第6話 黒き闇の再来

 一方、領主セオドアは、昼になっても姿の見えない子どもたちの事を心配していた。

 いつもなら一緒の食事も、忙しいこの時期は別々だ。そのため子どもたちには、食事の前には必ず仕事場に顔を出し、声をかけるようにと言ってある。それなのに今日はどうしたことか、もうずいぶんと時間が過ぎている。

 いてもたってもいられなくなったセオドアは、キッチンへと急いだ。息を切らして駆け込めば、そこには空の皿が並んでいるだけで子どもたちの姿は見えない。

 用意されている鍋の蓋を開けた形跡もない。いつだって食事の時間を楽しみにしているはずの四人が、揃いも揃っていないだなんて……ありえない光景に胸騒ぎがする。

 遅れて妻のヴィオレッタも顔を出した。その表情に、彼女もまた、朝から子どもたちを見ていないのだとセオドアは気がついた。しかし収穫で忙しいこの時期に私用で持ち場を離れることはしたくない。一緒に働いてくれている人々に示しがつかないからだ。きっとすぐに帰ってくるはずだと妻に頷きかけ、彼は仕事に戻った。


 しかし、いつまでたっても子どもたちの姿は見えず、むなしく時間は過ぎていく。時折顔を出しては、首を振るばかりの妻に、セオドアの心はジリジリと焦げ付き始めた。

 不安ともどかしさと己の立場と……様々な気持ちが入り混じり膨れ上がっていく。心配も度を越すと得体の知れないものへと変化するのだろうか。セオドアは次第に苛立ってきている自分を感じずにはいられなかった。


 慎重に選り分けられた高品質の花を前庭で荷馬車に積みこみ始めた頃、ようやく子どもたちの姿が見えた。エピステッラが青い花を入れた箱の上を舞う美しい光景の向こう、門の前の道を四人がヨロヨロとやってくる。

 子どもたちは泥まみれでずいぶんと疲れた顔をしている。どうしたのかと心配して当然の状況だと言うのに、それを見たセオドアの心に湧き上がったものは安堵ではなかった。怒りだった。

 

「遊びほうけるにも程があるだろう……」


 なぜ自分がこんなにも苛立っているのか、心のどこかでは疑問に思いながらも、セオドアはドロドロと湧き出すものを抑えることができなくなっていた。黙々と積み荷の指示を出しながらも、彼の怒りは沸点に達しようとしていた。

 日は傾き、西の空が赤く燃え上がり始めていた。この季節には珍しい何とも強烈な色をした夕焼けだった。ふと、その色は鮮やかさを通り越して禍々しさを感じさせるようだとセオドアは思った。その瞬間、心に冷たい風が吹き込んで目が覚めかけたような気がしたけれど、次に目にした子どもたちの失態がすべてを打ち消した。

 駆けつけた母の手に妹を渡した息子たちが、一番後ろの荷馬車によりかかるように倒れこんだのだ。積み上げられていた箱の一つが押されてぐらりと傾き、花が盛大にこぼれ落ちる。時間が止まったかのように、ゆっくりとゆっくりと、けれど花はこぼれ落ちた。

 蝶たちが落下する箱の陰から慌てて飛び立つ下で、大切な花が泥まみれになっていく。折り重なるように倒れる三人の体に巻き込まれ、一つまた一つと潰れていく。ついに、セオドアの中で何かが大きく弾けた。気がつけば彼は口走っていた。


「愚か者は去れ!」


 それは王国の神話に書かれたもの。恥を知れという意味である。そしてそれは恐るべき言葉だった。決して口にしてはいけない言葉。その意味を知るために学ぶことはあっても、それを知った上で使いたいと思う者はいないだろう。

 それなのに……。セオドアは自分が何をしたのかわからないでいた。完全に自分を見失っていたと言えるだろう。次の瞬間、はっとして自分の口を押さえた。

 しかし遅すぎたのだ。恐ろしいことを、取り返しのつかないことをしてしまったのだと彼の本能が告げていた。胸が激しくざわめいて全身の血が引いていくようだった。

 

 恐るべき言葉、それがどす黒い気持ちとともに発せられた時、禍々しい呪いを生む。

 

 神話の中に、かつて闇に囚われた王子が天空草の花畑を燃やし、泉の女神が己のすべての力を使ってその火に対抗し、国を守ったという下りがある。それゆえに、女神は今も傷ついたままで姿をあらわすことができないのだ。

 王子の狂気が花畑やエピステッラを燃やしたように、その日からこの美しい蝶は、人の黒い想いに接すれば燃えて灰になるのだと書かれている。実際、そんな無惨な姿を見た者はまだいなかったけれど、誰も見たいとも思わなかった。美しい蝶は自分たちにとって特別なものだと、泉の王国の人間なら誰もが感じているからだ。

 そしてその惨劇の終わりに、女神が罪を犯した王子に投げかけたのが「愚か者は去れ」という言葉だった。その言葉とともに王子は鳥となって西の空に去った。けれど神話には、その後のことは一切書かれていない。だから王子が受けた呪いが何であったか、そして王子はどうなったのか、人々はもう知るすべはないのだ。


 ただ、「今も世界にはその邪悪な呪いが解けずに残っている」と結ばれているため、それを読んだ人々はエピステッラを決して灰にしないよう、女神を慕って清く生きることを誓った。天空草の花に穢れない想いを注ぐことが、恐ろしい呪いの言葉を発動させないためには何よりも大切なことなのだとみなが思った。

 天空草の栽培に従事する者は代々、より厳しくそれを守ることを教え込まれる。サフィラス家はその筆頭だ。誰よりも穢れなき心でこの花と向き合わなくてはいけない。穏やかで純粋な精神を持ち続けようと、彼らは常に、祈りとともにあることを望んだ。それはまた、女神への信仰であり聖域への繋がりでもあった。

 しかし気高く強い光を追い求める者の影は、また一方で誰よりも深く長いのかもしれない。長い歴史の中で、彼らが持つ言葉の力は次第に良い意味でも悪い意味でも大きくなっていった。


 誰の中にもバランスは存在する。理想の光を掲げ求める片側で、暗闇は深さを増していくのだ。さらに皮肉なことに、いかに清くあることを求めても、人とは弱い者。小さなつまずきが、持ちたくないと思っている感情をいとも簡単に作り上げてしまう。そして、人の中に潜む闇は、そんなよろめきを待ち構えている。

 今、誰よりも気高き精神を目指したはずのセオドアの口から滑り落ちた言葉は「呪い」として発動した。光をより愛したからこそ、闇の中に隠されていた大きなものを引き出してしまったのだ。サフィラスの築いてきた美しさは、裏返せば、闇にとってこの上もなく美味しい条件だったのだ。


 瞬く間に天空草の花もエピステッラも真っ黒に燃え上がった。そして、その灰が三つ子の上に降りかかった時、三人の顔には大きなくちばしが現れた。そこから全身に禍々しい靄のような黒が広がっていくのはすぐだった。黒く醜い塊になりつつある三人は激しく身をよじり、自分たちを征服しようとする力から逃れようと抵抗する。

 眼の前で繰り広げられるあまりに恐ろしい出来事に、その場にいた全員が震え上がった。喉は乾き、悲鳴さえも張り付いた。息することもままならない。やがてそこにはギラギラとした目を持つ大きなカラスが生み出された。

 

 なす術はなかった。鋭い鳴き声を残して舞い上がった三羽の大ガラスは、上空を何度か旋回したのち、まるで流れる血のような真っ赤な真っ赤な西の空へと飛び去った。これは神話に書かれていた悲劇では……と誰かが声を絞り出した。しかし、それに答える者はいない。

 ロディーヌは愛する兄たちが大ガラスになったことに言葉にならない衝撃を受けた。母と抱き合って泣きながら、兄たちが飛び去った空をいつまでも見ていた。潰れた青い花たちが無残な塊に姿を変えた前庭で、人々は声もなくただ立ちつくすばかりだった。

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