19 「蛇殺しの女」




 教室の喧騒が、廊下にまで聞こえてくる。


 祥子は、一学年上の教室が並ぶ三階を目指して駆けていた。




「待てェ! お前、何年何組だ! ——いや、そもそもお前はうちの生徒なのか!?」




 生活指導の教師に追われながら。


 運悪く、こんな日に限って校門で服装検査などやっていたから、松に頼んで校舎を囲む壁を越えて侵入したのだ。


 最初は、上手くいっていた。


 あの目ざとい生活指導——確か、カオリたちのクラスの担任だ——が、いきなり振り向いたと思った瞬間、猛烈な駆け足で追ってきたのだ。


 可愛い生徒が怪我の痛みを堪えて走っているというのに、まるで手加減無しに追い掛けてくる。




「あの恰好、演劇部か……? いや、あんな髪型の生徒が居た記憶は……」




 後ろから、戸惑った声が聞こえてきた。


 幸いに、祥子の顔は割れていないようだ。


 後ろ髪も、八生のでばっさりと短くなっているから、あまり面識のない二年の担任には見分けは付かないだろう。


 あとは、どうにか上手く逃げ切るだけなのだが、それが一番難しい。


 カオリたちの担任を任されているだけあって、身体能力も、持久力も祥子とは比較にならない。


 して、こちらは手負いだ。


 まともに走っていれば、まず逃げ切れない。




(だったら——ここでしか……!)




 懐には、松から借り受けたままの鉄扇がひそませてある。


 焦りから最悪な一手を打とうとしかけた祥子の眼前に、つと人影が飛び込んできた。


 服装検査のために校門に設置する机を、生徒会の面子が運ばされている。


 長机は、前後を二人で抱えられていた。


 それが、見える限りで五、六台。


 少なくとも、廊下の端から端を塞ぐには十分だ。




「天佑は、未だ我にあり——!!!」




 気勢を上げて、祥子が行列に向かって加速する。




「な、何だ!? 着物の女子と、生活指導の大塚が突っ込んでくるぞ!?」



「あの女子、あんなカッコで校門を突破したのか!? クレイジーすぎるだろ!?」



「着物ォ!? どうせなら巫女服で来てくれよォ! その方が眼福だったのに!」




 誰がクレイジーだ。




「ってか、ぶつかるって!?」




 まったく減速せずに行列に迫った祥子が、衝突の寸前に姿勢を下げた。


 足先から、滑るように机の下を潜り抜ける。


 勿論、巫女服フェチと思しき男子生徒のすねには、すれ違いざまに肘を見舞っておいた。


 人の気も知らないで!




「うわっ!? すげー! インディかよ!?」


いったッ!? え、何で俺だけ殴られたの!?」




 動揺した生徒会連中が足を止めたことで、廊下に即席の壁ができる。




「あっ! おい待つんだ! むう、忍者かあいつは……!」




 大柄な大塚教諭には、机の下を潜るなんて真似はできないだろう。


 その隙に、祥子は死角に入って大塚の視界から姿を消した。


 そのまま、三階まで駆け上がる。






「……? ……ッ!? えっ!? ショーコ、か!?」






 廊下に出たところで、見事な二度見を披露した唯と出くわした。


 ここで会うということは、おそらくカオリたちへあいさつに出向くところだったのだろう。


 こういうときは、焦った方の負けなのだ。




「チャコちゃん。おはよう」


「お、おはようって、お前……色々とどうしたんだよ?」




 信じられないものを見る眼で、唯が問い掛けてきた。


 数日前まで大人しい地味女子だった友達が、いきなり髪を切って制服を改造するどころか着物姿で現れたら自分でも困惑するに違いない。


 唯の気持ちは痛いほど分かる。


 だが、親友にクレイジーだと思われるのは御免だ。


 なんとかここは誤解される前に弁解をしたい——






「まさか、入院中に脳の手術でもされたのか……?」




「いきなりマクマーフィー扱い!?」






 親友から精神病院カッコーの巣帰りと疑われるほど、自分はクレイジーに見えるのだろうか。


 祥子は少し傷付いた。




(チャコちゃんの馬鹿……ロボトミー手術したら、むしろ大人しくなるし……というか、またジャック・ニコルソンだし……!)




「誤解だよ! お願い! 話を聞いて、チャコちゃん!」



「いや、誤解っていうか……えっ、こっから挽回する気?」



「これは、違くて……その……そう、制服がね。あの、朝起きたらちりになってたから……!」



「どういう状況!? 塵ってなんだよ!? 燃えたの!?」



「それで、他に着るものが無かったから……!」



「お前は今、めちゃくちゃ厳しい戦いに自分を追い込もうとしてるのに気付いた方がいい」



「だから、好きでこんな恰好して学校に来たわけじゃないというか……!」



「ええー……それじゃ、その頭どうしたんだよ? ばっさりいっちゃってまァ」




 かつてないほどドン引きした様子の唯が、祥子の後ろ髪を指さした。




「こ、これは——」



「まさか、イメチェンだとか失恋だとか言わねェよな?」



「——朝起きたら、こうなってたの!」



「嘘つくんじゃねェよ!!! なるわけねェだろ! なんで先の嘘も通ってないのに重ねてくるんだよ!?」




 もう取り返しのつかない戦況になってきた気がする。


 親友に心配をかけまいという気遣いが裏目に出るとは……!




「嘘じゃないよ! 信じて!」


「仮にほんとだったら怖すぎるだろ! あたしの手に負えねェよそれ! あんま覚えてないけど、花子さんとか呼んだ方がいいやつじゃん!」




 まずい、このままだと自分はクレイジーなだけでなく「ドンドコドンに後ろ髪を刈られた」なんてのたまっている女子だと誤解されてしまう。



 それって結局クレイジーなのでは、と思ったが、祥子はそれ以上考えるのを止めた。




「——ったく、もういーよ。退院はいつになるか分からんって聞いてたけど、こっそりガッコに来てあたしらを驚かそうって腹だったンだろ? その恰好も。……しっかし、お前もこんなところであたしに見つかるなんて、ツイてねェな」



「うん全くその通りだよいやー参ったツイてないチャコちゃんは鋭いなー」




 腰に手を当ててやれやれと呟いている唯に、祥子は全力で乗っかった。


 よく分からないが、自分が思考停止している間に、唯は都合のいい勘違いをしてくれている。


 ここは、このまま勢いで乗り切るべきだろう。




「そ、そういうことだから! 早くカオリさんたちを驚かしに行こう!」


「おい、引っ張んなって。分かったからヨ」




 唯の手を取って、カオリたちが所属しているC組へ向かう。


 祥子が焦っているのは、何も唯が冷静になったらどうしようというだけではない。


 時間を掛ければ、C組の担任である大塚が朝礼のために教室にやって来てしまう。


 そうなれば、また鬼ごっこの始まりだ。


 次に全力で走ったら、半々くらいの確率で腹の傷が開く、という自信があった。




 朝のホームルームには早いが、廊下は登校してきた生徒でそれなりににぎわっていた。


 見渡したところ、顔見知りの先輩は居ないようだが、それ以上に違和感が眼に付く。


 どうして、みんな壁や窓を必死に眺めているのだろうか。


 友達同士で話している者も、不自然に目線を逸らしながら、やけに大声で会話を途切れさせないようにしている。






「もー、チャコちゃんが怖いからって、先輩たちみんな見ないふりしてるよ?」



「現実をみろ、ショーコ。明らかにあたしじゃなくてお前が原因だろ」



「まさか。チャコちゃんもいじわるなんだから。私なんて、目立たなさ過ぎてクラスから居ない者扱いされてるくらいなのに」



「微妙に真実を混ぜた嘘までついて否定するな。朝一のガッコに、そンな恰好した女が立ってたら誰でも関わりたくねェだろうが」






 唯の言っていることは支離滅裂で、要領を得ない。


 注目されて恥ずかしいからって、人のせいにするのはよくないだろう。


 ここは、親友としてしっかりと注意せねば、と口を開きかけたところに、唯が続けた。




「いや、あれから一週間だからな。流石に、その恰好のせいだけとは言えねェか」


「? 何、言って——」




 隣に眼を遣った拍子に、反対側から教室を出てきた先輩とぶつかってしまった。




「あっ、済みません。大丈夫——」



「ひっ!? 「蛇殺し」の——! わわわ、悪かった! それじゃ!」



「——でした……か……」



「それで、お前も眼ェ覚めたならあたしにくらい、連絡の一つや二つ寄越してくれてもよかったンじゃねェか? 一応、ダチなんだからさァ」



「待ってチャコちゃん!? なんで何事もなかったみたいに話題を変えたの!? 先にたった今起きた出来事について説明して!」




 顔を真っ青にして駆けて行った上級生を無視して、唯は照れたようなねたような顔を見せていた。




「いや、あたしも現場に居合わせてなかったから、何ともなんだけどヨ……」




 先輩が落としていった財布を拾い上げながら、唯が頭を掻いた。


 周囲からは、今の一件を見ていた生徒の声がひそひそと聞こえてくる。




「おい、見たか? さっそくカツアゲだぜ……」



「あァ、流石だな。復帰明け早々に二年の教室までたかりに来るとは」



「うわさじゃ、あの八生を半殺しにして単車で引きずり回したって話よ?」



「マジかよ。じゃあ、あの恰好はに服してるつもりなのか?」



「多分な。八生を殺しといて、嫌味いやみったらしく喪服で登校とは、えげつないクレイジーぶりだぜ」



「今年の一年はクレイジーな子が多いのねェ……」




 ばっと振り向くと、蜘蛛くもの子を散らすように廊下は無人になってしまった。




「どういうこと!? 根も葉もない私の悪評が広がりまくってるんだけど!?」



「いや、根も葉もあるだろ? カオリさんたちも、大体そんな感じだったって言ってたし」



「嘘だよそれ!? 私あんなことしてないもん!」




 呑気に突っ立っている唯の腕を掴んで、身の潔白を叫ぶ。


 自分の居ない一週間のうちに、何が起きたというのだ。




「へェ、じゃあ、本人の口から真相を聞かせてくれヨ。どうやって、あの八生をやったんだ?」




 ずっと気になってたんだ、と唯は歩き出しながら聞いてくる。




「どうやってって……それは——」



「それは?」



「——八生を路地に閉じ込めて、石とかレンチを二階から一方的にぶつけて、それから頭を鉄扇でガツンと」



「誤差じゃねェか」



「違うの! 私バイクの免許持ってないもん!」



「多分だが、否定するのはそこじゃねェと思うぞ」




 八生郁子が死んだのか、半殺しで済んだのかが重要なところだ。


 万一、先に短刀を回収されても、それ次第で話が変わってくるのだから。




「まァ、八生は普通に顔出してるらしいから、それについては怪しいうわさだな」




 生きていてくれたようだ。




「とにかく、お前も今や「」として人気急上昇中なんだ」



「その人気はできれば遠慮したいっていうか、あれは実質倒したのは朱音さんだし、漁夫の利だったというか」



「おかげで、お前を倒して名を上げようって連中が、梅田祥子を出せって押し掛けてきて大変だったんだからな」



「——私、冬休みまで入院する予定なんだ」



「治ったんじゃなかったンかい。心配しなくても、全員カオリさんたちがやっちまったヨ。お前が眼を覚まさないからって、あの人らもずっと苛々いらいらしてて——」




 唯の口ぶりからして、どうやらこの一週間は松が予測したものとかなり近い感じで処理されたようだ。


 カオリたちも、他校の不良相手に暴れられる程度には無事なのだろう。


 万が一、と思っていた緊張が、ゆっくりと解れていった。



 過去を変えた。



 すんでのところで、自分の足掻きが間に合ったのだ。



 自分の幸せだった居場所が、元に戻っている。



 カオリ。



 会いたいと、思った。



 そう思ったら、自然と足も速まった。



 まだ何かを喋っている唯の手を引いて、C組のドアの前に立つ。



 騒がしい声が、廊下にまで聞こえてくる。



 中で、カオリたちが騒いでいるようだ。



 はやる心を落ち着けて、勢いよくドアを開け放った。






「——お前、ショーコとキスしたってどういうことだコラァ……!?」




「——そっちこそ、何あたしよりも先にショーコに告白してくれてんだオラァ……!?」






 教室の中央に、カオリと朱音が居た。




 一時はもう二度と会えないと思っていた二人が、互いの胸倉を掴んでガンをくれあっている。




「ふっは! マジか、ショーコ。お前もやるなァ」




 衝撃の第一声に、隣に立っていた唯は噴き出していた。



 過去を書き換えて、運命を覆した果ての再会が——……!



 言い様のない感情を噛み締めている間にも、二人の取っ組み合いは一層ヒートアップしていく。




「しゃらくさい! お前をぶっ殺してショーコをあたしのもんにした方が早い!」



「くそったれ、同感だ! ただし、死ぬのはお前だがなァ! この強姦魔!」



「誰が強姦魔だコラァ——!!!」




 机やいすを引き倒しながら暴れ転げている二人を、クラスメートたちは止めるどころか、円になって見物に入っていた。



 朝から「いいぞ」怒号が「殺せー」響くこの光景が「本間に二〇〇〇!」彼女たちには「あたしにも梅田を寄越せー」見慣れたものだと「「今言ったのはどいつだ!!!」」言わんばかりの反応の早さだ。



 率先してはやし立てていた藍が、教室の入り口で呆然としている祥子に気付いて、輪の中から外れて近寄ってきた。




「おー、ショーコじゃねェか。眼ェ覚めたんか」


「あ、藍さん……あの、ご心配をおかけしたようで……」


「いいっての。そんなことより、退院できてよかったなァ」




 快活に笑う藍は、そのポケットから賭け金の札が顔をのぞかせていなかったらとてもいい人に見える。




「——ショーコ。くっく、お前、カオリと朱音に告白されて、一週間後に返事するって言ったんだってなだっはっはっは!」




 前言撤回だ。


 この先輩も悪い人に違いない。




「まさか、お二人はそれで……?」



「おう。朝から妙にそわそわしてるなと思ってたら、いきなりよ。お前の意識も戻ンねェうちに、何をやってんだと思ってたが……いや、実にいいタイミングだ。モテる女は辛いな、ショーコ」




 笑いを隠す気もない藍が、ばんばんと肩を叩いてくる。


 後輩の貞操の危機だというのに、完全に面白がっているではないか。




「——松様……ご賢察の通りでした……」




 過去は、変わった。


 そして、未来も。


 元通りの日常に帰るには、祥子はのだ。


 本来なら、想いの言葉を聞くこともなく幕を閉じていた、自分の青春。


 それが、ぎこちなくもつながれようとしている。




「ショーコの唇の感触も知らない雑魚は黙ってな!」



「うるせェ、レイプ犯が! あたしだって、もうちょっと押せば初めても狙えたんだ!」




 かなりゆがんだ形で。




「朝っぱらから、何を叫んでやがる、痴女どもめ」


「ほんと、品性を疑うっす」




 他人事だと思って、藍と唯は我関せずという態度を全面に出してきている。




「それで、ショーコよォ。お前、どっちにするんだ?」



「どっちって……」



「お前がきっぱり答えを出さねェと、あの二人は止まらんぜ」



「一週間後に返事しますって言っちゃったんだもんなァ。その場で振ってやればよかったのに」



「返事というか……改めて向き合いますって言っただけで、あの時は必死でしたし——お付き合いの返事をどうこうしようって気はなかったんです……そういうの、よく分からなくて」



「まー、それも分からんでもないがなァ。あたしだって、いきなり付き合えって言われても、「はあ?」としか思わん」




 藍が腕を組んで大げさに頷いた。




「でも、せっかく告白してもらったのに、おざなりな対応をするのもはばかられて……」



「気にしすぎな気もするがねェ。パワハラ先輩にレイプ先輩だぞ? 出るとこ出たら勝てるやつだぜ、こりゃあ」



「それは——そうですけど」



「そこはかばわねェのかヨ」



「無理もねェさ」




 二人の気持ちが嬉しい、というのは偽らざる本音だ。


 それ故に、分からなくなる。


 家族というだけでは、満足してもらえないのだろうか。




「ショーコは優しいからなァ。ほっときゃそのうち忘れそうなもんだが」


「流石に難しくないっすか? ショーコの気持ち的にも——」




 三人で妥当な落としどころを探っていると、ひと際大きな怒声が教室に響いた。




「——ショーコはあたしと付き合うって言ったんだ! 一週間待ったら〇〇ピーな恰好で〇〇〇〇ピーピーした上に、〇〇〇〇〇〇ピーピーピーなことまでしてくれるって! いっぱいしてくれるって!」




「嘘つくんじゃねェ! ショーコはあたしの女になるって言ったんだ! 一週間経ったからにゃ、〇〇ピーしながら、ぶっ倒れるまで〇〇〇〇ピーピーした後に、〇〇〇〇〇〇ピーピーピーしまくってあたし無しじゃ生きられなくしてやるんだよ! つまり! 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇ピーピーピーピーピーピーってこった!!!」




「あっ、お医者さんから電話が来たので私はそろそろ——」



「ショーコ、現実から逃げるな……!」



「やめて! 離して、チャコちゃん! 恋愛とか以前に、シンプルに貞操の危機を感じる!」




 まったく意味の分からない単語が羅列されていたが、本能的に恐怖を感じた。


 今すぐ逃げろと、身体が震え出す。




(無理だ! あれは家族なんて立場で甘んじる眼じゃない!)




 脚が、脚がすくむ。




「きっしょ」


「ドン引きだわ」


「淫行で捕まればいいのに」




 藍と一部のクラスメートから、蔑みの視線と声が飛ぶ。



 とにかく、無事な姿は確認できたのだ。



 本当なら、駆け寄って積もる話の一つや二つしたかったところだが、あの様子ではそれも難しいだろう。



 この件は、持ち帰って松との協議に掛けよう。



 叫び続ける本能に大義名分を与えて、祥子は教室を後にした。

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