二度目の朝
目覚めてみると、朝だった。
どこかでスマホのアラーム音が聞こえる。つまり、午前六時だ。
見慣れた白いクロスの天井。全身にまとわりつく汗の感触が気持ち悪い。眠っていた筈なのに、妙に心臓がバクバクと脈打っていた。
(……夢?)
まさか、夢だったというのだろうか? あの妙にリアルな新聞記事も、完全に行く道を見失ってしまった迷子のような絶望感も……。
全部が、ただの夢?
半信半疑のまま、もそもそと布団から起き出すと、オレは夢でみた通りのアンダーシャツ&トランクスで、部屋には夢でみた通りに点々と服が脱ぎ捨てられている。多少の二日酔いは悪夢の中ほど酷くはなく、無意識下で状況を誇張して認識していたかのようだった。
(酷い夢だ。悪夢にしても、趣味が悪過ぎる)
心の中でぼやいてみるが、自分の無意識がみせた夢に文句をつけても空しいだけだ。
もやもやとする気分を変える為、取り敢えずシャワーを浴びて不快な汗を流し、コーヒーメーカーにお任せでいつものブレンド・ブラックと、フライパンに溶かしバターを作って軽く焼いただけのトーストを準備する。ただ、毎朝の習慣である朝刊を取りに行く気にはなれない。
それは、まあ───仕方がないと思う。脳内に残る夢の残滓がリアル過ぎるのだ。
形だけの、栄養バランスも何もない朝食をベッドサイドの小さなテーブルに乗せ、ベッドを背もたれにしてテレビを点けた。そう、これが正しい朝の情景なのである。
電源を入れると、最初のチャンネルはいつも同じ局になるようにしている。画面の中では、いつものアナウンサーがいつもの無表情で、早朝のニュースをやっている真っ最中だった。
大した変化のない、いつものニュース・
昨日から今朝までにあった火事や事故。春先から世界中で問題になっている感染症の話題。プロ野球を含むスポーツニュース。週末のレジャー情報等々───。
毎日毎日、テレビやネットで流れて来る事件や事故が、当事者にとってどれほど残酷なことかなどというのは、一度も考えてみた事がなかった。けれども、夢の名残を色濃く引き摺っている今朝のオレには、毎日起こる似たような出来事の向こうに、被害者と加害者の姿が見える気がした。見知らぬ被害者にも加害者にも、友人や家族がいて、それぞれの生活があるのだと、初めてリアルに理解したのかもしれない。
夢という奴は奇妙なもので、実体験を伴わないまま、未経験を経験し、知らない感情を味わうことがある。もっとも、今回ほど後味の悪い夢は初めてだったが。
コーヒーの香りとトーストの歯触り、メディアを通した、自分から一歩も二歩も遠い距離感のニュースに、徐々に日常が戻ってくるようだ。
事件も事故も他人事───そうとも、この変化が少ない日常を平和に繰り返しているオレが、ああいう大事故に係わる訳がない。あの手の事柄は、過激なテロ集団か本職の犯罪者が起こすものだ、
やっと夢と距離が取れたオレは、月曜の朝にでもAとBにこの件を話し、「お前、実は小心者?」とか「バカ過ぎる」と笑いのネタにして、火曜には忘れられるだろう───と、そう思った。
そうなる筈だった。次のニュースを聞くまでは……。
『速報が入りました。今朝、午前四時過ぎ、◎▲鉄道職員が始発前点検を行っていたところ、鉄道の敷地内の線路脇で男性が倒れているのを発見。現場で死亡が確認されました』
レジャー情報を話している時と同じ熱量で、見慣れたアナウンサーが事を告げる。
オレがいつも通勤の時に乗る路線───つまり、昨夜、帰宅した時にも乗った路線だ。
『衣服に入っていた持ち物から、男性は☆▽商事のAさん・二十五歳と判明しました。Aさんは、昨夜、同じ職場の友人数名と出掛けたまま、自宅には戻っておらず、今朝になって鉄道職員に発見されました』
指先から、爪先から、頭の天辺から、血が引いて冷たくなっていく。
Aって、昨夜一緒にいたAだよな? テレビ画面に映っている写真にも見覚えがある。社員証の写真だ。
『警察では、死因を鈍器のような物で殴られた為として、凶器の特定と犯人の解明を急いでいます。なお、現場には、Aさんのものではない革靴が片方残されており、事件の関係者の物と推定。持ち主の特定を急いでいます』
靴───また、靴が……。
オレは、慌てて玄関を確認した。確かに、昨日履いていた革靴の片方がない。けれど、アレは夢だったんじゃないのか?
脱線事故だけが夢で、Bが窓から靴を捨てたのは現実だった?
じゃあAは、駅で別れた後に、わざわざ靴を拾いに行ってくれたのか? オレの靴を拾いに行って、そして誰かに?
そう……つまりはそういう事なのだろう。靴から身元が判明して警察が来たら、知っているありのままを言おう。Bも同じ事を言ってくれる筈だ。いや、それよりも、ニュースを見たからと先に警察に出向こうか。Aは確かにオレの同僚で、友人なのだから……。
(A……死んじまったのか……)
まだ、哀しくはなかった。驚きと、信じられない気持ちの方が大きいからだろう。
誰だって、昨夜まで一緒に居た友人が翌朝に死んだと聞かされても、即座に反応は出来ないと思う。『何故?』・『どうして?』と、ありきたりの疑問ばかりが浮かんでは消えるばかりだ。
ニュースでは、オレの靴が犯人の靴の可能性が高いと何度も報じているが、オレが友達を殺すわけがない。そして、何より動機がない。
大体、動機があって殺意を抱いたとしても、それと本当に殺害することの間には深い溝がある筈だ。オレはAに対しての怨恨があるわけでもないし、近年増えた衝動殺人ってのは、見知らぬ不特定多数の人間が対象になっている。
確かに、昨夜の記憶は切れ切れで、駅に着いた後の事はほとんど覚えていないが───大丈夫だ。冷静でいろ。オレは何もしていない。
きっと、Aは親切心で靴を拾いに行ってくれたのだろう。原因を作ったのはBだが、Bにだって悪意があったわけではない。
取り敢えず落ち着いて、まだ寝ているだろうBに連絡をしよう。それから二人で、証人として警察に出頭して……。
気力を奮い立たせて立ち上がり、オレは外出着を見繕い始めた。あまりルーズな格好では印象が悪いだろうから、スーツとはいかなくても、それなりにきちんとした服装をしておいた方がいいだろう。
すると、立って視線が高くなったせいか、玄関から点々と脱ぎ捨てられた昨夜のスーツが目についた。触る前から判るグシャグシャ振りで、安くはないクリーニング代に頭が痛くなる。
まず、一番手前に落ちているジャケットを拾い、ばさりと広げると、思わず「げっ!」と声が漏れた、
黒い染みが付いている。しかも、かなり広範囲に。
慌てて、カッターシャツやスラックスも拾って広げると、これらにも黒い染みが付いている。
(何だ、コレは?)
空いているハンガーに三枚揃えて下げてみると、何らかの液体を勢いよくぶちまけたような染みが、体の前面全体に付いていた。黒く乾いた部分を指先で触ってみると、布の質感とは違う、しこりのような固さがある。それも、どこかで覚えがあるような……。
これは───血なのか?
ハンガーに下げて、人間が着た状態を再現したスーツに付いた模様は、確かな繋がりを持っている。大量に噴き出したソレを、避けることなく浴びた───そんな繋がりが。
(じゃあ、オレが殺したんだ)
真っ白になった思考の中、その結論は不思議と静かに、オレの中にストンと落ちて来た。
動機はない。やった覚えもない。
だが、スーツの前面に浴びた血飛沫が、何よりも事実を物語っている。
(オレが、Aを殺した)
奇妙なほど、驚きも疑問も湧かなかった。事実の結果が、目の前に突きつけられているからかもしれない。
これは、つい先ほどまでみていた夢とはまるで違う。
過失でも未必の故意による事故でもなく、正真正銘の殺人なのだ。オレは殺人者に───しかも、友人殺しになってしまった。
では、何もかもが終わったんだ。ある筈だった可能性のすべてが。
万が一、オレが殺人者として検挙されず、誰にも知られずに済んだのだとしても、オレはオレが殺人者だと知ってしまった。しかも、理由もなく友人を殺した最低の殺人者だ。
再びベッド脇にへたりこみながら、何故か激情らしきものは何も湧いて来ない。ただ、虚ろに透き通った哀しみだけが、薄い膜のようにオレを覆っていく。
ごめん、A───お前はオレの靴を拾いに行ってくれただけなのに、どうしてかオレはお前を殺してしまった。お前は何も悪くないのに。
ごめん、オレ───そんなつもりはなかったけど、『オレのこれから』を、オレ自身が壊してしまった。
いつか可愛い嫁さんを貰って、小煩いチビ達に囲まれて、ありきたりの人生があると思っていたのに、そんな可能性をオレ自身が潰してしまった。
オヤジ、オフクロ───親孝行をするつもりだったよ。安全・安心なサラリーマン人生を歩いて、いつかはまた一緒に暮らして、老後の心配なんかさせないように、オレが頑張るつもりでいたよ。
この透明な哀しみは、追悼だ───もう叶わなくなった、単純でも幸福な良き人生を目指していたオレの未来への、オレ自身の追悼。
もうこれからは、誰もオレの為には泣いてくれないだろう。だから今だけは、オレはオレの為に哀しんでいる。
酷く遠く聞こえる場所で、誰かが荒々しい足音を立てて走って来る。何を言っているのかは判らないが、興奮した声も聞こえる。
ただ、ただ、哀しかった。
オレだけの人生は終わってしまった。
独身の間にやりたい事も、家庭を持ってからやりたい事も、沢山あったけれど、それらはもう手が届かないことになってしまった。
個性的ではなくても、夢は夢───日々繰り返される筈だった退屈な仕事も、友人達とのばか騒ぎも、今となっては、余りにも貴重な無くしたくないものだった。
それも、もう終わる。
これから始まるのは、償いきれないだろう罪を、ひたすら贖い続けるだけの日々。
誰かが、玄関ドアを叩く。叩くというより、殴るような勢いで叩き続け、ドアの向こうでオレの名を叫んでいる。
オレは動くことも出来ず、ただ哀しかった。
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