第4章「恋人たち」


1.逢瀬の時



「早くしろ、鈴瑠りんりゅ!」


 今日も竜翔りゅうかがやって来た。

 秀空しゅうくうも嘶きを上げ、鈴瑠を呼ぶ。


 そんな騒がしい門前に向かって、鈴瑠が声を返す。


「お待ち下さい、竜翔様!」

 その後に、『もうっ』と続け、ぷうっと頬を膨らませる。


 花山寺の門前ではどこに人の目があるかわからない。

 だから、一応は『竜翔様』と呼ぶのだが、その態度がどうみても釣り合っていないことに、鈴瑠は気付いているのか。


 竜翔はいつも、執務が終わったとたんに、秀空を駆って、花山寺を訪れる。

 鈴瑠はたった今、夕べの祈りを終えたばかりだ。

 見習い僧が着る萌葱色の僧服から、普段着に着替える間もない。


 竜翔はちゃんと、夕べの祈りを済ませてきたのだろうか。

 一度、問いただしてみよう、と考えつつ、上着に袖を通しながら部屋を後にする。


「お待たせいたしましたっ」


 その声は半ば、やけくそ気味である。

 しかし応える竜翔はお構いなしのようだ。


「遅いぞ、鈴瑠」


 言うや否や、竜翔は鈴瑠を、馬上の自分の前に引っ張り上げる。


「しっかり掴まっていろ!」


 目指すはいつもと同じ、静泉溜の森。


「相変わらず軽いな、鈴瑠は」


 駈けながら、竜翔が言う。

 鈴瑠はしがみつくだけで精一杯だ。

 振り落とされまいと、胸にしがみつく鈴瑠が愛おしくて、さらに竜翔は速度を上げる。


 どれだけ駈けただろうか、やがて泉に着いた。

 しかし、それは森の名にもなっている、静泉溜ではない。


 もっと奥に湧く、誰も来ない、二人だけの場所。

 名もない小さな泉。

 竜翔は先に降りると、鈴瑠に手を差し伸べ、その軽い体をゆっくりと降ろす。


「もうっ、竜翔ってば…」


 しがみついていただけなのだが、鈴瑠の息は少し荒い。

 そして竜翔の表情は、人前では決して聞くことの出来ない、鈴瑠が甘やかに『竜翔』と呼ぶ声を耳にするだけで、この上もなく柔らかになるのだ。


「鈴瑠…」


 竜翔の声が、耳元で聞こえる。

 鈴瑠の後頭部に回った竜翔の手から、黒髪がサラサラと流れ落ちる。

 創雲郷とその周囲の里の人間は、概して栗色や赤褐色の髪の者が多い。

 竜翔や泊双など、本宮の人間は、都の血を引いている者が多いので、栗色より濃い茶色の髪が主だ。


 いずれにしても、鈴瑠のような濡れたように黒い髪の者はほとんどいない。

 瞳の色も同じだ。


 竜翔はいつも、この目で見つめられると、己の内に沸き上がる甘い疼きを自覚する。

 そして、耐える。


「竜翔…」


 目を閉じると降ってくる、いつもの温もり。

 納まりきっていない息は、それだけでまた、呆気なく上がってしまう。

 もう、何度も経験した感覚なのに、まだ、慣れない。


 初めて唇が触れたのは、もう、二年も前のこと。


 籠雲に伴われ、数日置きに本宮を訪れるようになってから、三年ほどたったときのことだった。


 十八歳になろうとする竜翔の、婚儀の日が迫っていた。


 その時の竜翔の様子は、今でも鈴瑠の記憶にはっきりと焼き付いている。


 まだ、『竜翔さま』と呼んでいた、あの頃…。



2.初恋


「竜翔さま…?」


 背後から遠慮がちにかかった声に、竜翔はハッとしたように、肩を震わせた。

 声の主は、今、竜翔の心をもっとも占める……。


「鈴瑠…」


 夕べの祈りが終わった頃か、創雲郷のあちこちから、香の気配に代わり、今度は夕餉の支度の煙が上がる。


 本宮の執務の間。広いテラスから郷を見おろすことが、今、竜翔の心を一番癒す行為になっている。

 見おろす視線の先は、いつも、花山寺。


 鈴瑠がやってきたのは実に十三日ぶりのことだ。


 初めて出会った日から三年。

 会わない日といえば、長くても中二日だったのだが、珍しく鈴瑠が風邪を引き、竜翔にうつしてはいけないと言う配慮から、長く辞していたのだ。


「調子は…もういいのか?」


 鈴瑠の姿を認めたとたん、竜翔は愛おしそうに眼を細める。


「長く逢えなくて、寂しかったぞ」


 その声は力無く、語尾には影が落ちる。


 鈴瑠は僅かに眉をひそめた。

 普段の竜翔、鈴瑠のよく知る竜翔なら、こんな弱気なことを言うはずがない。


「竜翔さま…本当に、元気がない…」


 いいながら、不安そうに鈴瑠が歩を進めてくる。


 十三歳になった鈴瑠は、初めてあった頃に比べるとずいぶん大きくなった。


 しかし、やはり小柄で華奢な造りであることには違いなく、十日の後に十八歳を迎える竜翔に並び立つと、相変わらず、大人と子供といった風情のままだ。


「鈴瑠…」


 竜翔はもう一度名を呼ぶと、鈴瑠をその腕に抱き上げようとした。

 だが、鈴瑠はクスッと笑って、抗う。


「ダメです。僕はもう大きくなったんですから、抱っこなん…」


 言い終わる前に、抱き上げられていた。


「竜翔さま!」


 驚く鈴瑠に、竜翔はまた寂し気に微笑みを漏らす。


「すまないが、今だけ静かにしていてくれないか」


 そう言うと、軽々と抱き上げたまま、豪奢な布張りのイスに深く腰を下ろした。

 膝の上には、鈴瑠。


 その鈴瑠は、竜翔の見せる、あまりに精気のない顔に不安を募らせる。


 眠っていないのだろうか…。

 しかし、疲れている様子とは裏腹に、鈴瑠を抱き留める腕には力がこもる。


(籠雲さまのおっしゃったとおりだ…)


 ここしばらくの竜翔の様子を案じた泊双が、籠雲を呼び、そして今日、全快した鈴瑠が薬草を運んできた。


 薬草は今頃、泊双の指示で煎じられているはずだ。


 膝の上の鈴瑠の首筋に顔を埋めたまま、竜翔は顔をあげようとしない。

 時折り吐かれる熱い息が、鈴瑠の首を掠めていく。

 まるで発熱しているかのような、熱い息。

 しかし、頬に当たる竜翔の額からは発熱は感じられない。


 その事に、ほんの僅か安堵するが、それでも鈴瑠は、ただならぬ竜翔の様子に心を痛めていた。



 まもなく十八歳になる竜翔。

 その生誕祭の日に、都から天子の姫を后に迎えることになっている。


 今、もっとも輝いているべきはずの、竜翔のこの様子は、いったいどうしたことなのか。


 鈴瑠はそっと手を挙げた。

 竜翔の頬に、ほんの少し、触れてみる。

 触れただけでは、心の内などわかろうはずもないが、それでも触れずにいられなかった。


 しかし、その僅かな感触に、竜翔が動揺を見せた。

 その動揺に驚いて、慌てて鈴瑠が手を離す。


 …が、その手は竜翔に捕らわれてしまった。


「………っ」


 ぶつかった視線に、鈴瑠が息を呑む。

 まるで、手負いの動物のように、追いつめられた瞳。

 しかも、その輝きは暗く、鈍い。


「竜翔さ…」


 思わず名を呼んだが、最後の一文字は、消えていた。

 確かに鈴瑠は発声したのだが、それは、竜翔の胸の奥深くに吸い込まれていった。

 唇が触れている。

 それも、深く。


 鈴瑠が大気を吸い込む隙間は、何処にもない。

 抗う気配のない鈴瑠に、竜翔はさらに深く口づけて、その身体をきつく拘束する。


 鈴瑠は事態を把握できぬまま、本能的に身体を固くするばかり。

 抗わないのではなく、抗うことを忘れているのだ。

 それほど竜翔の行動は、鈴瑠の理解を越えていた。


 ややあって、竜翔の手が鈴瑠の脇腹を滑った。

 その動作に、初めて鈴瑠の思考が動き始める。


 手は、そのまま鈴瑠の上着の裾から忍び込んできた。 

 その刹那、耳元で、鈴が転がったような音が鳴る。

 同時に鈴瑠の身体が大きく震え、突如沸き上がった渾身の力で竜翔の身体を押し戻す。


「りゅ…う…」


 もう、肺に息が残っておらず、鈴瑠は竜翔の名さえ満足に呼べない。


 瞳に溜まる涙は、肉体的な苦しさによるものなのか、それとも、竜翔から与えられた突然の仕打ちによるものなのか、荒く息を継ぐ鈴瑠には、すでに判断がつかない。


「婚儀など…なくなってしまえば…いい」


 息をつく間に、再び激しく拘束された鈴瑠の耳に、信じられない言葉が届いた。


(え…?)


 そして、鈴瑠がその言葉をもう一度反芻しようとするより早く、竜翔が再び言葉を吐いた。


「鈴瑠…お前が…」


『パタン』

 僅かな音を立てて、扉が開いた。


 この扉を、主の応答なく開けることが許されているのは、籠雲、鈴瑠、そして泊双の三人だけ。


 しかし、籠雲は、いかなる時でも必ず応答を待つ。泊双もまた然り…だが。


 扉の外から呼びかけられたことに、主が気づかなかったのか。



「竜翔さま…」


 僅かに困惑の色を乗せた、しかし、重厚な泊双の声が主を呼んだ。

 鈴瑠は、弾かれたように竜翔の膝から飛び降りる。

 そして、上着の裾の乱れを認め、顔がカッと火照るのを覚えた。


 近寄ってくる泊双の顔が見られない。

 落とした視線の先に、泊双の足先が見えた。


(叱られる…!)


 そう感じて身を固くした鈴瑠の頭上に降ってきたのは、思いもかけず柔らかい声色だった。


「鈴瑠…」


 大きな手のひらが鈴瑠の頭を包む。

 思わず顔をあげた鈴瑠に、泊双は微笑んだ。


「竜翔様に、薬湯を…」


 手にした椀を鈴瑠の手のひらに載せる。

 すでに飲みやすい温度にまで下げてある。


「鈴瑠が自ら調合して参ったのであろう?」


 泊双の微笑みは偽りではないようだ。

 頷くと、鈴瑠は両手で椀を、竜翔の前に捧げだした。


「…ありがとう、鈴瑠…」


 力無く呟くと、竜翔は椀を取り、ゆっくりと飲み下した。量はさほど入っていない。

 きれいに空になった椀を、泊双が竜翔の手から取った。


「竜翔様、ただいま都より使者が参りまして…」


 その言葉に、鈴瑠はハッと顔をあげた。

 大切な話が始まるのだ。子供の自分がいて良い場面ではない。

 籠雲に育てられた鈴瑠には、こういう躾けは十分に行き届いていた。

 黙って膝を折り、その場を辞そうとするが…。


「鈴瑠…かまわぬ。ここにいなさい」


 言ったのは、竜翔ではなく、泊双。

 鈴瑠は驚きを隠しきれない。

 普段の泊双はとても優しいが、教育係として、また本宮の片腕として厳しい人であることには変わりがない。


 竜翔も少し驚いたようである。

 泊双の顔をジッと見上げている。



芙蓉姫ふようひめ様…ご病気の知らせにございます」


 竜翔が音を立てて椅子から立ち上がる。

 鈴瑠は思わず声を上げそうになった口を、その小さな両の掌で覆い隠した。


 芙蓉姫…この国を統べる、天子の姫。


 竜翔よりも一つ年上で、竜翔の母が、天子の妹であるために、従姉に当たる。


 そして、まもなく執り行われる婚儀のもう一人の主役。


「すぐお命に関わるほどではなくとも、御容態は思わしくないとのことです」


 泊双の言葉は、意外なほどに、事務的に紡がれていく。


「婚儀…は?」


 竜翔の震える声に、鈴瑠は思わず涙を溜める。

 突然もたらされた、許嫁の凶報に竜翔が動揺したと取ったのだ。

 しかし、その直後、先刻の竜翔の言葉が蘇る。


『婚儀など、なくなってしまえばいい…』


「ご婚儀は延期。…無期限です」


 落胆の色が全くない泊双の物言いに、鈴瑠は状況を判断する作業をやめてしまいつつあった。


(どうして…?)


 泊双は、竜翔と芙蓉姫の婚儀に反対だったのだろうか?

 そして、何より…竜翔は…婚儀を嫌がっていたのだろうか?


 何故?


 芙蓉姫は心優しい、美しい姫と聞く。

 しかも、二人の婚儀は遙か昔からの取り決め。


 もう一度、竜翔の顔を見ようと鈴瑠が顔を向けたとき、竜翔は力強く鈴瑠の頭を一撫ですると、くるりと踵を返した。


「夕べの祈りに参る!」


 弾んだ声でそう告げると、祭壇へ通じる大きな扉を開け放ち、軽い足取りで行ってしまった。



3.泊双


「竜翔…様…」


 呆然と見送る鈴瑠の傍らに、泊双が片膝をついた。


 やはり大きな泊双と、小柄な鈴瑠。

 立ち尽くす鈴瑠は、ほんの少し下になった泊双の目線に気づく。


 竜翔の教育係、そして本宮の片腕。

 竜翔とはまた違った美しさを持つが、その落ち着いた容貌は、年齢よりも少し上に見られることが多い。


 しかし、竜翔より十歳上の、まだ二十八歳。


 竜翔がその生涯を終えるまで側に仕えると、十歳の頃…、そう、竜翔が生まれたときに創雲寺にて誓約をした。

 一つ年上の籠雲とはその時以来の心許し合える仲だ。

 

 大きな手のひらが、鈴瑠の細い肩にそっと掛かる。


「鈴瑠…お前は竜翔様が好きか?」


 相変わらず優しい物言いだ。

 鈴瑠は迷わずに頷く。


「はい」

「どのように好きか、わかるか?」


 鈴瑠はその問いに、僅かに眉を寄せる。


「どのように…?」


 呟いたまま答えを返せなくなった鈴瑠に、泊双はさらに声をかける。


「先ほど、鈴瑠は竜翔様の膝の上にあった。その時の竜翔様は好きか?」


 言われて、頬がカッと上気する。


 そうだった。芙蓉姫の知らせですっかり失念していたが、つい先刻、鈴瑠は竜翔の膝に抱かれて、口づけされていたのだ。


「あ…あの時の竜翔さまは…」


 言い淀む鈴瑠に、泊双は笑みを絶やさず、辛抱強く次の言葉を待つ。


「すこ…し、怖かった…です」


 言ってしまって俯く鈴瑠。


「ああいった竜翔様は嫌いか?」


 泊双の口からでた言葉に、鈴瑠は小さく身体を震わせた。


 顔をあげて、首を横に振る。何度も。

 嫌いではない。嫌いなはずがないのだ。


 泊双が小さく笑ったような気がした。


「鈴瑠、また明日おいで」


 そう言って、立ち上がる。


 鈴瑠は、竜翔が開け放したままの扉に目をやった。

 竜翔の様子が気になる。


「大丈夫だ。竜翔様はお元気になられる。明日からまた、しっかりお相手をするのだぞ」


 確信を持って告げられた泊双の言葉を、鈴瑠は素直に信じた。


「そろそろ日が暮れる。気をつけて帰るのだぞ」



 鈴瑠が辞したあと、泊双はらしくもなく、大きく一つ嘆息した。

 竜翔がふさぎ込む理由はわかっていた。


 初めてあった日から、若き統治者の心は鈴瑠に釘付けにされている。

 鈴瑠しか心にない。

 竜翔らしいといえばそれまでだ。


 后を迎えてもなお、鈴瑠を側に置くことは叶う。

 そう言った意味では、むしろ鈴瑠が女性でなくてありがたいくらいだ。

 しかし、自分の教育の賜といって良いのか、竜翔は一度に複数の人間を愛せるようには育たなかった。


 竜翔が欲しているのは、鈴瑠ただ一人。

 芙蓉姫には申し訳ないが、今しばらくは時間稼ぎになった。


(仕方があるまい…)


 今、一番先にせねばならないこと。

 それは、竜翔に釘を刺しておくことだろう。


 鈴瑠が、この郷において大人と見なされる十五歳に達するまで、あと二年。

 いくら、郷の最高権力者とは言え、大人になっていない者に手を出すことは絶対に許されない。 


 それだけはきつく言っておかねば…。


 そう思い、竜翔が祭壇から戻るのを待つ。

 ふと、夕闇の迫るテラスに目がいった。


 見おろす先に、花山寺。


 泊双は先ほどよりさらに大きく、心底憂鬱そうに嘆息する。


(籠雲に…なんと言えばよいのだ…)




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