目覚めてみると

睦月 葵

一度目の朝

 目覚めてみると、朝だった。


 安物の遮光カーテン越しでも、夜が明けている事が分かる。近くのどこかで、スマホのアラーム音が微かに聞こえる。どうやら、毎朝目覚ましに使っているこの音が、起床を促したらしい。つまり、いつもの起床時間=午前六時だ。

 まだ分厚い膜がかかったように思考が働かないまま、しつこいアラームを止めようと条件反射で体を起こし───とんでもない頭痛に襲われた。

(なんだ、これは?!)

 頭蓋の中で膨れ上がった脳の奥から、重い鈍器で殴られているような頭痛。つい一瞬前まで自覚がなかったことが信じられないほどの衝撃があり、両目を奥から押し出されるような、鼓膜の中で耳鳴りが反響して何も聞こえないような、これまでに経験のない頭痛に襲われ、半身を起こしかけたまま身動きが取れなくなった。

 動かないことで痛みを遣り過ごそうと、体が考えたのだろう。オレの思考は未だ働いていない。

 だが、その細やかな緩和策すら叶わなかった。

 激痛で司令塔である脳味噌は機能不全を起こしているのに、体は別の生き物のように反応する。体を動かしたことで胃が持ち上がり、そのまま逆流して来るモノがあるのだ。

 全身のコントロールを別の司令塔が動かしているように、考えるより先に四つ足で這いながらトイレに急行し、逆流物質を便器に放出した。咳き込みながら、何度も、何度も、もう何一つ・水分の一滴すら出なくなるまで。

 こういう時は、一人暮らしのワンルームは実に助かる。

 ベッドからユニットバスまでの距離が短く、みっともない移動時に蹴散らした物は、全部自分の持ち物だ。醜態を目撃している相手も居ない。

 頭痛は益々酷くなり、脳は変わらずにスポンジ状態。

 胃も腸も空っぽになるようなリバースは体力を酷く消耗し、体をパニックに陥れる。微かな思考力の断片で、次を誘発しないように洗面台にしがみ付くようにして口を漱いだものの、全身は脂汗でギトギトになっている上、今度は妙な悪寒が手元を震わせつつあった。


 これらの症状には、少なからず覚えがある。二日酔いだ。ここまで酷いのは初めてだったが。


 大学の新歓コンパの時、同期生と羽目を外し過ぎた時、新入社員歓迎会ではしゃぎ過ぎた時、何度となく経験した状態だ。

 少しずつ働き始めた脳味噌の指令に従って、四つ這いのままキッチンに移動し、常温のままストックしているミネラルウォーターと経口補水液の500mlを、一本ずつ取り出した。冷蔵庫にも同じ物があるが、内臓がパニックを起こした状態でそれを流し込めば、再リバースになってしまうことは経験済みだ。

 飲酒には利尿作用が伴い、アルコール分解では体内の水分が消費される。その分解の時に出来るアセドアルデヒドという毒素と急激な脱水症状が、二日酔いの主な原因である。なので、早急な症状の緩和には、まず水分補給が必要だ───というのは、前の彼女が教えてくれたことだったか、それともその更に前の彼女だったか……。

 二日酔いに効くのは味噌汁。特にしじみの味噌汁が良い。手軽なところではウコンドリンク。ウコンとターメリックは同じ物だから、カレーでも可───が、今はどれもこれもない上、それらを準備してくれる相手もいない。辛うじてレトルト・カレーだけはあるものの、現状でそんなものを口にしたら、即トイレ・リターンは間違いない。

 仕方がないので、飲料水を手にベッド脇まで這い戻り、ベッドを背に床に座ったまま、年間を通して愛用しているタオルケッドを引き摺り下して体に巻いた。脂汗を伴う悪寒が、まだ治まっていないのだ。現在、オレが身にまとっているのは、昨日着ていたアンダーシャツとトランクス───酔っ払い過ぎて暑かったのかもしれない。そして、何故か靴下が片方。

 ミネラルウォーターと経口補水液を、交互に少しずつ飲んでいる間に、座っている場所から見える部屋の惨状を確認した。

 通常であれば、男の一人暮らしのわりに部屋を片付けている方だが、今は積んでいた雑誌類が雪崩を起こし、ゴミ箱は倒れ、衣類が部屋に点々と落ちている。おそらく、先程の四足歩行の時か、昨夜の泥酔状態の時に自分でやったことだろう。落ちている衣類は、ベッドに近い所から、カッターシャツ、ネクタイ、スーツの背広───まだ部屋の灯りをつけていないのではっきり見えないが、玄関先で団子になっているのはスーツのスラックスだろう。

 現状の把握と水分補給が進むにつれて、徐々に昨夜の記憶が戻って来た。


 そう、確か所属部署の懇親会があったのだ。

 三月頃から大事になって来た現在の社会情勢のお陰で、大人数の集まりは好まれない。だから、課長と女子社員二人、同期のAとBとオレの六人での気安い集まりだった。しかも、かれこれ半年ぶりの。

 まだ頭の芯に頭痛が残っているが、やや状態がマシになってきて、ようやくオレは立ち上がる気になった。いつも通りに、取り敢えずコーヒーを───いや、胃が空だからカフェオレにするか。

 それから───普通の居酒屋でやった一次会が終わり、課長が女子社員二人を送って帰って……程よく酔っていたオレ達同期三人組は、調子に乗ってしまったのだ。なにせ、花の金曜日。なにせ、半年ぶりの飲み会。しかも翌日は土曜で休みだったのだから。

 腹はすっかり満たされていたから、馴染みのスナックに行って、最近は早仕舞い傾向のスナックの女の子達と一緒にカラオケに行って───それからどうしたんだったっけ?

 首を捻りながら、コーヒーメーカーで入れたコーヒーに冷たいままの牛乳を雑に入れ、マグカップを片手に習慣で新聞を取りに行く。オートロックのマンションではあるが、一階だから郵便受けまでさして遠くはない。アンダーシャツとトランクス、片手にはマグカップでも、土曜の早朝であれば人目はないから、問題なく新聞を取って来られた。

 ちょっとしたことなのに、『よしよし』といい気になりながら玄関に戻ると、なんとなく違和感が……。

 オレが今履いているのは、マンション周辺のコンビニやスーパーに行く時のクロックス。他に玄関土間にあるのは、ジョギングの時などに履く少し良いスニーカーと艶々の革靴が片方。


 仕事上、あまり安物を履いているわけにはいかない革靴が、片方だけ?


 そんな筈はない。昨日もきちんと革靴を履いて出た筈だ。帰りに泥酔して、どこかに忘れて来たのだとしても、代わりに履いて帰ったブツがあるのではないか? トイレのスリッパとか居酒屋のサンダルだとか───そういう物すらなく、ただ革靴の片方だけがぽつんといる。

 その余りに頼りない違和感に、『なんでだ?』と思った瞬間、堰き止められていた記憶が、怒涛のように甦って来た。


 そう、かなり───いや目も当てられないほどに飲み過ぎていたAとBとオレの三人は、池袋から出ている黄色い電車の0時01分発、下り各駅停車に乗り込んだのだった。

 この時間になると、さすがに乗客は疎らで、誰も彼もがオレ達と同じ泥酔者か、週末の残業で日付を跨ぎ疲れ切った人々だったと思う。

 甦った視覚情報に残っているのは、スライムのようにぐにゃぐにゃで座席からずり落ちかかっている泥酔のオジサン・サラリーマンが数人、目の下に隈を作ってうつらうつらしているOLが少し、スマホから一瞬たりとも視線を外さない連中や、立ったまま車両の隅でイチャイチャしているバカップル達だった。

 その中にあっても、オレ達は異質だったと思う。

 誰も彼も、呂律の回っていない馬鹿話で、意味もよく判らないまま大声で笑い転げまくり、お互いを突っつき回し、また笑い転げる。

 朝から夕方にかけての渋滞と喧騒の通勤電車とは似ても似つかない静けさの中で、騒ぎまくるオレ達は、いわばエイリアンのようなものだったろう。───その瞬間の自分達に、全く自覚がなくとも。

 そして、足をバタつかせて笑っていたオレの靴が、片方飛んでいったのだ。偶然に。

 そして、それを笑いながらBが拾いに行ってくれ───おもむろに窓を開けて、ぽいっと車外に捨てたのだ。走っている電車の窓から。

 窓の外は闇。

 Bの手を離れた靴は、黒い空間にパクリと飲まれたように、一瞬で視界から消えた。手際の良いマジックのように。

「なぁにすんだぁ! オレの靴けぇせよぉ!」

 凄んでみても、呂律は回っていない。

「もう、にゃい」

 チェシャ猫のようににやけながら、わざとらしく両手を上げるB。

「ねぇなら仕方ねぇーよなぁ?」

 腕組みをして、うんうんと頷くA。

 人の物だと思いやがって───と、0.1秒ぐらいは考えた。だが、アルコール漬けの脳味噌は機能不全で、平成生まれ世代のオレは、簡単にその場の空気に流された。

「ねぇもんをとやかく言うのは、オトコらしくねぇよなぁ」

 自分で言ったのだから始末に負えない。

 『おお、男前!』だとか『お前というヤツを見くびっていた』とか、それでまたひと騒ぎ。

 その辺りから、また記憶は途切れている。


 けれども、まあ、現状を見れば結果はわかるというものだ。

 その後、どんなふうに別れたかは思い出せないが、結局のところオレは、靴を片方無くしたまま帰宅したということである。脱ぎ捨てたスラックスのポケットを探ってみたら、泥で汚れた靴下が片方出てきた。つまり、そういうことだ。

 拾い集めた衣類を洗濯籠に放り込みながら、じわじわと自己嫌悪が押し寄せて来た。───どれだけ見栄っ張りなんだ、オレは。

 一応、スペアの革靴もあるが、昨日履いていたのは、初任給で買った一番良い靴だった。社会人になった気合を籠め、すぐに履き潰さないように大事に履いていたのだ。

 その靴をポイ捨てされてしまうとは……しかも、それを咎めなかったとは……不甲斐無し。


 マグカップと新聞を持って再びベッド脇に戻り、温いカフェオレを少しずつ啜っていると、胃の中が温められてじわりとエネルギーが湧いて来た。

 そもそも、何でオレが落ち込む必要があるんだ? 人の靴を窓から捨てたのはBなんだから、悪いのはBの筈だ。付け加えるなら、笑いながら見ていたAも同罪だろう。オレは被害者だ。無くした靴は、二人に弁償させればいい。なんだったら精神的慰謝料も含めて、もっと良いランクの靴を買わせようか?

 それは、とてもいいアイディアに思えた。

 オレと一緒で、二人とも今日明日は休みの筈だから、そう言って買いに行かせよう。早速電話をかける───には、早過ぎる時間だから、もうしばらく惰眠を貪っているといい。絶対に呼び出して、新しい靴を請求してやる。

 そこまで考えて、ようやく落ち着いた。脱水も治まって来て、お腹も温まって、やっと持っていた新聞を開く気になる。


『深夜の脱線事故・死傷者三十六人』


 一面トップの大見出しが目に入り、ぎょっとする。

 昨夜、そんなに大きな事故があっただろうか?

 いや、あったとしても、あれだけ泥酔していた自分達が気付いた筈はない。大きくスペースを取ったカラー写真は、夜の中、方々から強いライトに照らされ、横転した無残な電車車両の姿が写っていた。


『昨夜、小手指0時02分発・池袋行きの上り線に、横転事故が発生し、死者七名・重軽傷者二十九名の惨事となった』


 最初の一文を読んで、改めて一面の写真を見る。この電車は───いつも通勤で乗る見慣れた黄色い電車ではないか?!

 昨夜、オレ達の乗った便を考えると、下手をすれば巻き添えを食っていたかもしれない。よくもまあ、無事で───と考えながら読み進め、とある文面で思考が止まった。


『現在のところ、鉄道会社と警察の調査により、現場で車輪後の残る革靴が片方発見されており、線路の上に置かれていたこの靴が事故の原因となった可能性があると報じている。今後は、この靴の持ち主と共に、他にも事故原因がなかったか、慎重に調査を進めていく方針である』


 オレの思考は、完全に凍り付いていた。

 線路にあった片方だけの革靴。

 オレ達が乗った電車は下りの同時刻。事故が起こった電車は上りの同時刻。まず間違いなく、どこかで擦れ違っている。

 窓の闇に吸い込まれたオレの靴の残像が、鮮やかに甦る。


『事故の原因と推定される革靴はサイズ二十六・五cmの▲★社製で、色は焦げ茶色。ごく普通の男性用通勤靴と思われ、当局は───』


 多くはない情報なのに、確信があった。これは───オレの靴だ。

 手に持ったマグカップがカタカタと震え、ラグマットの上に茶色い染みを広げる。

 手のひらや脇の下、背中を冷たい汗が流れ落ち、平衡感覚がおかしくなって行く。


 確か、以前何かで読んだことがある。新聞だったか、雑誌だったか───もしかすると、誰かに聞いた話だったかもしれない。JR線にトラブルがあって遅延し、それが特定の個人に責任があった場合、その賠償額は安くても数百万、多ければ数千万に及ぶという。金額の大小は、遅延や減便に影響を受けた乗客の人数によるとか……。オレが住んでいる場所は、間違いなく首都圏だ。

 比較的近年、ご高齢の認知症の人が線路に侵入して列車事故で亡くなり、遺族が高額賠償の訴訟を受けたというニュースがあった筈だ。あの訴訟は、結局どうなったのだったか?───他人事の新聞記事として読んでいたオレはその結末を知らない。

 ───冗談じゃない……。

 ほんっとうにっ、冗談じゃないっ!

 オレは何もしていない。単に泥酔していただけだ。いや、勝手に靴を捨てられたのだから、むしろ被害者の筈だ。

 降って湧いた混乱の中で、オレはその考えにしがみ付いた。

 ベッドサイドの小さなテーブルの上に置いたままになっていた、最近では滅多に吸わないタバコに火を点け、大きく吸い込んで咳き込む。

 そうとも、オレじゃない。悪いのはオレじゃない。オレは少しも悪くない。

 一・二度吸っただけのタバコを揉み消して、また次の一本に火を点ける。

 黙っていれば判らないさ。靴の持ち主が、そう簡単に判る筈がない。早めにもう片方を処分してしまえば───ああ、けれど遺留品にはオレの指紋が残っているだろう。それに、昨夜のオレ達は、車両の中で目立っていた筈だ。日本の警察は優秀だから、すぐに目撃者が出て来る。

 火を点けただけのタバコが、指の間でどんどん灰になるのも気付かず、思考は迷走していく。

 目撃者───そうだ、目撃者が出ればいいんだ。そうしたら、靴を捨てたのがオレじゃなくてBだという証言が出るだろう。すると、主犯はBということになる。オレもAも共犯か従犯には問われるだろうが、主犯よりはマシな筈だ。

 しかし───それでも裁判はあるだろうし、死者が出ている以上、賠償金は数千万───下手をすれば数億。オレもAもBも、どこをどう捻ったって、そんな金は出て来やしない。就職してようやく三年を過ごして、やっと多少はマシな社会人になって来たと思っていたのに、きっと会社もクビになる。

 故郷の両親にも、迷惑が掛かるだろう。友人も知人も、オレを悪い奴だと言って指差すに違いない。


 オレは、どうしたらいいんだ?

 どうしてこんな事になったんだ? 絵に描いたような悪夢じゃないか───これから起こる事を考えずにはいられなくて、どんどん気が遠くなっていくようだ。

 もしも、この件を故意にしたことであれば、諦めもつくだろう。

 あるいは、誰かに仕組まれたり、唆されたり、せめて思想や主義主張があるのであれば、もっと他に気持ちの置き所が在っただろうに。

 こんな、ただの悪ふざけから出た偶発事故でさえなかったなら……。


 どうしよう。

 オレは、いったいどうしたらいいんだろう。

 オレは、これから……。

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