていた。

 ほんの数日前に、泊双から聞いた話が心の隅に刺さっていて…。





『鈴瑠の周辺警護…?』


『はい、鈴瑠も間もなく本宮へ入る身。その身には位が与えられます。まして、もっとも竜翔様のお側近くに上がる身で…』


 いつになく歯切れの悪い泊双の物言いに、竜翔が焦れる。


『どうした…? 何が言いたい』


 泊双は我ながら、まずい物言いだったと省みる。

 竜翔が洞察力に優れていることは十分にわかっているのに。


『…実は、籠雲から相談を受けておりまして』


『籠雲から…?』


 導き手である籠雲に、こちらが相談を持ちかけることはよくある。

 しかし、高僧である籠雲から相談とは…。


 よくない予感に、竜翔の表情が曇る。


『鈴瑠が…狙われているようなのです』

『何っ?』


 思いもかけない言葉に、竜翔が鋭い声を発する。


『どういうことだ、泊双』


 胸ぐらを掴まんばかりの勢いで迫る竜翔を、泊双は宥めるように制し、言葉を繋ぐ。


『数ヶ月前の事ですが…』



 数ヶ月前、籠雲と鈴瑠は、七日ほど麓の里へ下りた。

 麓に住む薬師たちに、新しい薬草の知識を伝えるためである。


 創雲郷で作られる薬草は、こうして麓の薬師たちによって国の全土へと広がっていくのだ。


 泊双によると、その折りに、鈴瑠に目を付けた一党がいるらしいという。


 夜盗や山賊の類とは少し違った、もっとたちの悪い者たち…。

 呪術を操り、人心を惑わせる集団は、信仰の中心『創雲郷』の対極にある。


 そのような者たちが、賢く美しい鈴瑠に目を付けた。

 まして鈴瑠はやがて本宮へ仕える身…。利用価値はいくらにでもある。

 


『泊双、鈴瑠のまわりを固めるように…』


 あと少し…、本宮へ入ってしまえばいつでも自分が傍にいる。

 それまでは何が何でも鈴瑠を守らなければならない。 




 邪悪の気配が去ったのか、鈴瑠は堅くしていた身を解き、ゆったりと竜翔にそのすべてを預けてくる。


「竜翔様、わたくしは、竜翔様のお助けする為に、本宮へ上がるのでございますよ」


 甘えるような仕種と裏腹に、鈴瑠はわざと、人前で竜翔に接するときのような態度をとる。


(守ってもらってちゃ、話にならないのに…)


 内心で苦笑いし、鈴瑠はその頭を竜翔の肩に乗せる。 


 竜翔に仕えるため…。


 鈴瑠はその事に大きな誇りを感じていた。


 大好きな竜翔。


 二年前、婚儀延期の知らせがもたらされた翌日に、『好きだ』と告げられ、よくわからないままに頷き返したが、あの日から、竜翔に対する気持ちは日に日に大きくなるばかり。


「そうだ、鈴瑠は私を助けるために、生涯私と共にあらねばならない」


 三日後、成年の式を終えれば、鈴瑠は僧籍に入らず、創雲寺にて本宮に仕える終世誓約を立てることになっている。


 二十年前に、泊双がしたのと同じように。


 竜翔は鈴瑠の頬をそっと撫で、もう一度優しく口づけた。




 一年前、籠雲に対し『鈴瑠を本宮に入れたい』と申し出たとき、籠雲はほんの一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに鈴瑠を呼び、その気持ちを確かめ、そして同意してくれた。


 その時からすでに、竜翔に結婚の意志はない。


 芙蓉姫の容態は一進一退のまま。

 都からは、なんとかしなければと焦る様子が伝わってくるが、芙蓉姫以外には本宮の后になれる器はいない。


 それならば『芙蓉姫の三人の弟のいずれかを、竜翔の跡継ぎとするのが良策』という声も上がり始めている。


 竜翔にとってはありがたい話だった。




「生涯共にあろう…鈴瑠」


 触れるか触れないかの唇で、竜翔が囁く。

 そして、唇の動きだけで『はい』と答える鈴瑠。


 三日後に、鈴瑠が述べるのは『終世お側にお仕えすると、ご誓約申し上げる』という言葉だ。


 今二人が交わした『生涯共にある』という言葉。

 それは、婚儀の時に交わされる誓約…。


 触れあった唇から、鈴瑠の『浄い気』が溢れ出て、竜翔の心を満たしていく。


 結びあう心と心。交わしあう魂の誓約。



『その日』は、三日後に迫っていた。



2.緋色の衣


 早朝から、花山寺は慌ただしく動き始めている。

 籠雲と共に、赤子の時から鈴瑠を育ててきた花山寺の僧たちにとっても特別な日。


 鈴瑠が門前で拾われた日から十五年。

 今日、鈴瑠は成年と認められる。


 この創雲郷で成年を迎える者はあまり多くはない。

 鈴瑠のように、赤子の頃から育てられた子か、もしくは十の歳に修行に入った子供であるか、そのいずれかである。


 創雲郷に僧の数は多いが、そのほとんどが、成年以降に自らの意志で郷に入った者であるから、子供の数は少ないのである。



「鈴瑠、支度はできたか?」


 鈴瑠の部屋に、その姿をみるのは今日が最後だ。

 籠雲は眩しそうに鈴瑠を見つめた。


 僅かに肩に触れる長さの漆黒の髪に、濡れたような黒曜石の瞳。

 すらりと伸びた四肢に纏う緋色の衣は、本宮に使える者たちのもの。


「籠雲様…」


 振り返った鈴瑠には、僅かに寂寥の色が伺える。


「どうした鈴瑠、そのような顔をして」


 しかし、問う籠雲もまた、同じ色を浮かべている。

 今日を限りに、ここを出て本宮へ入る鈴瑠。

 本宮と花山寺はそう離れてはいないし、これからも籠雲は、三日に一度は本宮を訪れるであろう。


 それでも、育ててきた大切な宝が手元を離れる寂しさは拭いきれない。

 本当に寂しいのは自分の方かもしれない、と籠雲は内心苦笑を漏らす。



「……今まで…ありがとうございました…。捨てられていた僕を…ここまで…」


 鈴瑠が言葉に詰まった。唇を噛みしめて何かを耐えている。


 大人になるのに、泣いてはいけない…。


 懸命に堪える鈴瑠に、籠雲がゆっくりと歩を進めてくる。


 鈴瑠は天からの預かり物。

 竜翔から『鈴瑠を本宮に入れたい』と申し出があったときには困惑も感じた。

 泊双共々、竜翔の瞳に尋常でない物を感じていたからだ。


 賢い鈴瑠は、確かに有能な右腕になるだろう。

 だが竜翔はそれ以上のことを鈴瑠に求めている。


 鈴瑠が天から遣わされた本当の意味がどこにあるのか、まだわからない今、それが果たして許されることなのか。


 ただ、本宮に仕えるためだけに、この地へ降りてきたとは考え難い。


 鈴瑠は何の為にここにいるのか。

 その意味を知るのはいつになるのだろうか。


 籠雲は様々に交錯する思いを胸に閉じこめて、その暖かく大きな手で鈴瑠の身体をゆっくりと抱きしめた。


「鈴瑠…大きくなったな。これからは、竜翔様のために、精一杯尽くすのだぞ」


 鈴瑠は頷くと、そのまま籠雲の胸に顔を埋めた。  




 鈴瑠の成年式は、花山寺にて静かに荘厳に執り行われた。

 そして、そのまま籠雲に伴われ、創雲寺へ向かう。


 そこで待つのは本宮・竜翔と大座主、そして多くの高僧と泊双をはじめとする本宮の高官たちである。

 



「りんりゅ…」


 小さく呼ぶ声がした。

 誓約の儀式の直前のこと。籠雲はすでに御堂へ入った。


 小部屋で迎えの僧を待つ鈴瑠は、声の主を求めて辺りを見回す。

 今の声には聞き覚えがあるが、まさかこの様な場所で聞くはずがない。


「鈴瑠…」


 音もたてずに、するりと忍び込んできたのは…。


「りゅうか…っ」

「しーっ」


 本宮の正装に身を包んだ竜翔の姿を見て、鈴瑠は驚きを通り越して呆れ顔になる。


「どうして…もう始まるよ…」


 竜翔は御堂の一番奥、内陣の御座にいなければならないはずだ。


「どうしても、鈴瑠に会いたくて…」


 今、このような無茶をしなくても、数時間後には、鈴瑠は本宮の側から離れてはいけない身となるのだ。 


「鈴瑠…可愛いな…」


 緋色の衣を纏う鈴瑠を、うっとりと眺める竜翔に、鈴瑠はちょっと憮然として言う。


「…けっこう格好いいなと思っていたのに…」


 髪も結い上げ、すっかり大人の気分を味わっていたのに、いきなり『可愛い』と言われて納得いかないといった表情を見せる。


「…竜翔こそ…」

「私がどうかしたか?」


 群青色の衣は、綺麗で精悍な竜翔をいっそう引き立てている。 

 本宮の正装とはいえ、あまり華美な物ではない。

 ここは信仰の地、祈りの郷。

『質素』は当たり前のことなのだ。 


 じっと見つめ、やがて恥ずかしそうに目を伏せた鈴瑠に、竜翔は意地悪く囁いた。


「見惚れたな…」


 鈴瑠は顔をあげないまま、小さな拳を軽く竜翔の腹に当てた。

 その仕草に堪らなくなり、竜翔が鈴瑠を抱きしめる。


「早く…儀式など終われば良いのに…」


 言い終わる頃、竜翔の唇が、鈴瑠の唇をそっと塞いだ。

 優しく重ね、慈しむようについばむ。

 愛おしくて仕方がないと言うように、何度も何度も。


 まるで…別れを惜しむかのように…、いつまでも。




3.邪心


「…ご誓約申し上げる」


 ふと、鈴瑠の胸を痛みが突き上げた。

 今まで感じた不安などよりも、もっとはっきりとした、もっと形のあるもの。

 何かが近くまで来ているような気がする。


 しかし鈴瑠は、胸を塞ぐものを無理矢理ねじ伏せて、内陣の御座に向けて深く拝礼する。



 これで創雲寺での儀式が終わった。

 つつがなく終わったと誰もが思った。

 都からも天子の兵が送られて、今日の警備はいつもに増して厳重だったのだ。


 御堂を安堵の空気が流れていく。

 あと残すは本宮での儀式のみ。


 しかし、鈴瑠の胸を塞ぐものは、取れてはくれなかった。





 深夜、本宮の最奥にあるもっとも大きな祭壇の前に鈴瑠はいた。

 たった一人で、祈りを捧げている。

 これが終われば、すべての儀式が終わり、鈴瑠は本宮の人間となる。


 昼間の緋色の衣に替わり、純白の衣を纏う鈴瑠は、そのまま羽ばたいて天へ上がっていきそうな気配さえ漂わせている。


 鈴瑠の祈りがふと途切れる。

 空気が動いたような気がしたのだ。


 同時に突き上げてくる、昼間のあの、不安…。


(まさか…ここは本宮…容易に侵入できるところじゃない…)


 鈴瑠の思考は、皮膚に感じる悪寒を必死で否定しようとする。 

 しかし、現実にそれは、近づいて来ている。


(竜翔…っ!)


 思わず心の中で名を呼んだとき、『それ』は実際に身体に触れた。


「大人しくしていれば、何もしない…」


 耳元で底冷えのする声が囁き、大きな腕が、華奢な鈴瑠の肩をがっちりと掴んだ。  


(い、や、だ…)


 硬直する鈴瑠を、片腕で楽に抱き上げる。


(いやだ…いやだ…)


 全身で拒絶しようとする鈴瑠の体温が上昇する。


「いやだっ、はなせっ」


 侵入者は暴れる鈴瑠などものともしない。

 だが…。


「静かにしろっ」


 ざらついた掌で口を封じられ、鈴瑠がもがく。

 祭壇の間を出ようとしたとき…。


「鈴瑠っ!!!」


 竜翔の声が届いた。


「ちっ…まずったか…」


 侵入者は辺りを見回すが、見張っていたはずの仲間の姿がない。

 もう一度舌打ちをすると、祭壇の間へ引き返す。


 本宮内部からの情報で、祭壇の裏に大きなテラスがあることは知っている。そこから裏の山脈へ抜けられるはずなのだ。


 侵入者は、よもやそこで退路が尽きるとは、思いもしない。


 祭壇の裏は確かに広大なテラス。

 その正面は確かに山肌。


 しかし、その手前には…目もくらむような断崖が口を開けているのだ…。


 そう、本宮は、正面さえ固めれば良いように、断崖を背に造られているのだった。


 しかし、それは奥の祭壇へ出入りできる限られた人間のみが知ることである。




「何者だっ! 鈴瑠を離せっ!」


 竜翔が太刀を振りかざす。 

 その切っ先に侵入者はジリジリとテラスへ追いつめられ…。

 そして、当てにしていたはずの退路がないことに気がついた瞬間、手にした刀を鈴瑠の喉に当てた。


 口を塞がれた鈴瑠の意識は、すでに朦朧とし始めているように見える。


「…鈴瑠…っ」


 動きを止めた竜翔に、侵入者はひんやりとした笑いを向け、口を開いた。


「こいつが可愛ければ、その大げさなものを捨ててもらおうか」


 手にした太刀を、竜翔がグッと握りしめる。

 あの刃が、鈴瑠の白い首に刺さりでもしたら…。


 しかし…。


「ふん、本宮ご執心の子供だって聞いてたが、そうでもなさそうだな」


 侵入者の笑いは酷薄さを増していく。 

 そして、刀が僅かに鈍い光を放ち、同時に鈴瑠の首にうっすらと赤い筋が入った。


「鈴瑠っ! ……やめろっ、鈴瑠から手を離せっ」


 声を上げた竜翔に、侵入者の言葉が被る。


「へぇ、命令できる立場だと思ってんのかよ。…ちょうどいいぜ、こいつをさらってくるついでに、できれば本宮も殺ってこいって言われてんだ…」


「そ…そんな話は聞いてないっ」


 突然竜翔の後ろで声が上がった。


 駆けつけた泊双の後ろで、つい最近本宮の表宮殿に仕えたばかりの若い執務官が叫んだのだ。


「その子をさらう手引きだけという話だったはずだ! 竜翔様に危険は及ばないと…っ」


「馬鹿か、お前」


 侵入者は呆れたように肩を竦める。


「さぁ、お遊びはおしまいだ。刀を捨ててもらおうか…本宮様…」


 竜翔の手から力が抜ける。


「いけませんっ、竜翔様っ」


 背後からかかった泊双の声に、ギリッと唇を噛んで、竜翔は刀を投げ捨てた。


「鈴瑠を…帰せ…」


 地の底を這うような竜翔の怒りの声に、侵入者は一瞬怯んだが、鈴瑠の首に当てた刀をさらに押しつけ、竜翔をテラスの手すりに追い込み始めた。


「飛び降りるか、斬り殺されるか…好きな方を選ばせてやる」


 侵入者が嬉しそうな笑みを見せたとき…。


「早くっ」


 泊双が警護の兵を招き入れた。


「くそっ…」


『これまで』と察したのか、鈴瑠の首筋を狙っていた刀が、今度は竜翔の首筋を狙った。  


「一人で死んでたまるかよっ」


 叫び声と共に、引いた刀が再び突かれたとき…。


「竜翔っ」


 ぐったりしていたはずの鈴瑠の身体が、波動を発して翻った。


 全身から放たれる浄い『気』が、残っているはずのない力で、刃が狙いを定めた竜翔を突き飛ばす。




「あ………」


 一瞬の静寂の後、鈴瑠が小さく声を上げた。

 そして、追いつめられていたテラスの端から、祭壇の間へ突き飛ばされた竜翔が、顔をあげて見たものは…。




「り…んりゅ…?」


 テラスの手すりに乗り上げた鈴瑠の小さな身体に、侵入者の巨大な身体が突き刺さるようにのしかかっていた。


 純白の衣に、真っ赤な筋が流れ落ちる。


 それは、次第に太く、赤く…。

 足元に広がっていく深紅の水鏡…。


 鈴瑠が押しつけられている手すりの向こうは、もう帰る術のないところ…。

 目も眩むほどの下方には、山からの清流を麓に運ぶ大河が流れ…。



「ごめ…ん…りゅう……か…」


 喘ぐように、鈴瑠が言った。


 巨大な暗殺者の身体は、自らの意志をなくしたように、さらに重く鈴瑠にのしかかる。



『ずるっ』


 不快な音と共に、小さな身体が宙に躍り出る。

 大きな体は、その場に崩れ落ちた。


「鈴瑠っ!!」


 とっさに竜翔が掴んだのは、鈴瑠の衣の裾。

 しかし…。



「鈴瑠――――――――――――――!!!」



 深い谷が、大きく口を開けて迎え入れる。


 深紅に染まった鈴瑠の身体と、喉が切れるような、竜翔の叫び声を…。




(ごめんなさい…竜翔…。ずっと傍にいると誓ったばかりなのに…)



 胸を刺し貫いた衝撃の後、すべての暖かいものが、裂けた体から外へ流れ出すのを感じる…。


『気』『血』『力』そして…この『想い』…。 




(りゅ…うか…、りゅ……う…)




「鈴瑠! 鈴瑠!!」


 竜翔は狂ったように鈴瑠の名を呼び続ける。


「いけませんっ、竜翔様!!」


 泊双を始め、多くの兵たちが竜翔の身体を抱き留める。

 そうでもしなければ、今にもテラスから身を躍らせそうなのだ。


「今すぐ麓へ兵をっ。下流を探すんだっ」


 命令を下したのは泊双。

 同時に暴れる竜翔の鳩尾に、やむを得ず拳を突き入れる。


 遠ざかる意識の中で、竜翔は繰り返し呟いていた。


(鈴瑠、すぐ助けてやる…死ぬな、絶対に死ぬんじゃない!)




 その頃、花山寺と創雲寺では、籠雲と大座主がそれぞれに、不思議な光の蹟を夜空に見出していた。


(鈴瑠…?)


 ふと、鈴瑠が呼んだような気がした。


(どこへ…行く…?)


 不吉な思いが現実だと知らされたのは、それから数刻の後だった。





 断崖を落ちたはずの鈴瑠の捜索は幾日も続けられた。 

 しかし、鈴瑠の姿は、もう、どこにもなかった。

 残されたのは、大量の血と、純白の衣の僅かな切れ端、そして…空へ伸びる真っ直ぐな光の蹟。



 数刻の後、目覚めた竜翔は焦点のあわない瞳のまま、血に染まった純白の小さな切れ端を、愛おしそうに抱きしめるばかり…。 

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