第5話 青の中の兄妹たち
「よし、探検開始だ!」
アドランがかけ声とともに起き上がった。続いて起き上がった三人も、言うまでもなくそのつもりだ。エピステッラの舞いを十分に堪能したし、すっかり汗も引いていい気分だった。四人は泉の周りをまずは歩いてみることにした。
靴ははかず手に持ったまま、苔のふかふかとした感触を楽しみながら歩く。泉の周りにも天空草の花が咲いていた。けれどそれは、奥へ行けば行くほど知っているものとは違うものになっていく。それらは栽培されているどの種とも異なる野生の古い種なのだ。
天空草の花は小さな五枚の花弁を持ち、長く伸びた雌しべと雄しべの先に水色の花粉が丸く輝いている。しかし、その花には花弁が三枚しかない。そして花の色は知っているどの種よりも濃い。
特別な聖域の天空草は、見る者を飽きさせることがなかった。何度見ても不思議な気持ちにさせられると誰もが感じるのだ。知っているはずの花なのに、まったく知らない何かを見ているかのようだと。それでいて何よりも自分たちの近くにあるものだと、そう思わずにはいられないのだ。
聖域にそれほどきたことがなかったロディーヌは、まじまじとそれを覗き込んだ。なんという美しさだろうか。ロディーヌは呼吸することも忘れて花に見入った。小さな花をそっと掌で囲めば、それはロディーヌが今まで見たことのあるなによりも美しく気高く思えた。
兄たちが口々に、やっぱりロディーヌの瞳のような色だ! と言うのを聞いて、恥じらいつつも嬉しそうに微笑んだ。そしてもう一度花を見やれば、かすかに揺れるその様子が、何かを一生懸命に伝えようとしているかのように感じられて仕方がない。その声が聞こえたらどんなに素敵だろうかとロディーヌは思った。
「さあ、奥へ行くか」
キャメロンの言葉に四人は再び歩き出した。
建国以前から、枯れることなく水が湧き出しているのだと言われている場所。その底は深い青に揺らめいていて、どこまでも果てしない。その場所こそが世界に知られた聖なる泉だ。
癒しの泉、その水を飲んだ者は、すべての痛み苦しみ悩みから解き放たれると言われている。また、再びこの地に戻ってこられるとも。けれど、ただ与えられるばかりを望む者に女神は微笑んではくれない。それには、一切の曇りなき心、己に差し出される手への揺るぎない信頼と、その先へ自分の足で歩いていくのだと言う強い心が必要なのだ。
そんな聖なる泉の、類まれな美しさを前にした彼らは、誘われるように水際に向かい、その深淵をそっと覗き込んだ。
この奥に女神さまが眠っている。そう思って深い青を見つめていたロディーヌの耳に、ふと何かが聞こえたような気がした。ロディーヌは思わず身を乗り出した。それを目の端に捕らえた兄たちが慌てて振り返る中、大きな水しぶきが上がり、ロディーヌは深い青の中へと吸い込まれていった。
「「「ロディーヌ!」」」
奥の聖域に身を浸してはいけないと小さい頃から厳しく言われてきた。けれどためらったのはほんの一瞬で、兄たちには自分たちの女神がそのようなことでお怒りなるはずがないと信じられた。「ご加護を!」と叫んで彼らは共に飛び込んだ。
それはそれは深い青の世界だった。どちらが上でどちらが下なのかわからなくなりそうだ。青いドレスを着たロディーヌはその青の奥へとどんどん吸い込まれいく。ともすれば見失ってしまいそうだ。きらめく彼女の髪だけが頼りだった。キャメオンたち三人ははぐれないようにしっかり手を繋ぎ、その光を必死で追った。
彼らの願いが通じたのか、思うよりも早くキャメオンの手がロディーヌを捉えた。アドランも力一杯手を伸ばし、彼女の反対側の手を掴んで四人は輪になった。ロディーヌが気を失っていたらと心配していた兄たちだったけれど、彼女はしっかりと目を開いていて、兄たちを見つめ返した。
リーディルがそんなロディーヌに頷きかけ、絶対に離すものかと四人は手を握りしめあう。けれど気がつけば彼らを取り囲む青はさらに深くなり、もうどちらに向いているのかわからない。
しかしその時、四人は見たのだ。まっすぐに自分たちに向かってくる何かがあった。
それは、青く美しい爪を持った一本の腕だ。どこからともなく伸びてきた白い腕は彼らを抱きとめた。さらに現れたもう片方の腕が、細くしなやかな指先で、遥か彼方のきらめきを示した。次の瞬間、四人は優しくその光に向かって押し出される。アドランが力強く水を蹴り、三人を引っ張り始めた。彼らは全力で頭上の光を目指した。
ついに水面が割れて空が見えた。潜っていた時間はほんのわずかなものだったのだろうか、不思議なことに四人はさほど息を乱すことなく戻ってこられた。素早く妹を岸に押し上がた兄たちが、次々と苔の上にはい上がる。最後に上がってきたキャメオンが声をかける。
「みんな大丈夫か」
「ああ、僕は大丈夫だ、アドランも。ロディーヌは?」
「うん、大丈夫。お兄さまたち、ありがとう」
「よかった、よかったよ」
珍しくアドランが涙声で呟き、ずぶ濡れの四人は抱き合ってお互いを確かめ合った。聖なる泉に落ちたこと、そこに潜ったこと、不思議な腕に導かれたこと。それは彼らの想像をはるかに超えた出来事だった。すべてが夢のようで、四人は呆然としたまま、しばらくその場を動けなかった。
けれど吹いてきた風に兄妹たちは震え上がる。柔らかく暖かいはずの風が恐ろしく冷たかったのだ。思ったよりも長い間、彼らはぼんやりしていたようだ。四人の体は冷えきっていた。と同時に現実が押し寄せてきた。彼らは今更ながらに、大きな安堵の息を吐き出さずにはいられなかった。
気がつけば日は頭上高く昇っている。もう昼だ。四人は慌てて靴を履き家へと向かった。
出来るだけ急ごうと、妹を気遣いつつも歩を早める。しかし、しばらく行くとロディーヌは歩けなくなってしまった。大きなショックと濡れた服の温度や重さが彼女から力を奪ってしまったのだ。
兄たちは順番にロディーヌを背負うことにした。申し訳なさそうな顔をする妹を、彼らは陽気な声で励ました。けれど最初は元気の良かった少年たちも、歩いて二時間の道を、濡れた妹を背負っての徒歩はさすがに堪えた。妹が風邪をひかないように少しでも早く家へ帰りたかったけれど、彼らもまた疲れ果てていたのだ。途中で何度も休むことになり、日はどんどん傾いていった。
光の中に赤いものが混じる時間になった頃、ようやく家が見えてきた。兄たちはもう妹を背負うことができなかった。けれど兄たちの背でうつらうつら眠り、元気を取り戻したロディーヌが歩けるようになったため、ふらつく彼女を支えながら、四人は最後の力を振り絞って、必死で家への道を進んだ。
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