第6章「見えざる手に導かれて」
1.夢見
高地の強い日差しは、薄いカーテンなどでは遮れきれず、早朝だというのに部屋の中はかなりの室温になっていた。
夜は冷えるため、空調を切って眠った。
そのため、日の出と同時に上がり始める外気温に合わせて、室温もうなぎ登りだ。
「歩…あゆみっ」
かなり揺すられてやっと目覚めた歩は、この暑い中、それでも自分の身体を離さない龍也の腕の中で、全身汗だくで呆然と目を開けていた。
「歩、大丈夫か? ずいぶんうなされていたぞ…」
パジャマが身体に張り付いて気持ち悪い。
「気持ち…わる…」
そう呟くと、龍也は慌てて歩から離れた。
「これだけ汗かいたら気分悪いに決まってる」
そう言ってから、気温だけでなく自分が歩を抱きしめていたことも、その汗の原因の一つであることに思い至り、苦い顔をする。
すぐにエアコンのスイッチを入れ、小さな冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルをとりだした。
キャップを外しながらベッドの端に腰掛ける。
「ほら、歩、あるだけ全部飲め」
差し出されたボトルを素直に受け取り、口を付ける。
冷えた水が喉を通る度に、生き返るような気がする。
そう…生き返るような気が…。
酷い夢だった。
見たこともない場所、知らない人たち…。
それらが自分の人生に深く関わり、愛し、愛され、そして理不尽に死んでいく…。
きっと、旅の疲れが見せた『あり得ない世界』だったのだろうと、歩は思う。
それでも『あの場所の空気』は、自分が今いる場所の空気と酷く似通っていて、歩は小さく首を振る。
『あるはずのないこと』
それをわざわざ自分に言い聞かせねばならないほどに、昨夜の夢は歩の中を侵食している。
やっと全身に潤いが戻ったのか、歩は満タンだったボトルのほぼすべてを飲み尽くしてやっと、息をつく。
「歩、どうせだから全部飲んどけ」
そうは言われたが、これ以上飲むとまた苦しくなりそうだ。
「もう…いい…」
そう言って顔を上げ、龍也を見る…。
それは、不安げな表情を見せる、見慣れた顔で…。
『竜翔…』
誰かが、歩の頭の中で呟いた。
(竜翔…)
その名を今度は自分で呟いてみる。
(そうだ…昨夜の夢の…)
断崖を落ちていく自分の名を、狂ったように叫んだ人。
(自分の名前…?)
『鈴瑠…』
また、誰かが頭の中で呟いた。
そうだった。
昨夜の夢に出てきた人々の中で、自分を愛してくれた人、その人は知っている顔だった。
「龍也…」
目をジッと合わせたまま、歩は龍也の名を呼んだ。
確かに同じ顔だ。
瞳の色も髪の色も、まったく違うが、それでも同じ顔。
そして…。
「どうした? 歩、まだ辛いか?」
声も…同じだ。
歩は小さく笑った。
長旅の疲れと今日から始まる発掘調査への期待、そして一晩中いた龍也の腕の中。
それらがあんな夢を見せたに違いない。
そう思うと寝覚めの悪い夢も、不思議と滑稽に思えてくる。
自分も結構ロマンチストなんだと、今度は自分を小さく笑った。
「なんだ? 変なヤツだな」
そう言いながらも、龍也は元気を取り戻した歩にホッと安心をする。
「それにしても酷い汗だったな。お前、普段あんまり汗かかないのにな」
「………龍也…何してんの?」
「は?」
龍也の指は、器用に歩のパジャマのボタンを外し始めていた。
「何って…。濡れたパジャマじゃ気持ち悪いだろうと思って…」
当然でしょう…と言いたげな龍也の顔面に、歩は手にした枕をぶっつける。
「うわっぷ」
「あのねっ、パジャマくらい自分で脱げますっ」
龍也が怯んだ隙に歩はベッドを飛び降り、さっさとシャワールームに入っていく。
体を伝う少しぬるめの湯が、何もかも流してくれたような気がした。
2.夢の跡
「ほんとに図面で見たとおりだ…」
かなり大きな遺構を前にして、歩が言った。
「歩、どうだ、念願の現地調査は」
肩を抱いてきたのは、この遺跡を発見し、一躍考古学会の第一人者となった阪本紘一教授。
弱冠三十八歳の若き教授だ。
その教授が著書で紹介した、遺構とその復元予想図。
それがそのままの姿で歩の前に現れた。
遺構を見ただけで、まるで実際に見たかのように復元予想図がCGさながら、脳裏に蘇る。
それは、まさに歩が中学生の頃から夢に見てきたまま。
「これも寺院跡でしたよね」
「そうだ。このあたりは信仰地だと思われるから、寺院の数も並ではないが、恐らくその中でも最も大きい寺院だろう」
教授は慎重に、掘り進まれる遺構に降りる。
そして、歩に手を差し伸べる。
「ほら」
「えっ、先生、大丈夫です。これくらいの深さ…」
「いいから、手を貸せ。お前に怪我でもさせたら、私があとから龍也に恨まれる」
教授は強引に歩の手を取り、引き寄せると、その華奢な身体を抱き留めて慎重に自分の側に降ろした。
「すみません…」
そうなのだ。阪本教授は何故かいつも、歩を大切にしてくれる。
それはもう、女の子扱い…といっても過言ではないくらいに。
だが、他の学生の扱いが雑かと言えばそうでもない。
ただ、その中でも歩だけが特別…と言うことになろうか。
そして、何かというと、龍也との仲を取り持とうとするのだ。
コンパとなると隣の席に座らせ、研究会と言うと学年が違うにも関わらず一緒に組ませ、そして…今回の『ホテルの同室』だ。
歩は教授の整った横顔を見上げる。
そして、また一つ、笑いの漏れるようなことを思い出した。
阪本もまた…夢に登場していたのだ。
彼は夢の中でも優しかった。
いつも何かと気を遣ってくれて、そして…愛しい人との仲を…そっと応援してくれていた…。
だが、夢の中の立場と、現実である『教授と学生』とのギャップが、また歩の笑みを誘う。
(たいした想像力だな…僕も…)
昨夜見た夢で、小説の一つも書けるのではないだろうかというくらい、リアルでドラマチックな経験だった。
歩は降り立った遺構から、山の方を見上げる。
大陸の中央部でよく見られる、標高の高い山特有の姿。
その山は…。やはり見覚えがある。
昨夜、夢の中で見た山だ。
しかし、それは違うだろうと、歩は思い直す。
きっと過去に資料写真の中で見たのだ。だから、あの山が出てきたのだと。
けれど、自分が落ちていく断崖の向こう…そこに見えていたのが、あの、山肌。
未だに体に残る『落ちていく感覚』を思い出して、歩は僅かに身を震わせた。
「先生…」
小さな声で阪本を呼ぶ。
「どうした、歩」
真横に立って、歩の視線の方向を見る。
「あの山の手前って、もしかして崖ですか?」
そうだ…といわれたら気持ちが悪いなと思ったのだが、こうなると訊ねずにはいられない。
しかし、阪本の返事は意外なものだった。
「いや…。少なくとも『今』は違うな」
「今、は…?」
「ああ、今はここからあの山の麓までは地続きだ。だが、かなり地形に変化の跡があるんだ」
その目は、いつもの阪本教授。彼はこの遺跡群を語るとき、少年のように目を輝かせる。
それは歩も龍也も大好きな目で、そして、自分たちもまた同じように目を輝かせるのだ。
「地形の変化…」
「実は以前の地形がどうだったかはまだはっきりしていないんだ。ただ、何か大きな変動があったことは間違いないと思う」
そこまで言うと、阪本は歩を見た。
「歩…なぜ崖だと思った?」
理由を問われるとは思わなかった。
当然、問われた歩は狼狽える。
歩はただ、夢に見たままを口にしただけなのだから。
しかし、そう答えるわけにはいかない。
これは、『学問』なのだから。
「あ…あの…。ただ、なんとなく…」
なのに、口から出てしまった答えはそれ以上に『学問』には似つかわしくなく、歩は首を竦めた。
怒られる…と覚悟を決める。
『ただ何となく』などという言葉は、学問の世界には通用しないのだから。
「歩…かまわないから思うままに言ってみろ。遺跡の発掘なんてのは、何もないところにでも希望を持てるヤツにしかできない。まずあるのは『もしかしたら』という何の確証もない希望だけだ」
歩の怯えを見て取ったのか、阪本は優しい顔で歩を見つめる。
その瞳の優しさに安堵し、そして、歩はその言葉に押されて、自分の考えを言った。
「あの山の手前に…何かあるんじゃないか…って…」
「何かとは? 建物跡か?」
歩が小さく頷くと、阪本も小さく唸った。
「…やってみるか…」
その言葉に歩は慌てた。
「ちょ…待って下さい、先生っ。僕のは何の根拠もない…」
「実はな…」
歩の言葉は遮られた。
「昨年、衛星からこのあたりの写真を撮ったときに、大きな地盤沈下の痕跡が確認されたんだ。 私がこのあたりの文明が滅びたのは天変地異じゃないかと言っているのは、お前も知っているとおりだが、この説は実は学会では歓迎されていない。 突然の天変地異に見舞われたのなら、これだけの規模の街だ、もっと多くの人たちが埋まっていてもいいはずだからな。 だが、今までに発見されたのは、この最も大きな寺院跡から発掘された、ほんの数体の遺骨だけだ。けれど、龍也はこの説を熱心に支持してくれる」
それは、歩も龍也の口から何度も聞いたことだ。
「だから…あの山の麓が以前は崖で、そこに何かが埋まっているとしたら…」
そこまで言って、阪本は再び歩を見た。
歩は、今度は大きく頷いた。
それは、『天変地異説の重要な根拠』となり得るのだ。
そして、結果はあっさりと出てしまった。
歩が『なんとなく』決めた場所から、巨大な柱跡が見つかったのだ。
その規模からして、今まで最大とされていた寺院跡をはるかにしのぐ建造物であることがわかった。
しかも、少し掘っただけで、寺院群とは様式がまるで違うことまでが判った。
それは、この地から約百キロ以上も離れたところで発掘されている同年代の宮殿様式の遺構に酷似していて…。
新たな遺跡の発見は即日ニュースとなって世界中に配信されたのだが、その慌ただしい動きを、歩はただ呆然と見守るしかなかった。
あまりにも偶然が過ぎる。
日が落ち始める。
このあたりは昼夜の気温差が激しい。
「さむっ…」
昼の太陽にたっぷりと汗をかかされ、じっとりと濡れたTシャツは、夕方の風を受けて、ひんやりし始めた。
「歩、着替えないと風邪ひくぞ」
そう言って龍也は乾いたタオルを持って歩の側へ来た。
「ほら、脱いで」
そう言ってTシャツに手をかける。
いつもならここで…たいがい張り飛ばされるのがオチだ。
だが…。
「うん…」
そう言って、歩はされるがままになっている。
(うそ~)
思わぬ展開に、龍也の方が焦るが、それでもこの美味しい機会を逃す手はない。
「待ってろ。今、身体拭いてやるからな…」
今日一日で少し陽に焼けた、華奢だが健康的な歩の身体は、今の龍也にとって、思いっきり目の毒だ。
だが、ここで押し倒すというわけにはいかない。
なんと言っても歩は疲れているのだ。
下手なことをして、取り返しのつかない事態になることだけは避けなくてはならない。
「龍也…」
歩は頼りなげな声で、龍也を呼ぶ。
「ん? どうした?」
龍也は身体を拭く手を止めて、その華奢な身体をそっと抱きしめる。
「僕…怖い」
それはかなり意外な言葉だった。
考古学を目指す者にとって、遺跡の発見は生涯に一度あるかないかの出来事だ。
そして、その幸運に出会ったとき、誰もが驚喜し、興奮し、得意になる。
その状況に、学生の身分で遭遇してしまった歩は、喜びよりも先に戸惑いを覚えてしまったというのだろうか。
「僕がどうしてあそこに立ったと思う?」
歩が抱きしめられたままで問う。
「ここだ、と思ったんだろ?」
何でもないように龍也が答える。
「僕…夢を見たんだ…」
歩は昨夜見た夢をかいつまんで話した。
もちろん、龍也や阪本が出てきたことなどは話さないのだが。
ただ、ここに大きな郷があり、多くの人が生きていた。
そして、あの山の麓には大きな宮殿。
その向こうは…崖…。
龍也は何も言わずにジッと歩の話を聞いていたが…。
「歩さぁ、教授がここを発見したときの話、知ってるだろ?」
それは著書でも読んだし、本人からも何度も聞いた。
「僅かな根拠でここを訪れた時、『もし何も出なければ莫大な借金だけが残る』…そんな状況の中でも、なぜか悲壮感も何もなかったって」
歩は龍也の顔を見上げて頷く。
「俺さ、思うんだ。きっと、遺跡が教授を呼んだんだって。…だから、今度のことも、遺跡が歩を呼んだんだと思ってる」
だから怖いんだ…と言いたかったのを歩は飲み込んだ。
「怖がるなよ」
その言葉に歩はハッとして、一度は伏せた顔を上げる。
「そもそも歩が考古学の世界に飛び込んできたこと…これ自体が偶然なんかじゃないと、俺は思う。 そして、俺とお前が出会ったのも、だ」
そう言いきられてしまうと、なぜだか逆らえない。
いつもは歩に甘い龍也だが、こんな風に自信いっぱいに言い切られると、やっぱり歩は逆らえないのだ。
夕食後、発掘チームのミーティングが行われ、詰めかけた記者たちの要請で阪本が記者会見を行うことになった。
歩も同席するよう言われたのだが、疲れが激しいことを理由に勘弁してもらった。
そして、今夜も龍也の腕の中なのだが、眠れなくて何度も何度も寝返りを打つ。
その度に龍也も抱き直してくれるのだが…。
「龍也…悪いから…僕あっちのベッドで寝る…」
自分のせいで龍也が寝られないのだと思い、歩は身体を起こそうとした。
「いいから…」
ここにいろ…と、小さく言って歩をもう一度抱き直す。
「お前が寝るまでつき合ってやるよ」
そうは言ってもらっても、この調子だと本当に今夜、眠れるかどうかわからない。
睡眠不足は発掘調査の大敵だ。
根気と集中力と体力を必要とする作業なのだから。
「でも…やっぱり眠るのが…怖い…」
正直にそう告げる歩の額に、龍也はそっと唇を落とした。
本当は、それなら俺が眠れるように疲れさせてやる…と言いたいところだったのだが、こんな様子の歩をつまらない冗談で怒らせたらあとがコワイ。
「大丈夫…俺がずっと側にいるじゃないか。変な夢を見たら俺を呼べ。必ず助けに行ってやるから」
出来るだけ深く静かな声でそう告げる。
そして、歩の身体を大きく包み、あやすようにゆっくりと背を叩く。
「ほら…目を閉じて…」
歩は言われるままに目を閉じた。
そして、しばらくは辛そうに眉を寄せていたが、やがて、静かに息をつき、規則正しい呼吸に入っていく。
「歩…愛してる…離さない…ずっと…」
龍也がそっと、歩の耳に愛を囁く。
言い聞かせるように、何度も、何度も…。
『鈴瑠…愛してる…離さない…ずっと…』
何もかもが寝静まった頃、優しい囁きと共に、香の気配が流れ込む…。
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