第二幕「雨垂れ石を穿つ」
月曜日。ボクはナップザックの紐を二回結んだ。先週と同じように、何もなかった。商店街はどこも定休日で、ずいぶんと静かだった。
問題は、火曜日だった。
住宅街に入ったら体操服が踊りだした。紐を二回結んでおいたのに。
体操服を鷲掴みにすると、おばさんたちの声がした。
「乱暴はダメ」
「友だちに言いたいことがあるなら、口で言いなさい」
まるで体操服が人間みたいな扱いだ。
「…すみません」
ボクは恥ずかしい思いをしながら、おばさんがいなくなるのを待った。
抵抗にあいながらナップザックに服を押し込んでいると、不意に名前を呼ばれた。
「杉田くん」
だから、この体操服は嫌なんだ。
「キミ、おもしろいもの持ってるね。来てくれない」
一軒家のベランダから、メガネのお姉さんが話しかけてきた。
表札には「桧山」とある。
「今日で四度目でしょ。きっと力になれるよ」
どうやら全部見ていたらしい。恥ずかしい。もう自力ではムリだ。
ボクは桧山さんの家の門をくぐった。庭に洗濯物が干してある。
「ちょっと待ってて」
ボクを台所のいすに座らせると、桧山さんは奥の部屋から、ポスターよりも大きな地図と文房具一式を持ってきた。
「キミ、メグチューだね」
「はい」
速攻で学校バレだ。うちの学校の体操服の悪目立ちぶりハンパない。
桧山さんは、矢継ぎ早に質問を繰り出しては、大きなフセンにメモをとって、壁に貼っていった。
(いつ踊る? 下校時)
(いつから踊る? 先々週の体育の授業から)
(どこで? 通学路で)
(踊る場所は? 地図を見よ)地図に小さなフセンが貼られた。
(通学経路は? 同上)蛍光ペンで線が引かれた。
(他の生徒の体操服は? 不明、たぶん踊らない)
(他校では? 同上)
(私服は? いまのところ踊らない)
(何の踊り? 不明)
質問の雨がやむとお菓子が出てきた。
「ありがとう、まあこれでも食べなよ」
桧山さんも一本取ってくわえる。
「あの、お仕事は?」
一息ついたところで、ボクからも質問した。
「大学講師、遠隔授業」
「はあ」
「呼吸器系の病気、ここ、病院近いから」
「すいません、大変なんですね」
「うん、禁煙つらい」
「はあ」
「キミは?」
「いや、タバコは…」
「じゃなくて、普通に元気?」
「はい。小学校からずっと皆勤賞です」
「あ、そう」
と、言ったきり桧山さんは黙った。
妙な間だ。
興味のないことにはぶっきらぼうなタイプなんだろうか。
体操服を押し込んだナップザックは、音も立てずに床に転がっている。
ボクが黙っていると、桧山さんが口を開いた。
「悪いけど、次の体育の授業の日は、この道を通って」
地図に緑色の線が引かれた。
「その次の日はこの道、また次の日は、というか授業がない日でも…」
次々と線が引かれて、地図は道順問題のカラフル版みたいになっていく。
「え、こんなに…」
「実験と観察だよ。考えるためには、材料を集めないと」
「はあ」
「それじゃ杉くん、よろしく」
ボクはよくわからないままうなずいて、桧山さんの家を出た。名前を間違えられたことに気づいたのは、少しあとだった。
桧山さんと会ってから、いつも寄り道するようになった。たとえ体育がなくても体操服を持って歩くようになった。わざわざ駅前を通って帰ったり、いつもと違う橋を渡ったりもした。
同じ道を何度も通ることもあったし、家族に怪しまれない範囲で、遅くまで出歩くこともあった。土日も通学路を歩く羽目になったが、桧山さんが買ってくるケーキ目当てで、言われたとおりにしていた。
おかげで分かったことがある。
体育の授業がない日は、踊らないのだ。
授業がある月火金でも、踊らないときがあった。たとえば、月曜日と雨の日はちっとも踊らない。
火金でも踊らない日があったが、通学経路のせいか、それとも時間のせいか、もっと別のなにかか、理由は分からなかった。
いつ、どこで体操服が踊ったか、あるいは踊らなかったかを、ボクは毎日、桧山さんに報告した。地図はフセンだらけになった。
寄り道も毎日だと疲れる。とくに体育の授業の日がキツい。
金曜日には、ぼーっとして自転車にひかれかけた。
「大丈夫かい」
「あ、はい」
「こっちも悪かったけど、あんまりよそ見するなよ」
相手のおじさんは、ボクがぼんやりと眺めていた電気屋さんの大型テレビを指差した。映っているのは人気アイドルグループのダンスだ。
「うちのカミさんも、これ好きなんだよな」
「あ、はい」
「気をつけてな」
おじさんは商店街の人波を、自転車ですいすいと抜けていった。
この日もまた体操服が踊り、話しかけられるのはボクではなく、体操服だった。
五月の連休明けには、疲れるだけではすまなくなっていた。
体育の授業が怖い。汗をかくたびにまとわりつく体操服は、まるで生き物みたいだ。疲れも激しくなった気がする。
不気味なのは、ボクの影が薄くなってきたことだ。体育の授業のあとがひどくて、いない人扱いされている。
プリントが配られると一枚足りない。学食で最後尾に並ぶと、ボクの目の前に割り込まれる。先生が順番に指していくとき、なぜか飛ばされて、周りの生徒は何も言わない。
普通なのは、体育の授業のときだけだ。でも、周りがボクと体操服のどちらを相手にしているのか、ボクには分からない。
分厚い雲が出ている日曜日、いつものように体操服入りのナップザックを背負って通学路を歩いた。
服は踊らず、ボクは報告のため桧山さんの家に入った。
「やあ、杉田くん」
今日は名前を間違われなかった。出しっぱなしの地図には、すごい量のフセンが貼ってある。ボクが恥ずかしい思いをしたおかげだ。
「体操服がどのようにして動くのか、説明がついたよ」
桧山さんはケーキを出しながら、話を切り出した。
「本当ですか?」
「オカルトじみていて申し訳ないんだけど…。
まず、体育の授業で、体操服とキミが触れ合うたびに、服はキミの『生気』を吸い取っている。存在感が薄くなるって話にも、とりあえず説明はつく。
次に、服は『生気』を活用する手段を探して、アイドルグループのダンスに出会った。通学路にある電気屋さんのテレビで流れているやつだね。くだんのお店は月曜定休だ。
最後に、ナップザックの結び目をほどいて、住宅街に入ったところで袋から飛び出し、ダンスを踊った。あのグループ、おばさんにも人気だからね。体操服には観客を選ぶだけの知恵があるんだろう。
状況証拠しかないけど、体育の授業があって、そのうえ営業中の電気屋さんの前を通ったときだけ、体操服が踊るという事実にたいして、筋の通る説明はこれだけ」
やっと話が終わった。
「あの、すいません。対策は…」
「それは今後の課題」
堂々と言い切った。言い切られてしまった。
気まずい沈黙を、ポツポツという雨の音が破った。
桧山さんはハッとした表情になった。
「そうだ、雨の日も踊らないんだ!」
「はい」
「道理で、洗濯したら大人しくなるわけだ」
「あの、『生気』って水に溶けるんですか」
「今後の課題」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます