三度目の朝
目覚めてみると、朝だった。
布団を両腕に抱き込んだオレは、鼻水を啜り上げながら、子供のように涙で布団を濡らしていた。
どこかでスマホのアラーム音が聞こえる。つまり、午前六時だ。
目覚めた時に泣いている人間が往々にしてそうであるように、何故泣いているのか判らないまま、オレは声を押し殺してただ泣いていた。
何だろう? どうしてこんなに泣いているんだろう?───少し落ち着いて来て、ようやくオレはそれを考えた。
(ああ、そうだ。夢を見たんだ。何か、とても哀しい夢……)
今こうしていても、それが本当に夢だったのかどうかも判らないような夢を見た。その夢の中で、オレは靴を片方無くして、それから───。
「夢? 夢だったってか?!」
掛け布団を蹴散らしつつ、オレは跳ね起きた。
「そんなんアリかよぉ……」
声に出して言うと、それも無理もないと思えた。
最初のが夢。
次に見たのも夢。
だとすると、オレは夢の中で心臓が口から飛び出るような思いをして、何とか目覚めた次の夢の中で、友人殺しだの人生の終わりだのと騒いで浸っていたっていうのか?───情けないやら、ほっとするやらで、口から魂が出るほど脱力する。それほどに、『ただの夢』だとは信じ難いリアルな夢だった。
(いや、待て───本当にただの夢だったのか? もしかして、正夢ってことは……)
時計が刻む時間とはかなり感覚が違うだろうが、ずいぶん長い間、緊張と恐怖に揉まれたオレは、すっかり疑い深くなっていた。
もうこれ以上振り回されたくなくて、空元気を奮い立たせて新聞を取りに行くことにした。三度目のアンダーシャツとトランクス姿だったが、三度目の今回はスーツを点々と脱ぎ捨ててはいない。そのことが僅かな勇気にエネルギーをくれた。
ささっと取って来た新聞を乱雑に広げ、取り敢えず見出しだけを拾っていく───脱線事故の記事はない。
次にテレビを点けて、各ニュース番組をザッピングしながらチェック───こっちにも、オレやオレの友人に関する殺人事件のニュースはない。
普通に生活していれば、極当たり前のことだ。
そのことに、これ程安堵する日が来ようとは……。
残る問題は、やはり片方しかない靴だ。
「……よしっ!」
オレは掛け声と共に立ち上がり、急いでジョギングスタイルに着替え、スニーカーを履いて外へと出る事にする。
三度目覚めて、時間は同じ早朝六時。今のところ何も起こってはいないようだが、キーワードのように無くしたままの靴を、早めに回収した方がいいに決まっている。
夢の中の事件の原因で、オレの不安の根源になった靴を無事に取り戻せれば、今夜から枕を高くして眠れるってもんだ。
最寄りの駅まで徒歩二十分の距離も、全力で走れば十分程で着いた。
少し立ち止まって呼吸を整え、交通系ICカードを取り出して、駅構内からホームへ───ところが、自動改札の横にある職員詰所から声を掛けられた。
「申し訳ありません、お客さま」
「はい?」
「待合室でお待ちいただけますか? 現在、上下線とも運行を見合わせておりますので」
「急いでいるのですが、運行の見合わせって?」
後頭部から背中にかけて、冷たい汗が流れ落ちて行く。もはや、嫌な予感しかしない。
「まだ原因は判らないのですが、事故のようです。復旧の見通しもまだ立っていません」
今度は、一体何が……?
「お急ぎでしたら、車を使われた方がよろしいですよ」
オレの顔色が変わった事を困り果てた為と思ったのか、駅員は親切に言ってくれた。オレは、舌先で唇を湿らせながら、どうにか普通の声を出そうとする。それが成功したかどうかは判らない。
「そうですか、御親切にどうも───」
辛うじてそう言って、背を向け、タクシー乗り場に向かう。駅員の視線が背中に向けられているのは判ったが、オレにはそれに構っている余裕はなかった。
平静を装いながら構内の待合室を見回すと、なるほど、週末レジャーに向かうと思われる乗客達が、所在無げにあちらこちらにいる。
これらの事も、またオレのせいだったりするのだろうか?
「線路沿いに、池袋駅方面に行ってもらえますか?」
「承知いたしました」
愛想のない運転手が、無感動に答える。オレの要望も奇妙なものだったろうが、さすがにプロ、嫌な顔はしない。案外、近年は妙な客も多いのかもしれない。
線路沿いの車窓を眺めながらオレは、事故が起きたのはBが靴を投げ捨てた例の場所だろうと、当然のように考えていた。そう思うのは全部夢のせいで、その場所でさえなければ、あとは全部笑って済ませられる。けれども、もしその場所ならば───オレは何らかの係わりがあるのだろう。きっと……。
タクシーは、まだ目覚め切っていない街中を、淡々と走り抜けて行く。何といっても、週末の早朝だ。広い幹線道路や高速道路ならともかく、こんな時間から、商店街脇や住宅街を走っている車はほとんどいない。
着々と進むタクシーの車窓から何も見落とすまいと、オレは窓から目を離さなかった。
今度は何が起きているのだろう。
駅員は事故だと言った。本当の───ただの事故であってくれれば、どんなにいいだろう。日常的によく起こっている車両の不具合などの、ただのトラブルであれば───。
やがて、前方に予想していた───けれども、予想が当たっていて欲しくはなかった、クルクル瞬く赤い光が見えた。
「ここで、止めてください」
運転手は、即座に路肩に車を寄せた。オレが料金を払うと、「どうも」とだけ言って、見る間に去って行く。その事務的な無関心が、今のオレにはとても有り難かった。
運転手にしてみれば、極当たり前のことで、乗せる乗客に一々関心を寄せたりはしないのだろう。だけど、今日のオレ───本当のところをいえば逃げ出したい気持ちで一杯で、出来れば確かめたくはない、けれども確かめずにはいられない事に対峙しに行くオレにとっては、その無関心こそが感謝したいぐらい有り難かった。
乗って来たタクシーが見えなくなり、そこを動かずにいる理由が無くなると、オレは気が進まない足を宥めながら、ゆっくりと歩き始めた。何かが起こっているそこに向かって。
徐々に近づいてみれば、赤い光は一つではなく、線路の両脇の道路とその上を跨ぐ高架線に、幾つか並んでいる。言うまでもなく、灯台のように回る赤い光を掲げているのはパトカーだ。その中に、一台だけ救急車が混ざっていた。
オレは、全体の状況が見えるように高架線の歩道を選び、近所の住人が散歩をしているふうを装って、出来るだけぶらぶらと歩いて行った。
視線の位置が高くなると、線路が走る中の敷地の様子が見える筈だ。
高架線の上には、二台のパトカーと数人の警官、近所の野次馬が数人集まっていた。野次馬の目的は、オレと同じだろう。敷地内の様子が見たいのだ。
人の群れが近くになるにつれ、耳の中で心臓がどくどく鳴った。
急に空気が薄くなったように、呼吸が苦しい。
その場所に規制線は張られていなかったが、数人の野次馬は行儀よくパトカーを遠巻きにしていて、邪魔をする様子はない。濃紺の制服を着た警察官達は、メジャーやチョークを使ってコンクリートの上に何かを書いている。事故現場やドラマでよく見る状景だ。
オレは苦労して笑みらしきものを顔に張り付かせ、出来るだけ何気なく近くにいた高齢の男性に声を掛けた。
「事故でもあったんですか?」
「いえ───どうも自殺らしいよ」
手すりから下を覗きながら、あっさり答えてくれる。
思わず、安堵の溜め息が漏れそうになった。
事故でも事件でもなく自殺だというのであれば、どうやってもオレとは関係ないだろう。人の不幸を喜んではいけないが、オレの安心は喜んでもいいだろう。
「そこの、警察の人がいる辺りからですか?」
「多分ね。今朝見つかったのだけど、即死でしょう。この高さですから───全く、最近は誰もが死に急ぐ……どうしてでしょうね」
やりきれないように呟く男性に、警察官が一人近づいて来る。だからといって、オレが急に離れたら不審だろうと思い、その場所を動かないことにした。
「通報して下さった方ですね。お名前と住所、ご連絡先と、発見時のことを伺えますか?」
少しドキッとする。この高齢男性が第一発見者なのか。
男性は訊かれた自分の事を答え、訥々とその時の状況を語った。オレは特に追い払われなかったので、不自然ではない距離を保ったまま、話しに耳を傾けていた。
一時間ほど前、夜が明けて明るくなるのを待って、日課である散歩に出かけた。この高架の上から、真っ直ぐに伸びる線路を見るのが好きで、毎日しばらくの時間をここで過ごす。すると、いつもと違って、下の方でカラスが酷く騒いでいた為不審に思い、線路ではなく、高架線の真下を覗き込んだところ、青っぽいスーツの男がマネキン人形のように倒れていた。自分で確かめに行く勇気はなかったので、持っていたスマホで通報した───と、おおよそそういう内容だった。
青っぽいスーツ───そういえば今回、昨夜オレが着ていたブルーグレーのスーツは床に落ちて無かったが、どこかに掛けてあっただろうか? 見た覚えがない。
「お若い方だったんでしょう? 気の毒に……」
男性が言う。
「何故、若い人だと?」
警察官が怪訝そうに問う。
「何故って、あんな明るい色のスーツは、お若い方でないと着ませんよ」
それもそうかと警察官は軽く頷き、「ご内密に願いますが、二十五歳の会社員でした。詳細は、公式発表がありますからそちらで」と、潜めた声。
ギクリとオレの心臓が騒ぐ。
AもBも、オレも二十五歳で会社員だ。判っている。二十五歳の会社員など、日本全国に何万もいるだろうが、今朝のオレには特別なキーワードに聞こえる。そして、もっと重要なキーワードが───。
「一つだけお伺いしたいのですが、あなたがご覧になった時、革靴を見かけませんでしたか? ごく普通の通勤靴のような」
そう……靴だ。
「革靴ですか? いえ、特には……」
「そうですか。何も不審な点のない事件なのですが、ガイシャの靴が片方、どうしても見つからなくて。───では、ご協力ありがとうございました」
警察官が背を向けて去って行く姿が、遠く───酷く遠くに見えた。
全身の血が一気に引き、空が歪曲する。手すりに背中を預けている筈なのに、足元が崩れ落ちたかのように体を支えているのが難しくなる。
「靴……」
微かに呟いたオレの声は、がさがさに擦れていた。
「片方だけ靴が見つからないなんて、妙な話ですねぇ」
悪気のない高齢男性の言葉が、耳の中で変に反響した。
見たくない。
オレは、それを見たくない───けれど、見ないわけにはいかない。どうしても。
何かの糸で操られるように、オレは背後を、下方向を振り向いた。
地面が遠い。この場所はこんなにも高い。なのに、どうしてだろう───線路の周囲に集まっている人々の中央にあるモノだけが、妙に鮮明に見えた。
勿論、全貌が見えたわけではない。警察は、ちゃんとブルーシートで多くの視線を遮っている。オレに見えたのは、妙な角度に曲がった下半身の一部と、靴を履いていない足だけ。
けれども、それだけで判ってしまった。あれは───オレだ。
変わり果てた姿になってしまった、オレ。
ドッペルゲンガーという単語が、フリーズした頭に浮かぶ。
いつか、どこかで聞いた。時に人は、自分の分身に出会うことがあると───。では、あそこにいるのはオレの分身なのか? それとも、ダッシュはオレの方なのか?
ほぼ同じ場所に、同時に、死んでしまったオレと、まだ生きているオレが存在している。それは、隠された双子の兄弟ではなく、ましてや他人の空似でもなく、どちらも間違いなく本人だった場合───法律上のオレは、生きているのか死んでいるのか……。
フリーズした上、誤作動を起こしている思考は、およそ実用的ではない考察を迷走していた。
クローン人間でもない限り、同じ人間が同時に存在するというのは有り得ない。有り得ない事が起こった場合、警察を含む公的機関はどう動くのだろう? 一番簡単なのは、死んだオレを身元不明死体として処理をして、生きているオレに口止めして元の場所に戻すことだ。
───いや、それはもう無理だ。すでにオレは、死んだオレと出会ってしまった。そのことを忘れて、いつも通りに普通に生きていく事は出来ない。
それならば、ある筈のない事の証人として、死んだオレと共にどこかに収容されて、あれこれ調べられるのかもしれない。体も、記憶も、どうやって・どこから二人に分かれたのか───と、細胞単位で、シナプス単位で、分解・研究されるのかもしれない。
現実から剥離した感覚の中から、鳩の鳴き声のような笑いが漏れた。
まるで三文SFだ。こんなことが現実に───しかも、自分の身の上に起きようとは……。
オレは、手すりにもたれた姿勢のまま、高架に吹き付けて来る風に身震いする。
風が吹き抜けて初めて、オレはオレの内側から、何かが無くなっていることに気付いた。オレという存在の真ん中にぽっかりと穴が開き、風が踊りながらそこを吹き抜けて行く。もはやオレは、昨日までのオレとは全く違う存在になってしまったのだ。
遥か下方の線路脇で死んでしまったオレ───あれは、もう一人のオレではない。あれはオレの半身。開いてしまった穴を埋めていた存在。そして、オレは半分だけになってしまった。
いつの間にか離れてしまったオレの半身よ、お前は何が苦しくて自殺なんてしたのか? 何故、オレの所に戻って来て、伴に生きようとしてはくれなかったのか?何故、お前だけで去ってしまったのか?
吹き抜けていく風がもたらす寒さが、段々耐え難いものになってくる。肌が泡立ち、歯がかちかちと単調なリズムを刻んだ。
それとも、離れたのはオレなのか? 戻らなければならないのは、オレの方なのか? もう二度と動く事が無くなったお前───そこへ戻れば、この修復の利かない寒さは消えるのだろうか?
そう思ったとたんに、手の下の感触が消えた。
地面がぐぅっと持ち上がり、オレは真っ直ぐに大地と向き合う。そして、体がふわりと宙に浮いた。
そう……そうだ。あそこまで行けば、この纏わりつくような寒さから解放されるのだ。
オレの半身は、地面を背に立ち、両手を広げて迎えてくれているように見えた。
オレ達はまた一つになり、一つの完全な骸として存在を確立させ、この寒さから解放される、不安と孤独という名の、この寒さから───。
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